聖旨
夜が明けぬうちに、謝鸞は他の多くの女官たちと共に、皇帝の居所である養心殿の前で控えていなければならなかった。
本日は蕭雁綾が嬪への昇格に伴い、聖恩に感謝を捧げる「謝恩」の良き日である。煩雑な儀式こそないものの、多くの者の立ち会いが必要とされていた。
養心殿の前庭は静まり返り、青煉瓦は朝露に濡れて黒々と沈んでいる。軒下の銅水瓶には一条の曙光が映り込み、半ば開かれた殿門からは、白檀の薫香と墨の匂いがかすかに漂い出ていた。
謝鸞にとっても、ここへ足を運ぶのは久しぶりであった。普段は皇后との連絡役を務めることのほうが多かったからだ。
前殿の正中には玉座が高く据えられ、紫檀の机の上には奏摺が整然と積まれている。硯の脇に横たえられた朱筆は、つい先ほどまで誰かが机に向かって批閲していたかのようだ。両脇に控える太監たちは両手を垂れて直立し、呼吸の音さえ極限まで潜めている。
礼服を身にまとった蕭雁綾が、先導の太監に従って足を踏み入れた。金磚を踏む足音は微塵も立たず、ただ殿内の重々しい光と影の中、その高みの上にこそ天子がおわすのだと肌で感じさせられた。
皇帝の顔立ちは清廉に痩せこけ、頬骨がやや高く、眼窩はわずかに落ち窪み、鼻梁はまっすぐに通っている。唇は薄く、固く引き結ばれていた。
謝鸞らはとっくに前殿の片隅に整列し、頭を垂れて粛々と控えていた。
蕭雁綾は定めに従い、静かに跪いた。
「面を上げよ」
頭上から落ちてきたその声は、高くも低くもなく、急くでも遅れるでもない。それはまるで、幾年も研ぎ澄まされ、刃こぼれを抑えながらも重厚さを失わない一振りの刀のようであった。
これまでの儀礼において、謝鸞が蕭雁綾の横顔をこれほど間近で観察したことはなかった。昨日の会話から、彼女がもはや「蕭雁綾」本人ではないことは重々承知している。問題は、これをいかに上へ奏上すべきか、そしていかに証拠を掴むかであった。
三跪九叩頭の礼を、どこか不慣れでありながらも淀みなくこなす蕭雁綾の姿に、謝鸞は眉をひそめた。
傍らの女官たちは一様に平然とした面持ちで、いたって自然に見守っている。おそらくは、単なる緊張のせいだとでも思っているのだろう。
儀礼を済ませば退出できるとはいえ、御前での作法にわずかな過ちも許されない。
謝鸞は息を殺して注視した。
(寸分の……手落ちも……あってはならないはずなのに!)
謝鸞の目の前で、信じがたいことに蕭雁綾は謝恩を終えたその手で、奏摺を差し出したのだ。
殿内の誰もが息を呑んだ。
謝鸞ただ一人だけが、射竦めるような視線を蕭雁綾に注ぎ続けていた。
蕭雁綾は時折、目を伏せる直前、無意識にある方角へと視線を走らせている。
皇帝が奏摺に目を通す合間を縫い、謝鸞は居並ぶ御前侍衛の背後へと視線を巡らせた。
案の定、その奥深くに、前方を直視せず、ひどく優しい眼差しで蕭雁綾を見つめている一人の男を見つけ出した。
(ふん……)
(まさか、そういうことだったとはね)
謝鸞は心の中で冷ややかに嘲笑した。
本来ならば一刻(約十五分)足らずで終わるはずの謝恩が、果てしなく長く感じられた。
皇帝がわずかに肩を動かすと、太監が心得顔で歩み寄る。
二、三、耳打ちを交わした。
「許す」
皇帝が口を開いた。
「皇上のご恩、身に余る光栄にございます!」蕭雁綾は再び叩頭した。
(一体何が起きたというの?)
女官たちの中に問い質す者はなく、ただ定めの手順に従って退出していった。
「謝大人、お待ちを」
ひとりの大太監が足早に近づいてきた。
謝鸞の背筋に冷や汗が走る。まさか蕭雁綾のほうが先手を打ち、自分を弾劾しようとでもいうのか。
「蕭嬪娘娘は故郷を恋しく思われておられ、本来なら来月に行われるはずの親族との面会を、七日後へと繰り上げることとなりました。後宮側でも前倒しで準備を進めていただきたく存じます」
謝鸞は動揺を悟られぬよう、気を引き締めた。
「公公」彼女は腰を深々と折り、慇懃に礼をとった。「それほど差し迫った刻限であるならば、お迎えに上がる隊列に護衛の侍衛を同行させ、早馬を飛ばしては快便かと存じます」
「ほう?」意外そうに、大太監が一瞬言葉を詰まらせた。「確かに、道のりは遠うございますが……」
「……」謝鸞は礼の姿勢を崩さない。
「では、謝大人にどなたか心当たりはおありで?」
「例えば……土地勘に通じた、文開済などはいかがでしょう」
「おや、あの方は御前侍衛……宮門を出るには天子の聖旨が必要となりますぞ」
「あやつを行かせればよかろう。蕭崇岳は余の忠臣であるゆえな」
頭上からふいに皇帝の声が降ってきた。二人は肝を冷やし、その場に平伏した。一見するとすでに無我夢中で政務に没頭しているかのように見えた皇帝が、実は周囲の動向を余さず聞き耳を立てていたのだ。
「余の口頭の旨を伝えよ」
皇帝の言葉が落ちるや否や、御前侍衛の隊長と文開済が列を離れて進み出た。
「蕭嬪の父、蕭崇岳は忠勤まことに嘉すべし。御前侍衛・文開済に命じ、内務府の者どもに同行して、上京する蕭崇岳の面会を護衛せしめよ。道中、民を煩わせることなく、遅参することのなきよう」
「御意」
これで、通ってしまったのか?
