王国編10叙任
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古い石壁は冷たく湿り気を帯び、ところどころに白いカビと黒い苔が這っている。
床には薄汚れた藁の束が乱雑に積まれ、足を踏み入れるたびに埃と古い干し草の匂いが舞い上がった。
天井は低く、梁には蜘蛛の巣が幾重にも張り巡らされ、時折小さな虫の音が聞こえる。
唯一の光源は、壁の高めの位置にある細い矢狭間と、正面の重厚な鉄格子扉の隙間から差し込む明かりだけだった。
鉄格子は冷たく錆びついており、手で握るとざらりとした感触が掌に残る。
増改築を繰り返し、使われなくなった衛兵室に私は軟禁されていた。
ここは元々、城門を守る兵士たちの詰め所だった。
城内側への通路は今や崩れた石と古い鉄の鎖で塞がれ、外側の鉄格子扉だけが頑丈に閉ざされている。
座り込んだ瞬間、冷たく湿った石の感触が不快感を抱かせる。
薄い藁はほとんどクッションにならず、乾いた草の茎が肌に刺さるように折れる。
埃っぽいカビの臭いが一気に鼻腔を満たし、床の冷気がゆっくりと体温を奪っていく。
さて、どうしたものか。
薄汚れた壁に遠慮なく背中を預けて思案する。
騎士として、それどころか兵士としての私は終わりだろう。
まだ騎士の肩書きを手に入れる前に、自分より身分の高い貴族を半殺しにしたのだ。
経緯がどうであろうが言い逃れが出来るものでもない。
元より言い訳をするつもりもなかった。
いつものように、自分への罵倒であれば聞き流していただろう。
しかし、フィオレと師匠を侮辱されたことが我慢ならなかった。
私が騎士として認められるまでに至ったのは、二人や偏見を持たずに接してくれた人達のおかげだ。
自らの行いで潰えたとはいえ、事実は変わらない。
奴の無遠慮な発言と、純粋に祝ってくれた二人の顔が重なったとき、思わず手を出していた。
少なくとも最初の一発はそうだった。
一度で止めることができるぐらいには冷静だったにも関わらず、あの瞬間、確実に終わらせるためにあえて手を止めなかった。
目的を二度と達成することが出来なくなった区切りをつけようとしたのだろうか。自分でもそれは分からないが、途中で止める選択肢など頭に浮かばなかった。
不思議と絶望感はない。
生きる目的としていた目標を失ったとき、子供の頃に感じた絶望感に苛まれるものだと思っていた。
だからこそ、これまで、ひたすら執拗に追いかけ続けていた。
不思議な感覚だ。いつ死んでもいいと思いながらも、同時にこれからどうするのか。自分の行く末を案じる事ができたことに驚く。
軟禁されてから数時間経って、一人の足音が近づいてきた。
音の正体は師匠だった。
重苦しい足音をさせて、鉄格子越しに師匠が語りかけてくる。
「お前はもっと思慮深く、冷静な人間だと思っていたがな」
師匠が感じているよりも、ずっと幼稚な人間で、目的のために仮面を被っていただけだ。
目的がなくなってしまえば、あの頃から何の成長もしておらず、短絡的で母を見殺しにしてしまった、何も知らない無知な子供でしかない。
「何があった」
問い質す声ではなかった。ただ経緯を知りたいという含みを孕んだ声だった。
だからこそ、その問いには答えることができない。
いっそのこと叱責され、幻滅されるほうがまだマシだ。
「すべて私の未熟さ故にこの事態を招きました。申し訳ありませんでした。どのような処罰でも受け入れる覚悟です」
「本当にそれだけか?」
「はい」
師匠が深く長い息を吐き、鉄格子に背を向けて空を見上げる。
それは溜息ではなく、別の意味を持った深呼吸にも感じられた。
「事情があることはわかっている。お前がただ感情に任せて動く人間ではないことも、重々承知の上だ」
続きを言わなかった。
少しの間があって、師匠が振り返った。
「騎士としての立ち振る舞いを教育したのは私だ。それがこんな形で返ってくるとはな」
苦笑いとも取れる、微かな表情の変化だった。
「追って処分が決まる。それまでは大人しくしていろ」
それだけを言い残すと、師匠は再び踵を返した。
一瞬、肩がわずかに落ちた気がしたが、次の瞬間にはもう歩き出していた。
「くだらぬところばかり騎士らしくなりおって、馬鹿者めが」
大きな輪郭が徐々に闇に溶けていく。
足音は規則正しく、次第に遠ざかり、やがて静寂だけが冷えた衛兵室に取り残された。
◇◇◇◇
翌朝になった。
軽い足音が軽快な口笛と共に近づいてきて、鉄格子の前を一度横目で確認しながら通り過ぎる。
足音の主は、わざとらしく通り過ぎた鉄格子の前に戻ってきたかと思うと軽口を叩く。
「おっ! 噂の不良騎士発見! 凶暴なため檻に閉じ込められている模様……」
