模索
日本語に不慣れなふりを装うのは意外に疲れる。俺はしばらく、学校ではおとなしくしていた。
俺が一年生の女子とつき合っているという噂はすでにクラス中に広まっており、取り巻き連中は潮が引いたように俺に対する興味を失った。俺とリカが昼に校庭や食堂で一緒に食べている姿は、多くの生徒に目撃されていたのだ。おかげで休み時間のたびに行動を邪魔されることがなくなり、動きやすくなったのは歓迎すべきことだ。昼を一緒に食べるくらいでつきあっているというのは飛躍した見方だが、都合がいいので誤解させておけばいい。
今日は俺がこの学校に通い始めてから最初の週末だ。二学期初日に早退した田嶋真由美はあれ以来休み続けており、今日も一時間目が終わった時点で彼女の席は空席のままだった。
「なあユウジ。田嶋真由美って、身体弱いのか」
「どうだろう。あまり丈夫そうなイメージはないな。というか、俺あいつとしゃべったこともないからよく知らないんだ。知ってるのは、寡黙だけど学年で一、二を争う秀才だってことくらい」
「彼女、一学期の間はほとんど休まずに来てたわよ。体育も見学せずに参加してたし。それなのに二学期になって突然、早退の翌日から三日連続欠席というのは普通じゃないわね。大沢先生は何も仰らないけど、伝染性の病気かしら」
さつきが言った。朝練のある部活に入っている連中を除けば、彼らの登校時間がクラスで一番早い。何しろ、リカより先に家を出てくる俺が教室に入る時には、必ず彼らの姿があるのだから。
「田嶋のことが気になるのか、ユーリ」
「いや、顔も見ていないクラスメイトがいるってことが気になってさ」
「こう言っちゃなんだけど、話しかけてもきっとろくに返事しないぜ、彼女」
なるほど、かなり内向的な性格のようだ。ますます怪しい。
このクラスのウイルスナジアリストは彼女だけではないが、あまり性急に調べ続けると過激派に勘付かれかねない。ひとりずつじっくりと調べなければ。
「ところでユーリ。あなた、たったの四日で随分日本語上達したのね」
さつき、結構鋭いな。ユウジとは違うぜ。ここは気をつけないとまずい。
「初日は緊張してたからね……。もちろん、家でも日本語を勉強してるよ。さつきやユウジとの会話が楽しいから」
「あはは、イギリス人もお世辞を言うのな。本当は授業で取り残されないためだろ」
「お世辞という概念は理解してるつもりだけど、得意じゃないな。それに自慢じゃないが、俺は学校の勉強はあまり熱心にしない主義なんだ、ユウジ」
「確かに自慢にならないけど、このクラスには馴染んでいるわね、ユーリ」
調査活動は地味に行うのが鉄則だ。せっかく元・取り巻き連中が俺のことを飽きてくれたのだし、ここはもう少しおとなしくしている必要がありそうだな。
その時、何となく視線を感じた。振り向いた俺は、鷹のように鋭い目つきの男子生徒とたっぷり二秒ほど目が合った。彼の方が先に、しかしゆったりと視線を逸らした。
彼の名もウイルスナジアリストに載せてある。柿崎繁――百九十センチ近い彼は、このクラスで俺を上回る身長を持つ唯一の存在だ。その筋肉は、夏の制服をはち切れんばかりに押し広げるほど。最大の特徴は、男子の中でただ一人茶髪に染めてパーマを当てている点だ。おそらく目つきのせいだろうが、見る者にスポーツマンというより不良っぽい印象を強く与える雰囲気を身に纏っている。
殺気こそ感じなかったし、寡黙と内向的な性格とはイコールでないことも承知しているものの、別の意味で彼には用心しておいた方がいいかもしれないな。
その後は何事もなく授業と放課が過ぎていき、昼休みになった。
俺とリカは何となく校庭と食堂とを交互に利用しており、今日の弁当は食堂で食べている。俺たちは長テーブルの端に向かい合って座っていたが、教室の倍近い広さの食堂は空いており、半分以上の椅子が座る者もなく置物と化していた。
「雨の日は混むんだろうな、ここ」
「そうでもないよ。弁当の子って結構自分の教室で食べる子が多いから」
さすがに四日目ともなると、こちらをちらちら盗み見る生徒はごく少数だ。邪気のない視線で見られることに慣れてしまったことも手伝って、俺はそれらの視線を一切気にせず弁当を食べ続けた。
