近代日本文学考察 芥川龍之介 vs 菊池寛
初出:令和6年15日
世界文学ネタの次は近代日本文学のどうでもいい話である。
芥川龍之介のライバルは菊池寛だと言ったら、諸君は同意するだろうか。
作家としての知名度では芥川の方がやや上だが、菊池は作家だけでなく、文芸春秋社の創業社長という実業家としての肩書を持つ。
ともに同世代の作家で東京帝国大学の出身。芥川が英文科、菊池が国文科。
二人とも第三次新思潮、第四次新思潮の同人である。
また二人とも歴史短編小説を得意とする点も共通項がある。私見だが文体も少し似ているように思う。
二人の違いは何か。
芥川が芸術至上主義なのに対し、菊池は生活至上主義と言われる。
「俊寛」という二人の競作がある。ともに「俊寛」というタイトルで歴史短編小説を書いているが、小生は菊池に軍配を上げる。
無人島に島流しされた俊寛がロビンソン・クルーソーのように自給自足で原始生活を送り、現地の女性と結婚して家族をもうける。
都にいたときのプライドは捨て、ひたすら生き抜く人生を選択した俊寛の姿は、菊池寛の生活至上主義を体現した小説だ。
一方、芥川の芸術至上主義を如実に体現した作品にはたとえば「地獄変」があると思う。
画家が実の娘が火あぶりの刑に処せられる様をデッサンし、絵画の傑作を画くというストーリー。
読者からクレームが殺到したようで、クレームに悩む作者自身の姿が「歯車」に描かれている。
女性の貞操観念の描き方についても、芥川と菊池は対極的だ。
芥川は女性恐怖症なのかもしれない。少なくとも女性嫌いのようだ。
「藪の中」は芥川の代表作の一つだと思う。登場人物の視点を変え、ストーリーを説明する三人称小説の方法論も大正時代の文学としては画期的だったかもしれない。以前、サルトルの「自由への道」について述べたが、ある意味、「藪の中」は「自由への道」を先取りする三人称小説だったかもしれない。
それはともかく、「藪の中」では平安時代、侍夫婦が暴漢に襲われる。
夫が暴漢に手足を縄で縛られ、夫の目の前で妻は暴漢にレイプされてしまう。
ところが妻は暴漢との性交に大満足の様子で、最後に夫を指さし、暴漢に「この男を殺してください」と言う。それを聞いてかえってビビった暴漢が縛られた夫に「この女殺すか」と訊く。夫はこの暴漢の質問をもって暴漢を許そうという気持ちになることが心理描写される。
「藪の中」は女の不貞、裏切りの醜さを描くのに成功しているから、読んでいて面白い。
ただこれと類似テーマの「お富の貞操」という作品があるが、これは少しついていけない。
空き巣狙いでホームレスが家に忍び込んだところ、人妻のお富が家に帰って来た。ホームレスは飼い猫に銃をつきつけ、「猫の命が惜しければおれとエッチしろ」と脅す。
お富は仕方なく、(布団を敷き?)服を脱いで準備すると、ホームレスの方がビビり出す。最後にはホームレスがお富に説教をはじめ、「猫の命ぐらいで人妻の操を捨てるもんじゃない」と言い捨て、その場を逃げ出す。それから数十年後、ホームレスは出世してお金持ちになった。めでたし、めでたし、といったストーリーだ。
女性の不貞は悪いかもしれないが、不法侵入者にしてレイプ未遂のホームレスが奥さんに説教するな、というのが小生の感想である。説教なら途中から旦那が登場して説教する方が理にかなっている。
一方、菊池寛には「藤十郎の恋」という作品がある。小説版と戯曲版があり、どちらも読んだと思う。
歌舞伎役者の藤十郎は不倫する役にキャスティングされた。ところが本人は不倫の経験がないのでどう演じたらいいかわからない。そこで不倫を経験してみることにする。
藤十郎は人妻を熱心に口説く。ついに根負けした人妻が隣の部屋で布団を敷いて待っていると、藤十郎はそのまま人妻を置いて去ってしまう。それに気づいた人妻は首吊り自殺する。
侍がプライドを傷つけられただけで切腹するように、人妻は貞操に命を賭ける。
これが菊池寛が描く女性の貞操観念だ。
最近、菊池寛の「真珠夫人」を読んだ。
主人公、瑠璃子は若い恋人がいたにもかかわらず、成金の中年実業家、壮田勝平と結婚する。
実は瑠璃子の父親が勝平の策略で多額の借金を背負い、その肩代わりに泣く泣くお嫁にいったのだ。
結婚しても瑠璃子は勝平との性交渉を拒み続ける。
ある日、勝平は力づくで瑠璃子に襲い掛かるが、突然、暴漢が現れ、勝平ともみ合いに。警察を呼んで暴漢は逮捕されたが、勝平は心臓麻痺で死んでしまう。
その後、瑠璃子は財力を手に入れ、美貌を武器に様々な男たちを周囲に侍らすが、一線を越えることなく最後まで処女を守る。
少し無理がある設定だが、こうした処女礼賛も菊池文学のテイストであるとともに大正時代のトレンドであったかもしれない。
(つづく)




