東洋哲学 vs 西洋哲学または仏教 vs キリスト教
初出:令和7年10月2日
さて、仏教は多神教でも一神教でもないゼロ神教の宗教だという新説(珍説?)をSNSで見つけた。
ゼロ神教(あるいは無神論)――つまり神(または仏)がいない宗教だ。
同じくインド発祥の宗教、ジャイナ教も神仏がいないことを明示した宗教だが、仏教も似たような宗教哲学を内包しているのだろうか。
仏教は大乗仏教と小乗仏教に大別される。
インドで発祥し、中国や朝鮮半島などを経由で日本に伝来したのが大乗仏教。これに対し、釈迦直伝の仏教が小乗仏教(上座部仏教)。
大乗仏教は如来や菩薩など複数の仏が出てくるので多神教の様相を呈するが、小乗仏教になると神仏を拝むのでなく、信者たちはひたすら釈迦の悟りを自分たちも体現しようと修行する。
だから小乗仏教、あるいは原始仏教には神仏はいないとのこと。
仏教哲学はあまり詳しくないのでこれ以上は深入りしない。
ただ小生の肌感覚としては、キリスト教を含む西洋哲学と、仏教を含む東洋哲学は、同一線上では語れない、別ジャンルの思想体系だと思う。
たとえば小学校の教科にたとえると西洋哲学が、国語、算数、理科、社会といった座学に対し、東洋哲学は体育、音楽、美術、家庭科といった実技科目なのだ。
西洋哲学では哲学者が論文を書き、言論で真理を探究する。そしてときには哲学者同士で議論し、言論で戦う。
これに対し、東洋哲学ではその奥義は”実技”なのだ。ヨガ、気功、座禅、滝行など、いずれも体を動かして体感する。釈迦の”悟り”も座禅などの修行の末に体感するものであって、論文を書いて”悟り”を表現しつくせるものではないと思う。
1.言語で語れない東洋哲学
昔、座禅に凝ったことがある。朝夕、15分間ずつ座戦を組む。
SNSで、自分は生まれてこの方座禅はやったことがなく、今後もやるつもりはないが、座禅の意義について言葉で説明せよ、と小生に書き込みをしてきた人がいた。
これはラジオ体操をやったことのない人が、自分は体を一切動かさないが、ラジオ体操の意義を言葉で説明せよ、というのに似ている。
ラジオ体操の意義が知りたければ、まず自分でやってみることだ。
体が爽快になって健康にいいと感じる人もいれば、しんどくて二度とやりたくないと思う人もいれば、この程度の運動では物足りないと思う人もいるかもしれない。
ラジオ体操をやった感想は人それぞれだろう。
座禅もこれと同じだ。
座禅を体験したら、心の平静が保てるのでありがたいと思う人もいれば、こんなことやってくだらないと思う人もいるかもしれない。
感想は人それぞれだろうし、どの感想が正しく、どの感想がまちがえなのか、上から目線で決めつけるものでもないだろう。
ただ座禅について語るには自分が実際に体験してみること。体験せずに座禅を語ることはできないし、体験すれば、座禅について何を語っても自由だ。
2.”小乗”キリスト教はグノーシス派
最近、大乗仏教系のユーチューブ番組を見た。
大乗仏教はインドから大陸を経て日本に伝わって来た。伝言ゲームを考えれば、大陸を伝わる間にオリジナルの釈迦の教えがかなり歪められて日本に入って来たはずである。そこへいくとわが小乗仏教は釈迦の正しい教えを伝えている。これが小乗仏教系宗教法人の大乗仏教へのよくあるバッシングである。
これに対し、大乗仏教系宗教法人も負けてはいない。大乗仏教では釈迦の教えに加え、中国の高僧の教えもミックスされているから、小乗仏教よりありがたい教えだとのこと。
また小乗仏教は釈迦入滅後、500年後にはじめて文字化され、経典ができた。それまでの期間は口伝で教えが伝えられた。
昔の人は記憶力がいいという説明だが、伝言ゲーム的に考えれば、500年間、正確に記憶しているのは難しい。現存する小乗仏教もオリジナルの釈迦の思想からかなり乖離しているのではないか。
仏教の話はここまでにしよう。
実はキリスト教もキリストのオリジナルの教えと現存する宗教法人の教えとの間に乖離があるのではないかと最近、考えた。
きっかけはやはりSNS上での議論だ。
かつてグノーシス派と呼ばれる原始キリスト教があった。仏教的に言えば小乗キリスト教、または上座部キリスト教といったところか。
キリストは十字架にかけられ、独身のまま死んだというのが、カソリック、プロテシタント、正教の各キリスト教宗派に共通した神話だ。
ところが身代わりの人間が十字架にかけられ、本物のキリストは山奥に逃げ、マグダラのマリアと結婚し、娘サラを設けたというのがグノーシス派で信じられていた神話である。
グノーシス派の信者たちはバチカンの異端審問にかけられ、処刑された。
ところがこのグノーシス派の神話を信じる宗派が後の時代にも連綿と続くことになる。
テンプル騎士団、薔薇十字軍、フリーメーソン、シオン修道会……。
新約聖書をかじると、キリストはユダヤの選民思想のような人種差別は嫌っているようだ。
そしておそらく自身が女性、マグダラのマリアと結婚したことから、異性間の性交渉は正しいと考えていたと思われる。
カソリックの神父に妻帯が禁じられているが、これはキリストの考えに反するのではないか。
その一方で、ここからは推測だが、キリストは同性愛を禁じていたかもしれない。つまりLGBT問題に対して、今日の行政が推進したい方向には反対したと思う。
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いずれにせよ、仏教もキリスト教も釈迦やキリストのオリジナルの思想を探究することに意味がありそうだ。
そしてそれは今日の宗教法人組織にとって都合が悪いことも出てきそうだが、人民にとっては大いなる”福音”かもしれない。
(つづく)