まるで大型の肉食動物を観察するかのように、顎の下に手を当て目を細めるフィオレ。
変装もせず、いつもと変わりない様相で茶化しては、意地の悪い笑みを浮かべている。
「……最初から知っていただろう」
「きゃーっ! 襲われるぅー」
「おい」
「ごめん、ごめん。ちょっとした冗談じゃん! 怒んないでよー」
両手を胸の前で軽く重ねて頭をちょこんと下げるだけ。
まるで謝っているようには見えない態度に、昨日から頭の中を巡っていた考えなど、どうでもよくなってしまう。
「しかしいったいなぜ、彼は捕らえられてしまったのでしょうか。謎です」
案の定反省はしておらず、白々しい演技を続けながら頭を傾げたかと思うと、突然表情を切り替えて真剣な眼差しで見据える。
「ハンス君に全部聞いたよ。私の代わりに怒ってくれたんだってね」
「おしゃべりなやつめ……。余計なことを」
「ありがとね。『いくら自分のことを言われても受け流してたのに、アイゼンヴァルト卿と君のことを言い始めた瞬間にいきなり暴れ始めたんだ〜』って聞いたときは凄く嬉しかったよ」
珍しく真面目な面持ちで、まっすぐ視線を向けてくる彼女から、思わず目を逸らす。
礼を言われるためにやったわけではない。
それにしても奴はもう少し口が堅くてもいいと思う。
一呼吸置いて、彼女は鉄格子のすぐ横の壁に背を預けて腰を下ろす。
「それで、どうしたの? それだけってことじゃないんでしょ」
僅かに華奢な肩を覗かせるだけとなった問いかける声は、薄暗い衛兵室を慰めるように優しく響き渡る。
私も器用に鉄格子の近くへと近付き、空を見上げながら呟く。
「騎士となり、アリシア様へ恩を返す。それだけを目的に今まで生きてきた」
言葉にすると、随分と単純なことだった。それだけのために、ここまで来たのか。
「誰よりも近くで、幼い頃に貰った恩を返し続ける。そうすることで生に価値を見出そうとしていた」
それが叶うことがなくなった今、何をするべきなのか、検討がつかなかった。
「だからどうでもよくなって暴れちゃった?」
「あぁ。片脚を失った騎士が出来ることなどたかが知れている。今の私では一生をかけてもアリシア様に貰ったものの半分も返せないだろう」
「じゃあそんなに全部どうでもよくなった人が、なんで私達のために怒ってくれたのかな」
「それは……」
返事が思いつかなかった。
答えかけた言葉は途中のまま、雲だけが流れていく。
それは良くしてくれた二人への義理。
違う。それでは理由にならない。
二人が傷付く姿を見たくなかった。侮辱から二人を守りたかった。
「難しく考えすぎじゃないかな? 私なんてなーんも考えてないよ。やりたいことをやる。それだけ」
こんな私に優しくしてくれた二人へ恩を返したい。
いや、それも違う。それだけなら、あそこまで怒る理由にはならない。
私は大切なものを傷つけられたくなかったのだ。
昔女王に感じた気持ちと同じだ。
守りたいと思った。そのためなら自分がどうなろうと構わない。
気付けば私は女王だけではなく、この居場所自体を守りたいと思っていた。
簡単な話だった。ならば、まだ終わってなどいない。
片脚だろうが功績を挙げ続ける。それこそ奴など及びもしない英雄譚足り得る。
「あれ? 寝ちゃった?」
返事がないことを不思議に思ったのか、フィオレがひょこりと鉄格子の隙間から顔を覗かせる。
心配そうに様子を窺っていた彼女だったが、私と目が合うなり小さく目を瞬かせた。
「あ」
何かに気付いたように声を漏らす。そしてすぐに口元を緩めた。
だがその笑みには、先程までのようなわざとらしさはなかった。
「……フィオレ」
「なーに?」
「ありがとう」
彼女は鉄格子の向こうで、ぱっと明るい声を出した。
「どーお? まだここにいたい?」
「いや……フィオレ。力を貸してくれるか?」
元気よく両手を膝について立ち上がりながら、彼女は後ろ手に自分の尻をぱんぱんと軽く叩いた。
埃が舞うのが、私の位置から肩のあたりまでしか見えない視界の中でもはっきり分かった。
向き直ると大きな錠に鍵を差し込む。
「お待ちしておりました。サー・ラインハルト」
鉄格子を明け放つと、足を大きく後ろに引いて深く腰を折る、いわゆるボウ・アンド・スクレープで出迎えられた。
「すまん。ついでに肩も貸してくれるか」
「全く、世話の焼ける騎士様なことで」
カビ臭い室内から外に足を一歩踏み出すと、雲の厚い層の間から、細い光の筋が伸びて私を照らし出す。
思わず目を細めて、差し出された肩を借りながら立ち上がる。
失った脚が戻ったわけではない。
それでも、昨日まで身体を苛んでいた痛みは不思議と薄れていた。
肺に溜まった澱みを朝の新鮮な空気で追い出して、二人連れ立って歩いていく。




