退場はあっけなく
幽霊が成仏したことにより、隼人たちは再び平和な我が家を手に入れた。
安心した二人はテーブルの上の片付けを手早く済ますと、寝支度をして隼人はベッドに横になり、テリーはテディベアの姿に戻って定位置のタンスの上に登って横になった。
えっちゃんはというと、テーブルの上の片付けを手伝ってから帰っており、家の中にはもう隼人とテリーしかいない。
常夜灯の灯りが優しく部屋を包む。
時計は既に三時を回っており、二人はすぐに寝息をたてた。
二人が寝静まって三十分程した頃、部屋の片隅が薄らと光る。その光は鈍く、汚らしく白濁していた。
汚い光は人の形になると、足音を立てることなく隼人の側に立つ。すると、光の形は少しずつ鮮明になっていき、ついには数時間前に成仏したはずの女の姿となる。
女は隼人を見下ろすとにこりと微笑む。しかし、その笑顔は先ほど隼人に見せたものとは大きく違った。
眼球は全て黒く濁っていて、開いた口にはぬらぬらと光って唾が何本も糸を引く。口の端からはだらしなく涎が垂れており、清潔感とは無縁の存在となっていた。
女は隼人に顔を近づけると、大きく息を吸い込んだ。
はあぁぁぁぁぁぁぁぁ…………
恍惚とした表情で女は息を吐き出す。
顔を赤らめ不気味な笑みを浮かべながら、女は自分自身を強く抱きしめる。
「やっぱり、諦められない。一緒に行きましょう」
女はそう言うと隼人の首に向かってゆっくりと右手を伸ばす。鋭く長い爪が隼人の首に迫る。
「演技派やねえ。自分、女優にでもなれるんちゃう?」
女の爪の切先が隼人の首にに触れかけた時、嘲笑うような声がした。
女はびっくりして伸ばした手を引っ込めて周りを見渡す。
ぽてぽてぽて……
常夜灯に照らされながら、古びたテディベアが女に向かって歩み寄る。想定外の事態に女は戸惑いを隠せない。
「あんさ、なんでバレへんと思ったん? ここおれの家やで?」
問いかけられるが女はなにも答えない。いや、正確には答えられなかった。何故なら女は何故バレたのかが全く見当がついていなかった。
女は気配を完全に消していたし、物音一つ立てていない。
ため息はついた、しかし、それほど大きな音ではないし、隼人の寝息の音と大差はなかった。
目の前のテディベアを見るにため息の音で起きたような口ぶりでもない。となると考えられることは一つ。こいつは自分が来ることをわかっていたんだと女は理解した。そしてそのことにえもいえぬ恐怖を感じた。
「答えてくれへんの? まあ、ええわ。別に聞く気もあらへんし」
ゆっくりと女の足元まで近づくテディベア。小さな存在なのに、自分が見下ろしているはずなのに、女は自分がテディベアに見下ろされているような感覚に襲われた。
圧倒的な存在感を放つテディベアを前に、女はわなわなと膝を振るわせながら後退りをした。
「まあ、でもおれも鬼やない。自分が言うことを聞いてくれるなら、今回は見逃してやってもええで?」
女を見上げながら言うテディベア。その顔には余裕があり、笑顔すら浮かべている。
独り言のように「『仏の顔も三度まで』って言うしなー」と言うテディベア。可愛らしいぬいぐるみなのに、部屋の中が暗いせいで通常より顔に影が濃く入ることでどこか陰鬱とした雰囲気を漂わせている。
「はよここから消えろ。そんで二度とおれらに関わるな。そんなら今のは見んかったことにしたる」
女はそんなことで許されるのかと驚いた。でも、悠長に驚いてもいられない。ここでテディベアの気が変わられても困ると思い、女は大慌てでテディベアの言葉に首がおかしくなりそうなぐらい激しく何度も頷いた。
慌てふためく女を見て、テディベアは満足そうに「物分かりがええやん。そういうとこ、嫌いやないで」と言った。
「そや、あんた、隼人をつけてくる時に赤いワンピースの女見た? 隼人が近所でよく見るって言っててなんか引っかかるんよな」
テディベアの質問に女は首を横に振る。女には心当たりがなにもない。でも、それで目の前のテディベアの機嫌を損ねたら消されるかもしれない。女は目の前のテディベアに対して恐怖を抱いていた。
「そうか、それは残念やな。でもしゃーない、ほなはよ行き。もう来んなよ」
テディベアに言われ、女は胸を撫で下ろす。恐怖心のせいで体を少し震わせているが、一刻も早くこの場を去るため目を閉じた。
「……とでも言うと思ったか?」
暗闇の中、テディベアの笑みが深まる。
女は危険を察し目を開ける。しかしすぐに困惑した。
目の前に見えたのは暗闇だった。
慌てて見回し状況を把握しようとするが、状況を把握する前に一瞬で全身が闇に包まれる。
ぱくん
軽くて乾いた音が一度だけした。
それほど大きな音でもないので隼人は起きることもなく、なにも反応しなかった。
「おれは仏ちゃうからな。人のおもちゃを壊そうとする奴は自分が壊されるのも覚悟しとかんと……って聞いてないか」
テリーの前では女が膝から崩れ落ち、口から泡を吹いていた。白目をむいていて完全に気を失っている。
「えっちゃん」
テディベアが呟くと、テディベアの背後、床から音もなくレザースーツを着た女が片膝立ちで現れる。
「こいつの処分を頼めるか? 自分とこの部隊で鍛え上げてもいいし、どこか遠くへ捨ててきてくれてもかまわん」
レザースーツを着た女は勢いよく頭を下げて返事をすると即座に立ち上がる。そして、気を失った女を小脇に抱えると再びテディベアの後ろで片膝立ちをした。
「手間をかけてすまんな」
「………………」
「ありがとう、おれは部下に恵まれとるな。ほな、よろしく頼む」
女はテディベアに頭を下げると、そのまま影のように姿を消した。
「これで一件落着やな」
テディベアは誰に言うわけでもなく呟いた。
常夜灯に照らされる部屋の中。いるのは隼人とテリーのみ。
テディベアはぽてぽてぽてと足音を立ててベッドの上に登ると隼人を見下ろす。
「隼人、お前おれはおれやって言ってくれたな。あれ、嬉しかったで。あんなん言われたん初めてやからさ」
嬉しそうに話すテディベア。でも、隼人に起きる気配なく、テディベアもそれを承知で小声で話す。
「なあ、隼人。お前、家族を捨てるなんてありえへんって言ったな? その言葉ゆめゆめ忘れてくれるなよ」
隼人にぐっと顔を近づけてテディベアが言う。薄明かりの中、話すテディベアの声は切実さを帯びている反面、口元は笑っているようにも見て取れる。
テディベアはしばらく隼人の寝顔を眺めた後、また、ぽてぽてぽてと足音を立ててダンスへと向かった。
テリーが定位置に戻り横になると、部屋にはまた静寂が戻った。




