-10
その日の夜。礼御はバイトの恰好に着替えると、普段より早い時間に家を出発し、自転車に跨った。バックパックを背負い、その中には青白い火炎より生まれた金色の『布』が入っている。向かう先は、林に囲まれ客人を招く気がほとんどないように佇む古本屋であり、件の風術師の住処である。
まだまだ暑い日が続いていた。礼御が自転車を押し山道を登ると、じわじわと汗がにじみ出てくる。汗腺から己の身体を冷やすために染み出るそれは、しかし身体のべたつきや臭いとなって、不快感ばかりを主人に押し付けてくるのだ。
辺りの深緑はまるで太陽の熱で強制されたような茂りを見せている。太陽がないと生物は生きていけないとよく言うが、この季節ほど太陽の勢いを感じる時節は他にないだろう。我々に与えられた昼の時間は長く、また夜になってもその名残により我々は茹だるのだ。が、熱とはエネルギーに他ならず、辺りはエネルギーに満ち満ちていると言ってもいいだろう。人にとってそれはほとんど意識することができず、他の動物もまた似たようなものかもしれない。
しかしそんな中、もっとも敏感にこのエネルギーを感知しているのが植物ではないだろうか。その色は太陽が放つ一波長を吸収し可視化させたかのように生的な青色で、その成長は太陽に手を伸ばしているようではないか。彼らは太陽を崇めるモノとして、ただただ太陽を慕い、半ば狂ったように太陽を目指す。それを究極的に許された時節が今なのだ。
礼御は獣道のような細い山道を抜けた。左右から押しつぶす勢いで生えていた木々が晴れ、礼御が踏み行ったのは広場のような場所である。地面には青々と草花が茂っており、それ以外は何もないかに見えるそこは、けれどずっと見渡せば一軒の建物が建っている。
礼御は額の汗を拭いながらそこに向かった。古びた家だ。廃墟を改装したごとく、人が住んでいると知らなければ到底近寄りがたい雰囲気ではある。そんな建物の入り口の上には『常晴古本屋』という看板が掲げられていた。
建てつけの悪い戸を開き、礼御は中に入る。こんな時間であるため当然営業時間ではないのだが、店内に明かりは灯っているのだ。風術師にとってこの建物は古本屋であり、居住地であり、そして研究室に他ならない。
「こんばんは」
礼御はそう言って店の主に声をかけ、突然で、しかも営業時間外に進入した旨を店内に響かせる。と、その声にまず反応し姿を見せたのは、十代前半の少女である。
彼女はここに住む風術師の弟子らしく、名を空子と言う。礼御と何度か顔を合わせたこともある魔術師見習いだ。
「あぁ、こんばん―――わっ!」
当然の成り行きとして礼御は彼女に夜の挨拶をしたわけだが、その最後は驚きによる発声であった。姿を現した空子は礼御を見るや否や、手に持っていた書物を投げつけてきたのである。文庫本サイズならいざ知れず、彼女の手を離れた書物は辞書や図鑑に近い厚さだ。咄嗟に礼御は身体を捻り避けることができたのだが、礼御の背後にある戸への直撃は免れないだろう。そして戸にはガラスがついている。礼御は避けた瞬間、ガラスが割れることを予感し目をつぶっていた。
「……」
が、一向に予測した音は鳴らない。おや、と思った礼御は瞼を開き現状を確認する。礼御に回避された図書は入口の戸にぶつかる前に、空中で静止しているのである。投げた本人もマズイと判断したのだろう。宙に浮かしているのはきっと空子の魔術による。見習いとってもこのくらいは容易いに決まっているのだ。そして礼御が彼女の方を窺うと、実に悔しげな睨みを隠さない目がそこにはあった。
その後粗っぽい拒みは見せない空子に対し、礼御は浮いた書物を手に取り、微苦笑を浮かべてその脇を通る。向かうは店の奥。そこにいるだろう店の主の元だ。無論空子の鋭い視線は礼御に向けられたままであり、居心地の良さはない。
礼御は一体いつになったらこの少女と人間らしいやり取りをできるのか、とくたびれつつ思い歩みを続ける。後ろの少女もついてきていることが、背後の気配で分かった。
と、礼御が数歩進んだところで、予期せぬ音声が礼御の歩みを止める。
「おい、お前。葵は疲れているんだ。……何の用かは知らないが、ちょっとは遠慮したらどうだ」
これは幻聴か。そう礼御が疑ったのも無理のない話で、知り合って何度も顔を合わせているにも関わらず、彼女がハッキリと口を開き礼御に言葉を投げかけてきたのはこれが初めてのことだった。
振り向き呆気にとられていた礼御は、強まった空子の視線にたじろぎながらも答える。
「いや、少々急用でね。お互い疲れているのは当然だろうけど、だけど数分話すくらいは大丈夫だろ?」
すると空子は礼御の言葉に不満を持ったらしい。彼にわかるように舌打ちをして噛みつく。
「何が『お互い』だ。葵を巻き込んでおいて」
「いや、俺が巻き込んだわけではないぞ。どちらかというと葵さんが勝手について来たようなものだし」
彼らの言う、巻き込んだ巻き込んでいないの話は『とある一件』のことを指す。そして両者は違うことを言っているが、どちらかと言うと礼御の言っていることが正しいのだろう。
「お前、ますますムカつく奴になったな。態度はヘナヘナなくせに口だけは成長したようだ。気に食わない」
そんな下の子相手に強気な態度をとってもしかたないだろう。なんて礼御は考えつつ、確かに彼女の言う通り、思ったことを気負うことなく口に出せているようになったとも言えるかもしれないとも思った。
「いやさ。俺と空子ちゃんって、これが初対話だよ? そんな高圧的な態度とらなくともさ、いいんじゃない?」
「うるさい、バカ! ちゃん付けで呼ぶな。腹が立つ! お前と仲良くするつもりは微塵もない。さっさと出ていけ! 金輪際顔を出すな!」
夜遅くにわめく彼女の師いわく、空子は自分以外に葵が弟子をとろうとしているのではないかと不安なのだそうだ。そして自分が立っている唯一無二の場所が侵されるのが嫌なのだろう。つまりはジェラシーに違いない。
「台詞だけ見ると君はツンデレのポディションだな」
ぼそりとそんなことを呟いた礼御であった。空子は幼いながらもその意味を理解したらしく、「は?」と反発的な声を漏らした。しかし礼御にはそんな空子の態度を気にする暇もなく、どうしてそんなオタク染みた発言をしたのか、自分自身のことであるが悶絶しかける。
あいつらからの悪影響に違いない!
そんな微妙な空気を払うように、店の奥から声がする。
「夜中に何を騒いでいるんだい、君たち」
その後遅れて姿を見せたのが、店の店主にして空子の師匠。風術師であり『空前の風使い』なんて異名で呼ばれる人物。雨無 葵である。
「あぁ、葵さん。こんばんは」
礼御は小さくお辞儀をして、夜の挨拶を彼女とかわす。その声の様子からも、空子の言う通り疲れが見えた。なんだか申し訳なかったか、とも思ってしまう礼御である。
しかし葵は突然の訪問者を追い返すことはなく「まぁ、中においで」と言って礼御を迎え入れてくれた。礼御もそれに甘えるように、「お邪魔します」と言って彼女に続くのである。




