0-0 〝はじまりはじまり〟なんだよね?
『あぁ、ロミオ。あなたはどうしてロミオなの?』とは、かの有名な劇作家であるウィリアム・シェイクスピアが手掛けた『ロミオとジュリエット』に登場するセリフである。
ある日、ロミオは気晴らしに参加したパーティーでジュリエットと出会う。たちまち恋に落ちてしまう二人だが、大きな問題があった。実は、互いの家は先祖代々より対立する因縁の間柄にあったのだ。
禁断の恋を表す代名詞として広く知られるこの作品だが、私からすれば生ぬるい。どんな家柄に生まれようとも、そんな事情は無視して駆け落ちしてしまえばいいのだから。事実、ロミオとジュリエットは密かに結婚式を挙げて結ばれているわけだし。
世の中には、それすら許されない禁断の恋だってあるのだ。
「あぁ、お兄ちゃん。あなたはどうしてお兄ちゃんなの?」
ジュリエットの台詞を真似て、やるせない気持ちを吐き出してみる。
しかし、その嘆きを受け止めてくれるロミオはいない。目の前にいるのは、女子トイレの汚い鏡に映る私――甘露寺姫子の浮かない顔だけだ。
「ダメダメ。こんな顔、お兄ちゃんに見せられないよ」
ぶんぶんとかぶりを振って、蛇口を捻る。二月の寒気に冷やされた水を掬い、容赦なく顔面に浴びせる。思わず飛び上がりそうになってしまうが堪え、ハンカチで水気を拭き取る。
それから化粧ポーチを取り出し、パウダータイプのファンデーションをあしらう。アイラインを引いて涙袋を強調し、赤系のアイシャドウで瞼のくすみを隠す。マスカラでへたれた睫毛を立ち上げ、カシスブラウンのカラーコンタクトで瞳が大きくなるよう演出。薄い唇にグロスを塗り、口をぱっと開いてなじませる。
化粧は終了――だが、私の戦闘態勢はまだ整っていない。
ダルい授業を経て、乱れた髪を櫛で梳かす。それを手早く二つにまとめ、リボンで結い上げる。次いで制服のボタンを外し、胸元を緩める。ただでさえ短くしていたスカートを更に捲りあげ、白い太腿を惜しげもなく晒す。その場でくるりとターンすると、真冬の寒さが全身襲った。
「うん、おっけ」
準備は万全。あとは、渡すだけだ。化粧ポーチの横に置いてあるハート形の箱をお兄ちゃんに。
そして、告げるんだ。今年のバレンタインは妹からの義理チョコなんかじゃなくて、一人の女として贈る『本命チョコ』であることを。
「びっくりするかな……お兄ちゃん。するよね、そりゃ」
いきなり実の妹から愛の告白をされて、驚かないはずがない。きっと慌てふためくし、困らせてしまう。
最悪の場合、兄妹としての関係にも大きな亀裂が入ってしまうだろう。
だから、蓋をしてきた。見ないふりをして、押し殺して。絶対に開けることはないと決心していた……けど、事情が変わったのだ。
『あたし、今度のバレンタインに駆流に告白する』
脈絡もなくラインに送られてきたメッセージ。天空橋妃奈と登録されたそのアカウントからの決意表明が、決定的な転機となった。
お兄ちゃんに恋人が出来るのはもちろん嫌だが、それ以上に妃奈と結ばれるのだけは耐えられない。
「……よし」
ぱちんと頬を打ち、気合いを入れる。女子トイレを後にして私が向かうのは、お兄ちゃんが在籍する二年A組の教室だ。
事前にお兄ちゃんにはバレンタインチョコを渡したいと連絡している。せっかく今年から同じ高校に通っているのだから、学校で渡してみたいと。
優しいお兄ちゃんは二つ返事で了承し、きっと今は私を待っているはずだ。
心臓がばくばくとうるさい。耳たぶが熱を帯びて、うなじの辺りがこそばゆい。スカートは短くして、シャツのボタンまで外しているのに身体が火照って仕方ない。
