第6話:3分間の真意
「いいえ、分かりませんわ。家族はどこかに行ってしまった、ということしか私も知りません。」
と私は言い切った。体内の循環する血流が生々しく感ぜられるほどに、この数瞬が長かった。頭上の人工太陽が白磁の肌の瑞々しさを枯らすように眩く照らし、閉所魔法で周りの空気が循環せず、高温多湿、私は身体中からダクダクと汗を掻き続けていた。服と肌がヌチャヌチャと擦れて、気持ち悪いほどであった。
この数瞬の後も、私に刻まれた魔法の紋は全く沈黙していて、緑色に発光する予兆も無かった。心の中で、ほっと安堵した。
「チッ……」
と、勇者様は分かりやすい舌打ちをなされた。
私は、勇者様との「幼馴染を救う」というご約束が破られてから、両親が殺害されるかもしれないと直感した。だから私は、
「両親をできるだけ遠くにやってほしいの。私が全然知らない所に、私が二度と会えないような場所にお願い。報告は不要よ。」
と使用人ちゃんに伝えていた。これが本当に功を奏した。両親が行方不明なことが、死んでいないことの証左になるのであった。
「では、君は使用人やマザー、或いは周囲の者に何か頼んだか?正直に答えよ。」
「勇者様。私はいつでもあなた様に対して正直であり、誠実です。私の口からは真実しか告げることはできません。嘘偽りをあなた様に申し上げることは、実質的にできません。そして……」
と皮肉から始めると、勇者様の質問に返答しようとしたその前に、勇者様は手のひらで何かを掬い上げるような動作をなさった。私の頭上の人工太陽の強度が上がった。太陽が、更に強く光り出した。黄色から白色へと変わる。石の床の上で正座して、縮こまっている聖女の姿態は、より眩しく、より照らされ、より焼かれた。聖女だから、身体に傷ができても、何事も無かったかのように全て回復してしまう。それが反って、死ぬまでは何をされても元に戻るという一種の非倫理的な情欲を、人間に呼び起こすのだった。
熱い。私は、虚偽の言葉を吐けない状況で、正座をする脚の痛みに耐えながら、
「本当ですっ!私の両親の行方は、私も知りません!私は、会えないことに悲哀を感じています。その感情さえも嘘偽りだとお思いですか……!?」
と、半ば叫んだ。暑さに微睡み始めた。赤い唇から涎が垂れて、目は潤んでいた。私は誰にもそんな痴態を見せたくなかった。家族にもだ。そんな年齢だ。それでも、勇者様はお許しにならない。
「私はこのことで、周りの使用人や聖職者にお願い致しました。『どうか、私の両親の場所をお探し頂けませんか?』と。」
使用人ちゃんには、後からそのように私が質問すると伝えておいた。無視して欲しいとも伝えておいた。使用人ちゃんの、悲痛な表情が脳裏にこびりついて、今も思い出してしまった。「聖女の嘆きのような懇願さえ、受け入れてはいけないのですか?」と。それでも私は「心を鬼に」と伝えた。これで、使用人らへの私の頼みは、「聖女の家族を探すこと」に上書きされた。少なくとも、嘘ではない。紋も反応しなかった。
「この嘆願の言葉でさえ、無視されましたよ。私に人徳は無いんです。勇者様。私に構っても、益などありません。」
最大限、私は自分を卑下した。価値のない女に構うほど、勇者様はお暇ではないのでしょう?私を愛しているのではなく、私を虐めたいのでしょう?私には、虐める価値さえ無いのです、と暗にお伝えした。
「舌を見せろ」
私は瞑目し、大人しく口を開いた。そして、舌を大きく前に出す。歯並びは整っていた。口蓋垂は綺麗に下垂していた。その奥は真っ赤で、水を求める喉の動きまで見えた。舌の先の涎が、庇に垂れた一滴の雫のように、ゆっくりと、ゆっくりと落下し、ピチャっと音を立てて灰色の床へ、それから蒸発していった。今朝に食べたジャムの臭いがした。
