第1章−B
箒で空を飛ぶなんて、まるで魔女さんみたいじゃあない?
少し小さめの竹箒をわざわざ街で買い出して、初めて空を飛ぶ練習を始めた日、少女は、気合十分、師に向かってその箒を掲げ、にっこりと笑って見せた。
今日から、空を飛ぶことを教えてくれるんでしょ、先生? それじゃあほら、雰囲気って、大事だと思うんだもんっ。いつかは、ワルプルギスの夜に行くのっ。……なんちゃってっ。
――大魔法使いの、小さな弟子。否、もはや彼女が一六歳ともなれば、小さな、といってしまっては、語弊があるのかも知れないが。
「とーべーとーべー♪ とーべー♪」
今、彼女は――美言は、その箒に跨り、楽し気に即興の歌を歌いながら、のたりくたりと街外れの森の細道を進んでいた。
魔法使い。
この世界においては、迷信と信じられている存在。科学や化学の発展により否定された、或いは、科学によっては説明できない、不思議な力を持つとされる存在。
現代にも魔法使いが存在し、彼等は今もこの世界の、或いはこの日本のどこかで生きているのだ、などという話など、世間一般からは夢物語だと一蹴されてしまって当然なのかも知れない。
しかし、現に、
「もっとはやくー。先生みたいにっ♪ だから君も、頑張ってっ」
少女の足は、彼女の影から離れているのである。道の先へ、先へと、進み行く美言は、まだ名前をつけていない相棒の箒に跨ったままで、両足をゆらりゆらゆら遊ばせていた。
秋の気配が、舞い踊る季節。時折、乾いた音をたてて流れて行く枯葉も、地面を彩る気品のある色の花々も、つい先日までは、なかなか見られるものではなかったのだ。
森の緑を揺らす涼しい風が、美言の長い髪をきららに遊ばせる。
フリルの目立つ、もしここが都会であれば、その景色から浮いてしまうようなワンピースが、ふわりひらりと風に流されていった。
美言はこうして、誰にも見つからないように、密やかに、日々、魔法の練習に励んでいる。
美言も早く先生みたいな魔法使いになりたいなぁ、と、美言の小さな手が、箒の柄をきゅっと握る。
美言の尊敬する先生は、それは、それはすごーい先生で……。
美言は、やっぱり先生のことがだーい好きだもんっ、と心の中で呟き、美言はえへへっ、と微笑を浮かべる。
だから美言は、いつか師のような偉大な魔法使いになって、沢山の人を助けることができればいいのになぁ、と、そう考えているのだ。
きっとまだそんな日は遠いだろうけど、毎日毎日、少しずつでも頑張らなくっちゃ。
ついこの前までは空なんて飛べはしなかったのに、
ほら、美言だって、今日はきちんと空を飛んでるよ。……まあまだ、これ以上高くも速くも飛べないけどねっ。
精々、道の脇に並んでいる少し背の高いキノコを掠めるくらいの高さしかない所から、森の緑に視線を廻らせて、さあ、と一つ気合を入れる。
大丈夫。ゆっくりだけど、段々できること、増えてるもんっ。
だから今日も頑張らなくちゃっ、と、美言は顔を上げ、この先に長く続く道を真っ直ぐに見据えた。
「飛べとーべ♪ もっと速くっ、それから、もっと高く飛びたいなっ♪」
そうしたら、先生も、さすが美言ですね、って、褒めてくれるもんねっ。
更に足をばたつかせる美言の楽しい歌に、草も花も、一緒になって歌い出す。
と。
唐突に。
美言のすぐ横に咲いていた花の揺れる音が、心に引っかかって、離れなくなったような気がした。
美言ははっとして、音をたてないようにと地面に足を下ろす。
そこで改めて、その花をじっと見遣った。
――どしたの?
