第10話:有酸素運動と、勘違いのベテランたち
市場からの帰り道、夕暮れ時の細い路地。 シャナが短剣の柄に手をかけ、気配を殺したまま囁いた。 「……止まりな、ミスター。袋小路に誘い込まれたよ。後ろにも三人、前には二人。退路は断たれたね」
俺は立ち止まり、背後の気配を広背筋の微振動で感知した。確かに、鉄錆の匂いと、荒い鼻息が路地に充満している。
「おい、新人の筋肉ダルマ。運良くエンペラーを仕留めたからって、いい気になってるんじゃねえぞ」 前方から現れたのは、フルプレートに身を包んだ大男と、杖を構えた魔導士。ギルドで何度か見かけた、中堅どころのベテランパーティだ。
「……何のことだ。俺は今、摂取した卵と肉のエネルギーが肝臓で代謝されるのを待っているところだ。邪魔をしないでくれ」 「わけのわからないことぬかしやがって! 借金を半分返した程度で最上階の特別室だと? しかもそんな美人とガキを囲いやがって……ギルドの序列をわからせてやるよ!」
リーダー格の戦士が、身の丈ほどもある大剣を抜いた。 イリスが「ひぇっ!」と俺の背中に隠れるが、俺は静かに太陽の沈み具合を確認し、満足げに頷いた。
「……ちょうどいい。食後のカーディオ(有酸素運動)のメニューが決まらず、少し脂肪の蓄積が気になっていたところだ。お前たち、俺の『ペースメーカー』を務めてくれるか?」
「あぁん!? 死にたいのか、この野郎!」 戦士が怒号と共に大剣を振り下ろす。だが、俺は動かない。 いや、動く必要がなかった。
「心拍数を120から130のレンジに保つ。それが脂肪燃焼の最適解だ」
俺は、大剣が鼻先をかすめる寸前で、最小限のウィービング――上半身を振る回避運動――を行った。 「遅い。もっと心拍数を上げろ。そんなスイングでは、俺の酸素消費量は増えないぞ」
「この、チョコマカと……! 『ウィンド・カッター』!!」 後方の魔導士が、不可視の真空刃を放つ。 俺はそれを、軽やかなサイドステップと反復横跳びを組み合わせた独自のフットワークで回避した。
「右、左、そしてステップ。いいリズムだ。このリズムを維持すれば、毛細血管の隅々まで酸素が行き渡る」
路地裏で繰り広げられるのは、戦いではなかった。 一心不乱に剣を振り、魔法を放ち、肩で息をする冒険者たち。その中心で、汗一つかかず、軽やかにステップを踏み続け、時折「正しい呼吸法」を実演してみせる筋肉の塊。
「……ねえ、リリィさん。おじさん、何やってるの?」
シャナが、あまりに一方的な光景に、抜こうとしていた短剣を鞘に戻した。
「……おじさん、相手のやる気を爆発させてる。あれ、一番屈辱的なやつ」
リリィは、市場で買った串焼きの肉を頬張りながら、冷めた目で観戦している。
「あ、あ、当たらねえ……! なんで指一本触れられねえんだよ!」
15分後。戦士たちは膝をつき、酸欠で真っ青な顔をしながら、よだれを垂らして地面に突っ伏した。
「ふぅ……。素晴らしい。全身の血液が循環し、脂肪が燃焼していくのを感じる」
俺は満足げに、はち切れんばかりの大胸筋を一度大きく収縮させた。
「お前たちのスタミナ不足は深刻だ。これでは、戦闘以前に『健康維持』すら危うい。次に俺のペースメーカーを務める時は、もっと心肺機能を強化してから来るんだな。肉を食え、肉を」
「……バケモノめ……」
戦士たちは震える声でそう言い残すと、這うようにして路地裏から逃げ出していった。
「ミ、ミスター。あいつら、明日からギルドで顔を合わせるたびに泣いちゃうわよ……」
イリスが呆れ果てて天を仰ぐ。
「構わん。正しい運動の後には、友情が芽生えるものだ。……さあ、有酸素運動は終わった。次は帰って、筋繊維の修復(夕食)の時間だ」
俺は、逃げていく彼らの「背中の筋肉」に心の中でダメ出しをしながら、意気揚々とギルドへの道を歩き出した。 筋肉という名の物理は、時に暴力よりも深く、相手の心を折るのである。




