同郷の女性の話。
彼女はしあわせな夢をみている。
彼女は一般に社畜と言われる存在だった。朝から晩まで働いて、サビ残休日出勤当たり前。それでも正社員としてなんとか拾ってもらえたのだからと、自分をだましだまし続けていて。
その日は、本来久しぶりの休日をとれるはず、だった。
なのに結局仕事を増やされて、前日から帰宅もできずに結局家へと向かうことができたのが夕方。日も陰り子供たちも足早に帰宅するような時間だった。
いい加減、無理をするのはやめようかな。仕事、変えようかな。……就活、かあ。
ふらふらとする体で、そんなことを思いながらあと少しで済んでいるアパートにつくというときに、携帯をいじりながら歩いている女子高生とすれ違った。
刹那。
足元に浮かびあがる魔法陣。満ちる光。誰かの呼び声が聞こえた気がするのと同時に体を襲う浮遊感。
瞬きの間に、空気が、視界が、――世界が変わった。
そして石畳の上に座り込み、視界に映るファンタジーな世界に彼女は思った。これ、小説でよくあるやつじゃないかしら、と。
非現実的な世界に唖然としている間に、一緒に来ていたらしい女子高生の女の子が連れていかれて、彼女だけが残された。戸惑うような空気の中、彼女の処遇が偉そうな人たちの間でこそこそと話されて、それから結局、この世界のこの国の、この城のすみっこに住処を用意されて暮らすことになった。
それから、そわそわしている下っ端らしい兵士に、状況の説明を聞いたりして、自分の置かれた立場に納得をする。どうやら彼らは救世主を求めて召喚の儀式をしたらしい。そして呼ばれたのがあの女の子で、私はうっかりそれに巻き込まれただけの人間であるらしい。本当に小説に似た、よくできた夢だと思う。あえて自分が求められた人物ではなくオマケ程度というのがまた、自分らしかった。夢の中でまでたくさんの仕事を押し付けられるのはごめんだった。
しばらく城の隅で、先輩にあたるおば様たちから教わりながら細々とした仕事を押し付けられながら暮らして、彼女はこれが夢ではないことをなんとなく察することになる。いくらなんでも長すぎた。
しかしまあ、暮らしは悪くなかった。使いつぶされる道具のような社畜生活からしてみれば、多少肉体労働はあれども健康的で適度な仕事だ。朝から晩までついでにそのまま次の日の昼間まで仕事続き、だなんてことは起きないし、周りのおば様方は新米の彼女に対して親切に接してくれる。疲れた生活から、彼女は徐々に癒されていった。
そうしてやっと周りに目を向けられるようになったころ、ひょんなことからこの国の騎士団長という男に出会った。
最初は、城下にお使いに出されたとき。ごろつきに絡まれていたところを助けようとしてくれたのだ。なんだかんだ言ってその時は痴漢撃退法で返り討ちにしてしまったので、かなり呆れられてしまったのだけれど。
その後、城の中で何度も出会うようになって、その人の人柄を知っていった。少し皮肉屋で、けれど優しくて。助けようとしてくれた時のお礼にと出した手料理に目を輝かせて、おいしいと笑みを浮かべてくれた時の気持ちに、ああ自分は恋に落ちたのだと理解した。
勘違いでなければ、彼の方も自分のことを嫌ってはいないようで、周りのおば様方もなんだかんだで応援をしてくれて、互いにゆっくり距離を詰めていった。
互いに熱のこもった視線で名前を呼んで、けれどなんだか照れくさくなって目をそらして笑う。そんな淡く幸せな夢のような時間にいることができた。
その時間が崩れ始めたのは、彼がその仕事として、この世界に一緒にわたってきたもう一人の女の子とともに“滅びの石”のカケラを壊しに行くことになった時だ。
あの女の子のことは、こちらに嫌でも噂が聞こえてきていた。何せこの世界を救うためにと呼ばれた救世主。“光の姫”なのだから、どこに行ってもその話題が消えることはない。噂話ならば山ほど聞くことができた。……逆を言えば、噂話を聞くことしかできなかった。城のすみっこで働く下っ端に、天下の“光の姫”に会う手段なんてない。会ったところで何を言えばいいかわからないし、一度会おうとしてみたが他ならぬあの女の子自身が彼女と会うことを拒んだと聞いてそれきりあきらめた。