無言のままで、問いかけた。相手は人ではないけれど、言葉を持たない花だけど。
でもこのコスモスさんったら、何かを美言に、伝えたがってるような気がして……。
少し背の高い紅いコスモスが、たった一輪。
美言が花の傍まで歩み寄り、そっと腰を屈めたその瞬間のことであった。
規則正しい間合いの足音が、美言の方へと、近づいて来た。
美言は立ち上がり、道の向うへと顔を向ける。
右手に持った箒を地面に突き、一つ瞬きをした。
そこに、
「あ……、」
人の影が、見える。
段々と近づいてくるその人影は、どうやら美言より背も年も大きな、青年のように見受けられた。彼は何かを胸に抱え、しきりに森を見回していた。
やがて、その青年も、美言の姿に気がついたようであった。
ふ、とその場に立ち止まり、美言をじっと見つめてくる。
美言は戸惑いがちに、一歩を踏み出した。
「……あの、」
しかし、声をかけられても、青年は彼女へと、応えようとはしなかった。
ただ、急に出会ってしまった小さな――しかもなぜか、こんな場所で箒を手に持った、随分と時代錯誤な恰好をした――少女を見つめ、黙っているばかりであった。
美言も美言で、冷めた瞳を向けられて、気まずさに、身を引きたい思いで一杯になっていた。
それでも、何とか自分を奮い立たせ、
「こん、……にちは」
ぎこちなく、挨拶をして頭を下げた。
――非常に、珍しいことであった。この森で、自分の住む月代という名の異人街で、普段見かけない人を見かけることなどは。
だって、街の人でさえ、こんな場所には滅多に来ないのに……。
だからこそこの場所は、美言が魔法を練習するのにはうってつけの場所でもあるのだ。誰にも見つかってはならないことを、やることができる場所であるがゆえに。
「……やあ」
暫くして、ようやく青年が、美言の箒から視線を逸らして、無愛想に短い挨拶を返してきた。
そこで初めて反応を返されたことに素直に喜んだ美言は、
「君、月代の人? 見かけない顔、だよね」
箒を持ったまま手を打ち、背の高い青年を見上げて、問いかける。
その質問を受け、青年はどこか怪訝そうに瞳を細めると、
「関係無いだろ」
くるり、と踵を返して、美言から遠ざかって行ってしまう。
美言はその背を、慌てて追いかけると、
「確かに関係無いけどっ。だってこんな所に、人なんて滅多に来ないんだよ?」
「だからどうしたって言うんだ……」
「別に、だからどうしたってワケじゃあないけど。何か、探してるの?」
「別に」
青年の歩く速度は、美言にとってはあまりにも速すぎる。
美言は時折小走りをしつつ、ようやく青年の横に並びながら、
「ねえ」
冷たい人だなぁ……本当に。
思いながらも、どうしてか構わずにはいられなかった。
不思議な、人。
何となく、そんな印象があった。美言の友人の中にも、このような雰囲気を持つ男子は一人もいなかったように思われる。
――気のせいかも、知れないけど。
美言には、彼の言葉は冷たくとも、彼が心まで冷え切った人であるようには思われなかった。それどころか、どことなく、暖かい雰囲気さえ感じられるような気がしてしまって。
ちょっと、ねえ。……立ち止まって、少しは話でもしてくれたって、いいじゃない?
美言はね、君がどういう人なのか、ちょっと、知りたいよ?――こんな所で出会えるなんて、何かの、縁だよ。
「ねえってばあ」
「煩いな。黙って」
答えた青年が、唐突に足を止める。
やっと応じてくれたっ、と、美言がねえ……と話を切り出そうとした頃には、青年の意識は、彼が手に持っていたスケッチブックへと移されている。
青年は白紙のページを開くと、右手で鉛筆を立てて目の前に掲げて見せた。
「何やってるの?」
問われても、しかし、青年は答えない。
彼は、さながら美言などその場にはいないかのようにして、ほっと一息を吐き、スケッチブックに一本の線を入れる。
……ねえ。
言いかけて、美言は口を噤んでしまった。
何となく、邪魔をしてはいけないような気がしたのだ。
今や彼は、彼の回りに、彼にしか入り込めない彼だけの世界を造り上げてしまっている。美言には、そう思われてならなかった。
青年はそのまま、静かに腰を折ると、スケッチブックを膝の上にして、目前に広がる世界と、白紙の世界とを、交互に見遣っては鉛筆を軽いタッチで震わせていった。
美言も箒を片手にしたままその斜め後ろに屈み、スケッチブックの上に鉛筆を滑らせる青年の姿を、じっと見つめていた。
何、描いてるのかな。
気になって、顔を上げる。おそらく青年が見ているであろう場所と同じ場所を見遣れば、そこには、
「……あ」
さっきの、コスモスだ。
どうやら。
美言の見たところによれば、今、この青年がスケッチブックに描き収めているのは、たった一本でのびのびと太陽に向かって背を伸ばしている、あの、紅色のコスモスのようであった。
紅色の、コスモス。紅い、秋桜。
あぁ、なるほど。
「愛情、ってね、言うの」
歌うように微笑んで、美言は箒を地面へと置くと、
え、何が? って?