唾液に塗れた舌の上にも、緑の紋が蔦のようにできていた。勇者様は私にお近づきになって、私の舌を指で挟み、更に口の外へと引っ張った。勇者様の指先の汗が、舌を通って喉の奥へ。私はその水滴の感触に瞼をピクリと痙攣させて、それからコクリと小さく飲み込んだ。舌がヒリヒリして、早く引っ込めたかった。戻そうという抵抗はしなかったけれど、勇者様のお力は、私の舌を外に出しておくままにするためだけに加えられていて、私の舌の非力さは全く役に立たちそうになかった。ピチャピチャという涎と汗の混ざる水音、そして甘酸っぱい臭い。舌の様子を確かめるように手指は出入りし、何度も、何度も太い指が舌の床を水気を帯びてなめらかに滑った。人差し指で口蓋垂をピンと弾いて、喉奥の赤い皮膚まで目指そうとした。手も奥の方へ入ってきて、その太いのが歯の辺りまで来ようとするから、更に大きく開口しなければならなかった。眉間の皺を強く寄せて、「うっ」とえづいた。濡れた指の感触が脳の中を弄るようで、気持ちを悪くさせた。後ろ手は、更に強くギュッと握る。されるがままに、上目遣いで勇者様のお顔を拝見するしかなくなった。
舌の上の紋も発光してはいなかった。確かに私は、嘘はついてはいなかった。契約規則の隅をつついて、ぬけぬけと答えただけだった。
幼馴染のあの子が死んだ翌夜から、私は堕ちてしまった。行動は確かに自由である。洗脳も身体操作もされていない。それでも私は、勇者様に逆らえない。
「契約魔法において、非倫理的な契約の締結は不可能である。」
この有名な文章の枕詞には、「何度も契約を重ね掛けしなければ」「行使する者が強大な魔力を有していなければ」がつく。勇者様がお使いになれば、それを受けるのが聖女であれば、効果は絶大なものになるのであった。私は幼く、馬鹿であった。世界というものが自分の思考領域よりも更に広いのだ、とその時初めて悟感した。
・聖女は契約や規則に違反する行動も言動も可能である。
・ただし、聖女が契約や規則に違反した場合、それは即座に勇者に発覚され、呼出され、新たな契約又は規則が1つだけ作られ、追加される。
・勇者様には常に虚偽を働いてはならないこと。
勇者様はあの夜、たった三つ、この規則を私にお与えになった。たった三つである、私の舌を自由にいじくられている、この時に比べれば。勇者様は、私の身体や精神を、完全に封じ込めようとはなされない、つまり、私が規則にただ遵守するだけの、無抵抗な自動人形のようにはさせない。2番目の規則のように、私に自由な行動と言動をお許しくださる。主体はあくまでも私である。従って、規則を守るように行動しなければならないのも私である。汗と涎と体液で汚れて、惨めに、しかし従う。従順のための行為を、私が思考し、実行する。勇者様を尊崇するための言葉を毎朝、毎昼、毎晩言う。規則と命令に、身体をくねらせ心を抑え、服従と隷属を示した。意識しなければならない、常に規則を。常に規則を守らなければ、また勇者様が厳しい規則をお作りになる。勇者様の頭部がお下がりになれば、私の頭は更に下に、そして最後には床へと向かう。私がいざ寝ようとした時でも、勇者様の部屋へのお呼び出しがあった。寝た後でも、夜に覚醒させられ、私は勇者様の部屋を訪ねなければならなかった、見る夢さえも耽美なものに変えてくださった。ある日から、私は勇者様の部屋で正座することを許された。その場所も石の床の上と規則で決められた。この部屋に来る時の服も、正座の際の脛の肌が、直に石面に触れるようにして、自重を直接支えるように、白衣は膝上丈のものに、と規則をお作りになられた。その聖服は、無袖のままである。今、口にある指が、あの時、私の片腕を優しく沿っていった。ネックレスを編む魔法を使う方の腕だ。それは感触の確かめであった。片腕は柔らかに噛まれた。
