10-ラストミッション
マティウスまで残すところ二十キロ。空を覆う雲の隙間から差し込む陽光によって、空全体が赤黒く染まっているように見えた。血のような色合いに。
「……隊長、マティウスに落下した物体が天使化現象の始まりなんですよね?」
「そうだ。当時マティウスに残存していた市民の大半も、この時に死んだ。そこから回収されたのはたった一人の少女、クオイだけだった……」
クオイ。少女の言葉が蘇る。
誰も幸せにはならない、と。
(あの時キミの警告を聞かなかったことの報いか。だが……)
たった一人でここまで来ることは出来なかった。そしてこれから先も一人では戦っていけないだろう。これまで築いてきた軌跡、そのすべてに意味はある。少なくともバウルはそう信じていた。
「隊長、極光天使の……この先にいる怪物のことを知っていますか?」
「さてな。何を追っているのか、いまいち分かっていない。分かっているのはこの先に元凶がいるということ、そしてそいつは対話が通じないということだ」
これまでの所業から考えても、天使の元締めが慈愛に溢れた文字通りの天使であるとは考え辛い。しかし、ラウは通じないと言い切った。
「アルタイル社は、こうなることを予見していたんですか?」
「……そうだ」
二人は周辺警戒を続けたまま、会話を続けた。
「半年前の時点で俺たちはマティウスに落下した地球外生命体、天使零号の存在を確認していた。そいつは混乱で麻痺した都市機能を蹂躙し、対応の遅れた連邦軍を壊滅させた。ファーストコンタクトは完全な失敗に終わったわけだ」
「しかし、天使の居場所が分かっているなら爆撃でカタをつけられるはずだ」
「そう簡単にもいかなかった。零号は全体が天使核らしいからな」
「全身が……?」
「肉体の一片さえ残っていれば完全に再生することが出来るそうだ。精度に問題のある爆撃やミサイルによる面制圧攻撃ではダメだ。点で攻め確実に殺さなければならない。俺たちはそのミスのせいで半年間尻拭いを余儀なくされた」
「そして、天使を滅ぼすために用意されたのが……」
「天使を殺す力を持ち、そして天使と同質の存在にいずれなる天生体だ。この作戦を通じて、お前たちが全員死んで、その上で零号が死ねば一番いい。そう上は思っているのさ」
この世界を守るため、人間たちを守るためには、そうするのが一番いいだろう。いつ暴発するか分からない手札を抱えておくことほど、不安なことはないだろうから。理屈としては筋が通っているが、しかし個人としては絶対に納得出来ないものだった。
「俺たちは、ここで死ねと……そう望まれているのか……」
「そうだな……大人たちはこの事実を伏せていた。零号を倒せば生きて帰れると、そう希望を植え付けるために。俺たちは、お前たちを利用していたんだ」
生きて帰れる。
その希望さえも、紛い物だというのか?
「そんな確証なんて一つもないさ。変異した細胞が、変異させたものを殺したところで元に戻るとは思えない。覆水盆に返らず、二度とは……」
「それじゃあ……それじゃあ、俺たちはいったい何のために、こんな……」
こんな苦しい思いをしてきた?
ここまで戦ってきた?
虚無感と絶望感がバウルに去来したその時、沈黙を守っていたダリルが口を開いた。
『なあ、バウル。声が聞こえないか……? 優しい、声が……』
「何を言っている、ダリル。声だと? AAのセンサーで拾えるはずが」
『私も、聞こえる。ようやく、来たって。あなたを、待っていたって……』
ダリルとミーアはうわごとめいた言葉を吐いた。それを問い質している暇もなく、聴覚センサーが地面を蹴る音を捉える。何かが高速で接近してくる。
「何かが来る……! 隊長、警戒を! こんなところにいる以上、天使に関係していることは明らかだ! ここを突破して、そして……」
突破して、どうなる?
死の運命をほんの少し先に延ばせるだけのことだ。否、否定した先に残っているのは死よりも過酷な、人でいなくなることだけだ。一分、一秒それを引き延ばしたところでいったい何が違うというのか?
『バウル、しっかりしろ! ここを切り抜けるぞ、行けるな!?』
ラウの叱責で、バウルは瞬間懸念を忘れる。
殺されてたまるか、という生存本能が絶望を捻じ伏せた。
バウルは両足で地を踏みしめ、両目で敵を睨んだ。
朽ち果てた高層ビル群の影から飛び出して来たのは、四足獣の天使だ。それも一体ではない、四体。これほど多くの天使が一度に出てきた例は他にない。あるいは劣勢に立たされた天使がやり方を変えて来た、ということか。
天使は大口を開け突撃してくる。天使核の位置はどれも固定、喉仏のあたり。バウルは突進してくる天使の口に銃口を向け、発砲。二十五ミリ弾が口の筋肉を抉り、天使核を傷つける。痛みに悶え、天使は空中で体勢を崩し転倒した。
「ダリル、ミーア! 敵だ! 何をしている、応戦を……」
敵を前にして、彼らは何をしている? バウルは振り返り、二人の方を見た。ダリルとミーアはマルテ越しに手を重ねていた。
「何を、しているんだ。お前たち……」
『ようやく分かったよ、バウル。私たちが何をしたかったのか……』
『傷つけられてきた。痛めつけられてきた。この世界に。この運命に』
二人の声が重なり合う。天使の攻勢は尚も強まる。バウルはラウに天使核の位置を伝え、ラウはそれを破壊する。だが五体の四足獣天使に阻まれ、ダリルとミーアの変化に対処することが出来なかった。重なった腕の輪郭が歪む。
『誰もが同じ傷を背負っている。
誰もが同じ痛みを経験している。
恐れることも、拒絶することもなかったんだ。
だって、この世界のすべては……』
「何をしている、よせ! その言葉に耳を貸すな! その手を放せ!」
噛み付こうと迫る天使の口に銃口を突っ込み破壊。残った片方の銃でダリルを狙うが、しかし引き金を引けなかった。それがどんなに致命的な結果を生むか、本能的に分かっていても。彼に仲間を撃つことなど出来はしなかった。
二機のマルテの境界線が段々と曖昧になっていき、溶け合う。
二つの機体が、二つの天生体が重なり合い、文字通り一つとなった。
その場にいたどんな人間にも予想出来なかった。
二つから一つの天使が出来上がるなどと。
「やめろ、ふざけるな……! もう、こんなことはやめてくれ……」
涙し、嘆願しても事実は変わらない。
目の前に現れた、六メートルの天使は。