そんなあの子は、王子様などのこの国屈指の美男子たちに囲まれて、物語の中のヒロインのようにもてはやされているらしい。なるほど有頂天にもなるだろう。ただ同郷だっただけで何の接点もない年上の女に会いたいとは思わないに違いない。彼女自身はそんな疲れそうな生活はごめんだったが、あの女の子は違ったのかもしれない。
あの女の子は、“滅びの石”のカケラを浄化しにいくという。しかし、その行先は被害が大きいとされている場所ではなく、そこから離れた小さなカケラが確認されているところらしい。これも、その女の子を怖がらせないために、と王子たちが決めたらしい。しかし被害が小さいとわかりきっているのにこの国屈指の強さを誇る騎士団長である彼を連れて行くという。
この話を聞いた時、彼女は言いようのない不安が襲っていた。あの女の子の周りにいるのは見目の麗しい権力者たち。……自分の好きな相手も、見目が麗しい、権力者のひとりといえる。とっさに、とられるのではないか、と思ってしまったのだ。
その不安を振り切るようにして、彼女は騎士団長を見送った後に被害が大きい“滅びの石”のある土地に手伝いに行く志願をした。都合よく女手を募集していたのだ。とにかく体を動かして、嫉妬や不安などの余計なことを考えたくなかった。
それはある意味正しい選択で、手伝いに行った先は目の回るような忙しさだった。余計な事を考える暇などないくらいに。忙しいとは言っても社畜であった時よりは充実しているように思えた。
最初は炊き出しや洗濯などの雑事をしていたはずだったのが、人手の足りなさを理由に怪我人の看護に回され、時に物資の補給を手伝い――とそこはまさしく戦場。
そんな中で、ある時魔物に追われて、物資を運ぶための数人の兵士とともに森の中に逃げ込んで、迷った挙句に、“滅びの石”のカケラに近づいてしまった。はじめはそんなつもりはなく、本当に運が悪かったとしか言えない。
一緒にいた兵士が、その土地の者ではなかったこと。何度か魔物に遭遇し、そのたびに奥へ逃げてしまったこと。
そして、彼女がそうとは意識せずに“滅びの石”に触れてしまったこと。
そのすべてが、偶然の結果としか言えなくて。
触れた刹那、光がほとばしり、気が付けは石はなくなっていた。
そして戻ってからが怒涛の展開だった。気が付けば、彼女も“光の姫”として扱われ始めていた。
そうなってから、何度かあの女の子と話そうとした。しかし、何度か王子たちに止められ、そして同時に騎士団長にも止められて、あきらめた。王子曰く、あの女の子自身が自分と話したくないらしいし。
それに、と彼女はもう一つのためらう理由を見つけてしまった。あの子の眼は、恋するものと同じだ。そしてその視線の先にあるのは、騎士団長だった。……とられる、とやっばり思ってしまった。
だって、あの子は若くて可愛らしい。対して自分は若くないし、かわいいとはいいがたい。
あの子は、たくさんの人に守られる魅力がある。自分を見てみろ、忘れ去られるようにして城の隅に置かれていたではないか。
そんな風に一人で落ち込んで、憤って、一周回った先で、彼女は騎士団長に愛の告白をされた。ああ夢だと思った。これは、幸せな夢なのだ、きっと。しばらく信じられなくて、そのたびに恥ずかしい愛の言葉を聞くことになって最終的に彼女はそれを受け入れた。本当に、幸せだった。こんな恋は、多分もう二度とできない。これが最後の恋になるかもしれない。それでもかまわないと思うぐらいに、幸せだったのだ。彼がいるだけで、何にも負けない気持ちになった。
それに浮かれて――彼女は、あれよあれよという間に“滅びの石”の大本のそばに行くことになった。少数精鋭で、ひっそりと向かった旅路では、騎士団長との甘い時間も過ごすことができた。彼女は少し後になって、思い出すたびにこの時の自分は浮かれていたと恥ずかしく思うことになる。……だが彼女の中ではそれはそれで悪くない思い出でもあった。
“滅びの石”の浄化は、それほど大変なものではなかった。……いや、体力も精神力ももっていかれるし、ついでに言うならば浄化の最中その“滅びの石”によって、見たくもない映像――両親が死んでしまうだとか、騎士団長があの女の子を好きになってしまって振られるだとか、元の世界の友人が自分を泣いて探しているだとか――を見せられることになって、それはそれで大変だったには大変だったけれど。大きなけがをするような戦闘はなかったし、浄化自体は丸一日で何とか終わったのだ。彼女が思っていたよりも大分あっさりだった。