殿閣を去る道すがら、謝鸞は我が身に起きたことが信じられない思いだった。今上の聖上が英明なる君主であるとはかねてより耳にしていたが、まさかこれほど話が早く進むとは。己が何の理由も申し添えぬまま、聞き届けられてしまったのだ。
しかし、今日の蕭雁綾のあの大胆不敵な振る舞いは何なのだ。それに、あの文開済という男は……。
謝鸞は足早に女官衙署へと戻り、親族面会の件を手配させた。そして皆が慌ただしく立ち働き始めた隙を見計らい、踵を返して档案局へと滑り込んだ。
急ぎ足で本棚の間を抜け、現任の御前侍衛の名簿を収めた冊子を探し出す。
文開済はそれほど経験を積んだ高位の者ではなかった。十七歳、入隊してわずか一年。名簿のかなり後方に記されている。
「入宮したのは蕭雁綾よりも後なのね……」謝鸞は愚痴るようにページをめくっていった。
「……っ!」
彼女の目が釘付けになった。
「やはり、繋がりがあったわ」
頁の上にははっきりとこう記されていた――『蕭家軍・上官彦に師事』と。
彼女はすぐさま通路を抜け、別の二列の書架へと駆け寄り、蕭雁綾と蕭雁行の調書を引き抜いた。
蕭雁綾自身には医術に関わる経歴など一切なく、経歴書は潔白そのものであった。
だが蕭雁行のほうはまるで違っていた。十六歳で従軍して以来、年ごとに着実に出世を重ね、二十歳で一軍を単独で統率。兵の数よりも精鋭であることを重んじ、二十二歳となった現在では、朝廷の武官における三大勢力の一角へと伸長していた。
謝鸞はさらに読み進めた。
上官彦は、蕭雁行の配下にある第一営の営長を務める人物であった。
そしてこの者たちは皆、江浙一帯の出身である。
「ふ……ふふっ……」
謝鸞は、蕭雁綾が後宮から朝政に干渉しようとしているのではないかという疑念をいよいよ深めていた。
もし蕭雁綾が政に口を挟むとすれば、蕭家の者は文武に配され、さらには皇帝の身近に長きにわたり目耳を潜ませていることになる。
(なるほどね)
(あの日の茶は、あちらから私を試すための罠だったというわけ?)
謝鸞は書物を閉じて本棚へ戻すと、足早に档案局を後にした。
「葉環大人、後宮の妃嬪方のお茶会の準備はいかがですか」
「謝鸞大人!」葉環は謝鸞の姿を認めるや、寛いでいたところを慌てて飛び起きた。
「何か?」
「本日の午後に試食を行い、すべて滞りなく進んでおります」
「蕭嬪娘娘から何かご指示は?」
「娘娘からは伝言がございまして、万事こちらの手配に任せるとのことです」
「直接お会いになって詳しいお話はなさらなかったのですか?」
「ええ」葉環は唇を結んで言った。「まさか、他の妃嬪様から新たなご要望でも?」
謝鸞は手を軽く振った。「いいえ、ただ蕭嬪娘娘はこうした催しにお慣れでないかと存じましたので、私どもでは手の届かぬようなご無理をおっしゃらないかと気になっただけです」
葉環はほっと胸を撫で下ろした。「ご冗談を。私どもに調えられぬ料理などございませんよ」
「それは頼もしいことです」謝鸞は微かに微笑んだ。
(他の女官たちは、まだ今の『蕭雁綾』と深く関わってはいないのだわ)
(おそらく、この異変に気づいているのは現時点で私一人だけ……)
謝鸞は腹を決めた。
「今後、蕭嬪娘娘に関わる諸事は、すべて私が引き受けます」
「承知いたしました」葉環は願ってもない厄介払いに胸を撫で下ろし、謝鸞が出世のために手柄を立てたいのだろうと高を括った。
「ところで、近頃太医をお呼びになったことは?」謝鸞は何気なく尋ねた。
「今日の午後に予定されております」
謝鸞は息を呑んだ。
「段大人ですか?」
「いいえ、平文棟、平大人にございます」
「分かりました、感謝します」
謝鸞は再び居ても立ってもいられず、档案局へと引き返した。
「謝大人は本日、ずいぶんとご熱心ですな」
書庫を管理する同僚のからかいも、謝鸞の耳には右から左へと抜けていった。
愛想笑いを浮かべながら、彼女は太医院の調書へと駆け寄った。段衡と蕭家には何の接点もない。だがこの平大人という男は……若かりし頃、なんと江浙の地で医業を営んでいた記録があったのだ。
彼女は調書を棚へ素早く押し戻すと、先ほどすれ違った同僚の元へと駆け戻った。
「ここ二ヶ月の、太医院の薬材調達録はある!?」