何が愛情かって、そんなこと、問われてもいないけれど。
それは勿論、何が愛情かって言うと、
「花言葉、ね? 紅いコスモスの花言葉は、愛情、とか、調和、とか」
ねえ、もしかして、
「君も、お花が好き?」
だってそうじゃないと、スケッチなんて、しないでしょ?――でももし、本当にそうだとすれば、
……美言は、嬉しいんだけどなぁ。
だって、自然を愛する人には、悪い人はいないもんね? などと。勝手な思い込みだとはわかってはいても、どこか自分の中では確信を持てる考えを心の中で呟いて、美言は胸の前で手を組み、思わずほっと息を吐いていた。
それから、暫く。
穏やかに、滑らかに、さらりさらさらと、青年の鉛筆が花の輪郭を写し取る音だけが響き渡る。
美言が瞬きをする。いつの間にかその意識が、青年のスケッチブックの中へと惹き込まれて行く。
縁の黒ずんだ、スケッチブック。どれほど使いこまれているのか、ということが、一見しただけでわかってしまう。
その新しいページに、あっという間に、コスモスの形が出来上がる。まだ色は着けられていなかったが、本当に、
「……綺麗」
淡い感動を滲ませた声音が、美言の口から零れ落ちた。
青年は鉛筆を左手に持ちかえると、スケッチブックを指先でひらりと捲った。
――この森の、ありとあらゆるものが、その姿を描き残されていた。秋の花に、キノコに、蝶々に。舞い落ちる、木の葉に。
それから、それから……。
美言の大好きな、ありとあらゆるもの。
「すっごいね」
どうしてか、嬉しくなってしまう。
この森は、美言の大好きな場所。その場所を、こんなにも美しく描いてくれる人が、
いるだなんて。
そこに封じ込められた世界に是非とも触れてみたいと、素直にそう思う。そこはきっと、間違い無く。美言のよく知る、或いは、それ以上に美しいこの森が、広がっているに違い無い。まるで、御伽噺の世界。
美言は青年の横顔に、ふ、と視線を巡らせる。
黒い瞳に黒髪の、襟のついたシャツの良く似合った青年。妙に大人びた雰囲気に、沈黙がしっくりと嵌り込むような、感じの。
その少し不機嫌そうな顔が、美言の望みなど知らずに、ぱたむ、とスケッチブックを閉ざした。
「あ」
まるで、読んでいた絵本を途中で取り上げられたかのような気分に、美言が抗議の声をあげかけた、その時。
何の前触れも無く、青年がすっくと立ち上がる。
「あ、ねぇ、ちょっとっ」
慌てて美言も彼に続くが、しかし、青年は美言の方を、ちらりとも振り返ろうとしなかった。
ただ、畳んだスケッチブックをしっかりと片手に抱え、美言が帰ろうとしていたのとは逆の方向に、足を進めて行く。
最初は小走りでついて行った美言ではあったが、
「ねえ、君、お名前、何て言うの……?」
問うて、答えてもらえなかったところで、流石に傍に足を止めていた。
美言は、規則正しい間合いで遠ざかって行く青年の背を見つめながら、立ち上がり際、慌てて拾い上げていた箒の柄を両手で握り締めて呟く。
「何なの、あのヒト……」
美言もしかして、もう嫌われちゃったのかなぁ……。
コスモスの花が、静かに風に揺られていた。