その後、呼び出されるのを固辞するために、トイレに籠もったこともあった。私は泣き叫んだ。しかし、そんな抵抗は無意味で、他の使用人が何かとつけて外へと連れ出して、勇者様の部屋に伺わなければならなくなり、そうして、その生理的欲求の、時間や回数さえも制限が設けられた。早朝の、誰も居ない聖女の寝室で行う独り跪拝は、意識途絶か呼吸困難の寸前まで続ける日課に、勇者様がしてくださった。昼夜はなかったから、これも勇者様の御慈悲であった。
私はダラっと項垂れた。強制されない奉仕。額から嫌な汗が流れた。ごくりと生唾を飲んだ。規則を守る憐れで惨めで必死な様相を、勇者様は片肘をついて、口角を上げてご覧になっていた。
何度もお呼び出しがあった。50以上の規則が作られた。日常平素に関することもだ。それを必死に、この稚拙な頭に叩き込んだ。ほら、あなたも分かるでしょう?私が今も、こんな素晴らしい規則を守っている、悲惨な有り様の玩具であると。勇者様への言葉は、心中でさえも、今この瞬間も、ちゃんと、敬語にしていますもの、最初の聖女の嘆願とは違って。これも、お作りして下さった、規則の1つ。発言は当然、心の中でも思考の際も、勇者様に対して敬語を使わないと、また歪な……あっ、違う、いいえ、そうじゃなく、「素晴らしい」規則を、勇者様がお作りになられるのです。……歪なんて思っていません。本当です。勇者様とお会いすることができるだけで拝謁至極でございます。嘘じゃありません。信じてください。規則の1つ1つが素晴らしく、私はそれに身をやつすことだけに喜びを感じています。契約の違反なんてもう致しません。規則の違反も二度としません。許して下さい。私は感謝の念しかありません。規則を遵守させて頂ける、わたくしの幸せの極致であります。本当にありがとうございます。
しかし、私の舌の紋が鈍く黄緑色に光った。私がほんの一瞬、舌を出すのに疲れてひっこめようと力を入れたせいだ。或いは、思念の際に、「歪」という一文字を覚えてしまったからかもしれない。これから始まるのは、抵抗という重罪の代償であり、勇者様の慈悲だ。勇者様の方へと目線を向けた。瞳はきっと、泳ぐように震えていたはずだ。勇者様はご満足げにお笑いになっていた。
「さて、規則の追加だ。」
私の両目は、再び潤んでいた。規則を新たに追加するまでの3分間は、規則違反をしても、契約魔法としては違反に当たらなかった。身体がフッと軽くなった。縛っていたものがなくなった。私は正座をしたまま、無理矢理に身体を捻って、舌を勇者様から……いえ、コイツから、自身の元へ取り戻した。コポリと湧き出た唾液が、口の横から伝っていった。忌々しく硬い掌と、私の歯舌との間が、透明な涎の糸を引いて、ツゥーっと繋がった。
「あなただけは、許さない……!こんな、低俗なことを私にさせて、何が楽しいのよ……!!」
と、私は荒げた。肩で息をして、長々とは話さなかった。顔面は紅潮していた。服も乱れていた。
眼前のこの鬼畜は、もっと狂えと命じるが如く、独りの女子に奴隷事をさせていく。コイツは仮にも勇者よね?聖書の説く美徳というものを知らないのか。若しくは、私は美徳を与えるべき者ではないと、そうでなくとも、聖女のことを、無償無限の許容存在であると思っているのか。侮辱的なことをさせる。意地も悪い。今も、絵に描いたような腹を抱える嘲笑をする。コイツは、いえ、勇者様は、聖女である私と勇者様との隔絶した上下差、下の下の更なる下の、最下層の地位である、と私に断定するように、私の下卑た姿態をひと思いに笑って下さる、本当に、ありがたいことです。
そうして私はこの日から、新しい規則として、マザーの部屋に行くことができなくなった。動向は監視されていた。