「リカ、例のノートの翻訳ってどこまで進んだ」
「あんまり進んでない。今夜、ユーリ先輩が訳した部分と照らし合わせて確認しようと思ってる」
どうやら固有名詞やら、辞書に載っていない言葉やらが混じっている上に、あまり正しい文法で書かれてはいないようなのだ。一度インターネットの自動翻訳サイトに頼ったのだが、とてもじゃないが解読不明な暗号めいた言葉に翻訳されてしまった。そこで俺たちは辞書を使い、手分けして――こっそりと授業中にも――翻訳しているのだが、これが遅々として進まない。まさに暗中模索だ。
「手っ取り早くノートを《監視機構》に送りつけてしまった方がいいような気もするが、明日の定時連絡前にせめて少しでも内容を解読しておきたいもんな」
俺は話題をウイルスナジアの件に切り替えた。
「リストの筆頭、田嶋真由美は初日の早退以来休み続けてる」
「そういえば、あたしのクラスの井貝くん、えっと井貝泰造くんも初日に早退してから休んでるよ」
俺は箸を止め、片眉を上げてリカを見た。
「ふむ。そいつ、内向的なのか」
「う……ん。どっちかというと」
リカの歯切れが悪い。
「ほう。リカのクラス、内向的な生徒はいないんじゃなかったのか」
「身内の贔屓目って奴ね。ごめん、気をつける」
「別にリカを責めるつもりはないぜ。ところでそいつ、秀才か」
「うん。そりゃもう、学年で一、二を争うほどのね。……え、なぜわかったの?」
共通点だ。偶然とは思えないほどの。ユウジ達から聞いたばかりの田嶋真由美の情報を教えてやると、リカも箸を止めて俺を見た。
「今俺が考えてることわかるか」
「うん。なんとなく」
些細な共通点に過ぎないが、有力な手掛かりかもしれない。すぐに他のクラスのことも調べてみよう。
「おふたりさん。隣に座っていいかい。やあ、ユーリのクラスメイトの鈴木だよ。ユウジでいいからね」
俺の横からユウジが声をかけてきたのでそちらを向いたら、リカの背後から聞き慣れたアルトが聞こえてきた。
「同じく、兵藤さつきです。ごめん、迷惑だったらすぐに退散するから遠慮なく言ってね」
さつきはユウジを軽く睨み付けた後、俺とリカを交互に見ながら申し訳なさそうに言った。
リカは立ち上がり、さつきとユウジにお辞儀した。
「迷惑だなんてとんでもないです。はじめまして、結城リカです。一年四組です」
「あ、いいのいいの、別に俺ら体育会系じゃないし。学年の違いとか気にしない気にしない」
ユウジが軽く手を振りながら着席した。さつきもユウジも手ぶらだった。
「あれ、昼飯まだなのか」
「うはは、さつきも俺も早飯喰らいなんだぜ」
「失礼ね、ユウジと一緒にしないで。あたしのお弁当は小さめなのよ」
「しっかしユーリ、さすがだな。転校初日から下級生とつき合うとは手が早い。しかも、こんなにかわいい子だったとは」
「こらユウジ」
「ありがとうございます。でもユウジ先輩、褒めすぎ」
ユウジを窘めるさつきの横で、リカはユウジに愛想笑いをしている。
仕方ない、仕事の話は今夜まで延期だ……と思ったが、この際だ。
「俺、他のクラスのことにも興味があってさ。リカがいろいろ教えてくれてたんだ」
「ほう。たとえばどんな」
ユウジがのってきた。試しに直球を投げてみるか。
「学年で一、二を争う秀才が二学期早々休み続けていることとか」
「えっ、そうなの」
今度はさつきが反応した。
「きのう、一組の友だちからも似たような話を聞いたわよ。学年ひとけたの秀才が連続で休んでるって。えっと、確か森……森なんだっけ」
「一組の秀才なら森田だな。森田浩二」
来た! 俺の中で予感が確信に変わりつつある。その線を手繰っていけば、もしかしたら予想外に早く真のウイルスナジア感染者を割り出せるかも。見当違いかもしれないけど、中国語翻訳の暗中模索状態に比べれば百倍気持ちが良い。
「秀才欠席の話題で何にやけてんのさ、ユーリ。いくらイケメンでも、ちょっと気持ち悪いぞ」
「あ? いや、なんでもない。ところでユウジ、イケメンって何」
ユウジが口を開くのと同時に、昼休みの終了を告げる予鈴が鳴った。