落ちつけ私と念仏のように唱えながら、教室に到着。深呼吸をして、扉を開けようとしたときだった。
『僕……駆流先輩のことが好きです!』
上擦った叫び声が、扉を介して私の鼓膜を劈いた。
「……へ?」
呆気に取られて、間の抜けた声が漏れる。脳の処理が追いつかなくて、視界がちかちかと明滅する。
恐る恐る扉につけられた四角い窓から教室の中を覗き込むと、そこにはさらさらのストレートヘアをセンターパートにセットしたイケメンと野暮ったいマッシュヘアに眼鏡をかけた冴えない男子生徒が向き合っていた。
「お兄ちゃんと……あれって、上時雨……だっけ?」
前者は愛しき兄こと甘露寺駆流で、後者は同じクラスの男子である上時雨始……だったはずだ。クラスでは引っ込み思案であまり目立たないタイプの陰キャ男子だから、いまいち自信は持てないけれど。
なんで、お兄ちゃんと上時雨が? ていうか、それよりも気にすることがあるんじゃない? いま、上時雨はお兄ちゃんになんて伝えてた?
駆流先輩が好き――とか言ってなかった?
いやいや、そんな訳ない。緊張するあまり私の聴覚がバグっただけだ。マジで落ちつけよ、私。
我ながら自分の余裕のなさに自嘲をして再び教室の中を見ると、お兄ちゃんはなにかを上時雨に伝えた。
途端、泣き出す上時雨。すぐにお兄ちゃんが駆け寄って、涙を拭う。
そして、二人の視線が交錯する。時計の針が時を刻む音がやけに響く静寂のなかで互いの顔が近づき――唇が、重なった。
「……は?」
なんだこれ。なんだこれなんだこれ――なんだこれ!?
あまりに鮮烈な光景を目の当たりにして、視神経が焼き切れそうになる。脳味噌が沸騰して、吐き気がせり上がってくる。
そんな状況でも、私の本能は告げていた。
お兄ちゃんと結ばれたのは妃奈でもなければ、ましてや私でもない。クラスの冴えない男子なのだと。
「――っ!」
その場には留まれず、踵を返す。セットし直した髪型が乱れることも気にせずに全力疾走をして、整えたメイクが崩れることも厭わずに涙を流す。
途中、誰かにぶつかった気がしたが、それでも私の足は止まらない。とにかく、現実から逃避するように駆け抜ける。
こんなことがあっていいのだろうか。物心ついてから抱いてきた恋が、こんな形で終わってしまって。もともと叶うはずのない恋であることなんかわかっていたけど、こんなのってあんまりじゃない!
「姫子! 危ない!」
背後から、悲鳴じみた大声が飛んできた。一瞬、お兄ちゃんが追いかけてきてくれたんだと錯覚して振り返ると、一つに束ねた栗色のポニーテールが印象的な少女こと天空橋妃奈が私に手を伸ばしていた。
なんで妃奈が――と困惑した直後、ききぃという甲高い音が鳴り響く。ぱぁーっ!と耳障りなクラクションに続き、まばゆいフラッシュライトが視界を覆って。
私は、大きな鉄の塊に撥ね飛ばされていた。
「が、あ……」
どうやら、錯乱するあまり信号無視をしてしまったらしい。朦朧する意識のなかで捉えた景色には、煌々と光る赤信号があった。
そして、真っ赤な血に染まる腕の先にはくしゃくしゃにひしゃげたバレンタインチョコが転がっていて。お兄ちゃんに告白するために用意した本命チョコを茫然と眺めてから、手繰り寄せる。
お兄ちゃんが実の兄でもいい。公に認められず、籍を入れられなくたっていい。パパとママに勘当されたって、世間から迫害されたって関係ない。たとえ、お兄ちゃんが男の人を好きだったとしても――それでも私は、
「大好きだよ、お兄ちゃん」




