第1章−A
小さな、石造りの家の、とりどり色の花の散る庭では、今、一人の少女と、一人の青年とが、穏やかな時間を共有していた。
甘い香り。この庭に咲き乱れる花々は、少女が大切に大切に育ててきた、季節の花々。まるでこの街の外れにある森を小さくしたかのような空間では、時もゆっくりと、足音をたてずに過ぎ去って行くかのようで、秋の風さえも、二人を包み込むかのような、優しく、暖かいものであるかのように感じられた。
そんな、少女曰く、まるで絵本の中を再現したかのような世界の中で、
うーん……。うーん、と。
唸る少女――美言は現在、二つに折れた枯れ木を片手ずつに、
「うー……、」
「頭の中で、パズルを組み立てるんですよ。……ほら、力を抜いて……、」
「うーっと……あー……、」
必死になって顔を顰め、とにもかくにも、目の前の課題をやり遂げて見せようと、彼女にしては珍しく、忙しなく頭を働かせている最中であった。
美言が、こうし始めてから、既に数十分が経過していた。
「そんなに力んでもダメですよ? 美言?」
その後ろから、長閑な声音が、彼女に向って微笑みを向ける。
声の主は、彼女の師である魔法使い、ルーカスであった。見目、精々二七歳くらいの、青い瞳の白人の青年。彼は、庭に備え付けてあった小さなベンチに腰掛けたまま、膝の上に開いた分厚い本を、一頁だけひらりと捲ると、
「力押しでは、無理ですからね」
視線は文字を追わせたまま、しかし心は美言に向けて、小さな弟子に魔法の手解きをする。
「わかってるけど……」
「それに、あまり考えすぎると、かえってこんがらがってしまいますよ? 時には、一息置くことも重要です」
今、美言がやり遂げようとしていることは、二つに折れたこの枯れ木を、元の一本に戻すということであった。
茶色の木の皮からはみ出す白いささくれに、美言はじっと睨み顔を近づける。
……どうして、できないのかなぁ。
先生だったら、粉々に割れたティーカップくらい、あっさり直せちゃうのに。
なのに美言は、こんな簡単なこともできないんだよなあ……と、改めて師の偉大さを噛み締めると、美言は更に、枝を視界に近づけた。
美言は、早く先生みたいになりたいのにな……。
力一杯願えども、やはり、二つの枝は、元に戻ってくれようとはしなかった。
自然と、更に体に力が入ってゆく。
小さな手によって握られた枝が、小刻みに震え出す。
「美言。……ほら、深呼吸して」
ひらり、と、また一頁、ルーカスはそっと本を捲り、
「焦っても、ダメですよ」
美言は、頑張り屋さんですからね。
でも、時に、美言は頑張り過ぎですものね、と、心の中で付け加え、ルーカスは眼鏡をそっと押し上げた。
――もはやこの少女との付き合いも、五年ほどになるのだ。
家族の考えることなど、それなりにわかってしまう。
ねえ、ですから美言、
「今日やめることは、諦めることにはならないんですから」
また明日でも明後日でも。できるまで、やめなければいいではありませんか。
急ぐ必要はありませんよ、と口元を緩めると、ルーカスは更に、一頁本を捲った。
それから、暫く。
美言の唸り声が、草木の靡く音に、何度か交じり合った後。
「やっぱり上手くいかないやっ」
降参っ。と頬を膨らませて、両手にある木の枝を交互に見遣ると、美言は残り全ての未練を溜息に代えて、外へと吐き出した。
まあ、いいや。先生もああ言ってるし。ね。
とりあえず今は、そう自分に言い聞かせる。
「まあ、今日はこの辺にしておくのも、いいと思いますよ。そんな急に、色々とできるようになるわけでは、ないのですからね」
ほら、先生の言う通りだよ、ね、美言?――美言、今日も頑張ったじゃない。
だから今日はおーしまいっ、と、左手の枝を右手に渡すと、美言は軽い足取りでルーカスの元へと駆け寄った。
「やっぱ、難しいねっ。立派な魔法使いになるって」
「とか言いながら、美言は本当に成長が早いんですから。あなたは早くも、ちょっとでも空を飛べるようにもなっているみたいですからね。……大丈夫です。ご安心なさい。美言になら、ちゃーんと、誰かを助けることのできる魔法使いになれますよ」
誰かを助けることのできる、魔法使い。
そうなるために、美言が日々、努力していることを、ルーカスはよく知っている。
「そうかなあ……こんなんで美言にも、本当に、先生みたいになれるの?」
こんな簡単なコトも、満足にできないのに?