城に戻ったら、お祭り騒ぎになっていた。今まで誰にももてはやされることはなかったのに、急にもてはやされることになって驚いた。けれど、少しだけ嬉しくも、思っていた。これなら、恋人の騎士団長の隣にいても自信をもっていられる気がする。何しろこの男、顔がとてもいいのだ。そして実力も権力もそれなりにあるというモテる男なのだから。城の隅にいる下っぱでは釣り合わないという不安もあったのだ。けれど光の姫であるならば、問題ないかもしれない。彼女の思っていた通り、二人の関係はおおむね歓迎された。
けれどもある時、帰れることが分かって、彼女の心はまた揺れることになる。何しろ、帰れるなんて知らなかった。帰れないと思っていたからこそ、この世界で生きる覚悟をしたのだ。なのに急に帰れるといわれたのだから、不意打ちで攻撃を食らったようなものだった。
あの“滅びの石”に、家族や友人のことを見せられてしまっていたのも、悩みに拍車をかける要素だった。ほぼ眠れずに一人で悩んで、見かねた恋人である騎士団長にそれを悟られて、ごちゃまぜになった不安や恐怖をはきだす羽目になった。そして、最後には背中を押されることになった。君は、君の生きる世界に帰るべきだ、と。
そうして魔法陣に乗った時、夢の終わりだと思った。覚めたくない。けれど、自分は夢から覚めなくてはいけない。元の世界の、現実に戻らなければ。振り返ったらもう、戻れない気がした。
光る陣、聞こえる呪文。そして、視界が光で染まった刹那に感じる浮遊感。そこに自分を呼ぶ声が聞こえた気がしたのは、錯覚だろうか。
空気が変わって、瞼を持ち上げる。よく知った、地球の景色が見えた。紺に近い空、明かりのついた住宅街、アスファルトでできた道路。視線を下に向ければ、召喚されたときと同じスーツと持ち物。昔のクセでそっと携帯を見ればなぜか充電は切れていなくて、あの日と同じ日、時間だけが一時間ほど進んでいた。……彼女の足は間違いなく、ありふれたアスファルトの上を踏みつけている。
帰ってきたのだ。そう思うと同時に涙があふれてきた。戻ってきただけなのに、何もかけたところはなく、むしろ体調としては元気なくらいなのに、言いようのない喪失感が襲ってくる。かろうじて嗚咽だけは押さえて、前を向いた。もうすぐあの女の子もこちらに戻ってくるのだろう。この泣き顔をあの子に見られるのは嫌だった。同じ秘密を共有する人間になるのかもしれない。でも、大人げないと思うけれども、この夢のような幸せな記憶は、自分だけのものにしていたかったのだ。
せめて、少なくともこの夢の余韻が終わるまでの間だけでも。
だから、彼女は魔法陣があった場所を背に歩き出した。家へ帰ろう。それから、明日には辞表をたたきつけて、家族に会いに行こう。
そう思って、振り返らないと決めたはずだったのに。
不意に、声がした。先ほどまで聞いていて、別れを惜しんでいた声だった。足が止まる。
彼女を呼ぶ声だった。早くも幻聴が聞こえるようだ、と彼女は自嘲する。そんなはずはない。あの国で騎士団長を務めていた男のはずは。
けれどもう一度、呼ぶ声がして。聞きたかった声は、ひどく甘く聞こえたものだから。
思わず彼女は、振り返った。振り返ってしまった。
そこにいたのは声から想像したのと同じ人物で、彼女は声を出そうとして失敗する。
「泣かないでくれ」
騎士団長を務めていた男は、驚いたように目を見開いて、それから近づいてきてそっと彼女の涙をぬぐう。そして再度、懇願するように「泣かないで」と言った。
「……どう、して……?」
言葉にならない彼女が、何故ここにいるのと重ねて問うと男は答えた。君を手放したくなかった。それを友人に悟られてしかられて、背中を押されたのだという。
そこに彼がいるのが信じられなくて、頬を撫でる彼の手に触れる。暖かい。彼女の涙は更にあふれた。困ったように彼がそっと身を引き寄せて、抱きしめてくれる。
ああ、夢だ。と思った。
彼女は、心が満たされていくのを感じながらそっと目を閉じる。――心の隅で「女の子が帰ってきていない」と疑問の声が上がったが、それにそっと蓋をして隠して。
幸せな夢を、私はまだ抱きしめている。
抱きしめて、しまっている。
でもそれが夢ならば、いつかはきっと覚めてしまうのだ。
夢だと知っていたからこそ、彼女は覚めまいと抱きしめてしまったのだけれど。