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第11話:女神の落涙と、鋼の温もり

ギルド最上階、三人気用特別室。 昼間の喧騒が嘘のように静まり返った深夜。リリィとシャナがそれぞれの部屋で泥のように眠りについた後、広いリビングには、月明かりと、微かな呼吸の音だけが残っていた。


その音の正体はとある男女のものである。









そう、俺のスクワットの呼吸とそれを眺めている俺のガイドのものだ。


俺はバルコニーで、冷たく澄んだ夜気を肺いっぱいに吸い込み、スロースクワットを開始した。 一回、一回、自重の負荷が大腿四頭筋に食い込んでいく。筋肉が熱を帯び、細胞の一つ一つが月光を浴びて活性化していく感覚。この静寂の中に、俺の規則正しい呼吸音だけがリズムを刻んでいた。


「……ねえ、ミスター。あなたは怖くないの?」


ふいに、背後のソファーに座っていたイリスが声を漏らした。 いつもの軽薄な、天界の威光を振りかざすような調子ではない。夜風に吹かれれば消えてしまいそうな、脆く、透き通った響きを含んだ声だった。


俺は膝を伸ばしきらず、負荷を逃さないまま答える。 「何がだ。適切に追い込み、適切に栄養を摂れば、筋肉は絶対に裏切らない。恐怖を感じる隙があるなら、あと一回レップ数を増やし、脳を筋肉の収縮だけに集中させるまでだ」


「そういうことじゃなくて……」 イリスは自嘲気味に笑い、手元にポッと灯した小さな、頼りない神聖力を眺めた。


「私は、女神よ。本来ならこの世界を導き、迷える人々を救うために降りてきた。でも、実際はどう? 借金に追われ、投獄部屋にぶち込まれ……今はあなたの『筋肉のサポーター』みたいな扱い。神界では、きっと私は『最も無能な神』として、歴史に名前を刻んで笑われているわ」


彼女の指先で、淡い光が小刻みに震えている。 神としての権能を失いかけ、捧げられる祈りもなく、ただの「顔が綺麗なだけの居候」になりかけている自分への焦燥。誇り高き女神の心が、異世界の現実に削り取られていた。


「私の力なんて、あなたの拳一つよりも無力。……私がこの世界にいる意味なんて、本当にあるのかしら。いっそ、魔王軍がここを飲み込む前に、私だけ見苦しく天界へ逃げ帰ればよかったのよ」


ポツリと、彼女の頬を月光が照らし、一筋の涙が伝った。 その姿は、確かに人間とは一線を画す神々しい美しさを持っていたが、同時にあまりにも脆く、今にも崩れそうな硝子細工のようだった。


「……まったく、イリスは何もわかってない」


俺はスクワットを止め、バルコニーから部屋へ戻ると、彼女の前へと歩み寄った。 そして、涙を拭うような器用な真似はせず、ただその巨大な、節くれだった俺の手を、彼女の小さな頭の上に無造作に置いた。


「重っ……!? 何よ、励ますつもりなら、もう少し優しく、そっと……」 「イリス。筋肉には『スタビライザー(安定装置)』という役割があるのを知っているか」


「……は? スタビ……何?」 涙を浮かべた目で、彼女が呆気にとられたように俺を見上げる。


「主働筋がどんなに強くても、それを支え、関節の揺らぎを抑える補助筋がなければ、骨格は崩れ、その力は正しく伝わらない。……俺にとって、お前はそれだ」


俺は彼女の細い肩に、わざと力を込めずに手を添えた。25歳の男の手としては、あまりに武骨で大きな掌だ。


「俺の筋肉は、この世界の不条理を粉砕するためにある。だが、粉砕した後の『正解』を、俺は知らない。俺が迷わず拳を振るい続けられるのは、隣でうるさく騒ぎながら『こっちが正しい道だ』と言い張る、お前という補助筋ガイドがいるからだ」


「……私が、補助筋? 唯一無二の女神を筋肉の一部みたいに言わないでよ」 イリスは呆れたように鼻をすすったが、その瞳からは、先ほどまでの暗い悲壮感が消え失せていた。


「お前がいなければ、俺はただの暴走する質量の塊だ。女神としての奇跡など、二の次でいい。お前がただそこに立っているだけで、俺の体幹しんは安定する。お前は俺の肉体が求めた、不可欠なパーツだ」


「……ふふ、最悪の口説き文句ね。25歳にもなって、筋肉に例えないと愛想も言えないの?」 イリスは可笑しそうに笑うと、俺の手をそっと払い除けた。だが、その瞳の奥には、再び小さな、しかし消えない「神としての矜持」が再点火していた。


「わかったわよ。そこまで頼りにされたら、この私が逃げ出すわけにいかないじゃない。……感謝しなさいよね、ミスター。あなたの人生の『スタビライザー』は、世界で唯一、この私なんだから」


彼女はそう言うと、少しだけ赤くなった顔を隠すようにソファーから立ち上がり、自分の部屋へと足早に向かった。 扉が閉まる直前、重厚な木材を透過して「……おやすみなさい、私の筋肉だるま」という、小さな囁きが聞こえた。


俺は再びバルコニーへと戻り、夜空を見上げた。月は、いつの間にか先ほどよりも高く、明るく輝いているように見えた。


「……さて、支えが安定したなら、もう1セット追い込むとするか。大腿四頭筋がまだ泣き言を言ってない」


女神の涙は乾き、筋肉の夜は深まっていく。 凸凹なパーティの絆は、ただの利害関係を完全に超え、より深く、強固な「組織ユニット」へと変質し始めていた。

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