「ええ。安心してください。美言はきっと、私を超える魔法使いになれると思いますよ?」
何せ、志が違いますからね。
魔法の力は、意思の力に左右されるものなのだ。当然、一流の魔法使いになるには、生まれつきの能力、というものも必要になるのだが、その成長の度合いは、魔法使いとしての実力は、彼等の意思によって決まってくる。
私は、そういう意味では、大した志も理由も意志も無しに、成り行きで、魔法使いになりましたけれど。
でも、美言は違いますしね、と、本を閉じると、自分の横にそれを置く。
その本の代わりに、抱きついてきた美言を、膝の上に乗せた。
「どうして、そんなことが言えるの?」
「どうしてもこうしても、美言を見ていると、そう思ってしまうからです」
今から、一年と少し前であったか。ルーカスが、五年前に出会った彼女に、魔法を教え始めたのは。
それまでは様々な事情が重なり、ルーカスが魔法使いの師として美言に接することはあまり無かったのだ。ルーカスはただ、美言の親の代わりとして、時として最も理解ある友人として、彼女に接するのみであった。
しかし。
「結構いい加減なんだね? 先生も?」
「そうですか? それでも何となく、そのような確信がありましてね」
二年ほど前のとある事件の後から、ルーカスは美言へと、こうして魔法を教え続けている。
とある事件――魔法が誰かのために使われることなどない、魔法使いが誰かの役にたつはずなどない、と考えていたルーカスの考えが、根本から引っくり返された事件。
ルーカスは確かに、一流の魔法使いであった。それも、魔法使いの世界の中でも、類稀なる才能を持つ者にしか与えられない、大魔導師の称号を持つ魔法使い――尤も、ルーカスが魔法使いの世界から身を遠ざけてからは、かなりの年数が経っているのだが、それでも、今でも魔法使いの間では、ルーカスは数世紀に一度にいるか、いないか、とされるほどの、希代の大魔導師として有名なのだ。
「美言もちゃんと、先生みたいな、立派な魔法使いになれる?」
先生みたいに人の役にたつことのできる、立派な魔法使いになれるのかなぁ。
ぽつり、と付け加えたところで、
「……私は別に、誰かのために魔法使いをやっているわけでは、ありませんよ?」
「でも、先生は優しいからっ。優しい先生が魔法を使うと、誰かのためになるんだよ、ね? だって美言は、先生にお礼しに来た人達、沢山知ってるもん。――先生に、助けてもらったんだって、皆笑ってた。美言ね、その笑顔を見てると、本当に嬉しくなっちゃった」
「それは、結果論ですよ。私は最初から、人のためになろうと思って、魔法を使ったわけではありませんからね。……それに、」
それに、
「魔法は、」
「万能なものじゃない……でしょ?」
師の言葉を先読みして、美言は更に強く、ルーカスの首筋に抱きついた。
暖かい、ぬくもり。大好きな人の、腕の中。
ほっと、全身を抱きしめる安堵感に溜息を吐き、
「わかってるよ。命を持つものには、魔法は使えない……魔法じゃあ、怪我とか何とか治せるわけじゃあないし、病気だって治せない。時間だって、いじれない……美言達にできるのは、そこにある"モノ"に、ちょっと干渉することくらいだもん」
「さすが、よく勉強なさってますね」
「先生の口癖でしょ。もう覚えちゃったもん」
この世界の魔法使いは、御伽の国の魔法使いとはわけが違う。魔法使いは、決して万能な存在ではないのだ。それはルーカスが美言に、散々言い聞かせていることの一つでもあった。
魔法とはこのようなものなのだと、かつて師が、美言に説明して聞かせたことがある。魔法を使うことは、ある意味数式を弄ることに等しいのだと。"モノ"を構成する"数式"に手を加えることによって、その"モノ"を変化させることができる存在が、魔法使いなのだと。
「それに、"モノ"を元に戻すこともできない、だよね?」
ただしその"数式"は、インクで書かれている。魔法使いにとって、一足す一と、三引く一とは、全く別のものなのだ。答えは同じでも、そこに書かれている"数式"が違う。この"数式"の違いこそが、"モノ"そのものの本質を表しているのだから。
「美言達は、一足す一って"モノ"から一が引かれて、一足す一引く一ってなったものに一を加えて、元の二って答えに戻すことはできても、元の一足す一っていう式に戻すことは、できないんだよね」
「ええ、その通りですよ」
だから魔法使いには、何かを元に戻すということも、できないのだ。元に戻したように見せかけることは、可能であったとしても。
「でもね」
苦笑する師から少し身を離し、くるりと半回転した美言が、彼の膝の上に腰を落ち着ける。
先ほどまでは彼女を受け止めていたルーカスの手を、美言はいつものように手にとって弄って遊びながら、
「たとえそういう制約に縛られて、先生にできなかったことがあったとしても、だよ? 先生の魔法のおかげで、幸せになった人が沢山いるってことに、変わりはないんだもん。先生は、先生の力で精一杯できることを、いつもやって来たんでしょ? だったら、それでいいと思うの」
美言は、知っているのだ。自分の師が、自分の能力の限界に悩み、苦しみながら生きてきたことを。師が、周囲から寄せられた期待に、時に応えられない自分を、責めてきたであろうことを。
……先生は、優しい人だもん。
ルーカスが自分の魔法の力を、中途半端に人より秀でた能力として――自分にこのような中途半端な能力さえなければ、助けようなどと考える必要も無いような状況に置かれた人々を何度も見てきて――、時に恨んできたであろうことが、美言には手に取るようによくわかる。自分の能力によって、この他人には無い能力によって、助けられそうな人々を、しかし、様々な制約によって助けられなかったことを、彼はどんなに悔やんで生きてきていることなのだろう。
「知恵は、力なり。ね? 道具は、多い方が好いよ。魔法だってきっと、何かのためになると思うの。美言はね、折角こういうことができるんだから、美言にしかできないことをやりたいの。そうすれば、美言、先生みたいになれるかな、って思うから」
届きそうで、届かない。助けられそうで、助けられない。そんなもどかしい想いと、自分は世界でも指折りの魔法使いである、という否定のしようが無い事実との間で、ルーカスは今でも、時折悩むことがあるに違い無い。
「美言はね、先生のこと、ほんっとうに尊敬してるんだもん」
美言はね、誰かを助けることのできる、魔法使いになりたいの。
最初は、美言の理想を、そのようなことは無理なのだ、魔法使いとは人を助けるために存在しているのではないのだから――と嗜めていたルーカスの言動は、きっとそのような、ルーカス自身の人生経験に因るものなのだ。
だけど。
「ね、美言だって、先生に助けられたヒトの一人なんだよ? 美言は先生に助けられて、とっても嬉しい……だから、こういう喜びを、他の誰かにも分けてあげたいなぁって、思うの」
五年前、イタリアの地で、両親を亡くした美言を引き取ったのが、他でもない、ルーカスであった。
美言が、愛してやまない両親無しにここまでやってこられたのは、美言が思うに、ルーカスという存在がいたからこそであった。
「先生」
木の枝を自分の膝の上に置いて、美言は両手で、師の大きな右手を取った。
まるでそこから、ルーカスの、優しさが伝わって来るかのようで。
美言は思わず、えへへっ、と笑うと、
「先生、美言はね、ぜーんぶをひっくるめて、先生のことがだーい好き、だよ」
ルーカスは苦笑気味に、しかし、左手でそっと、美言の手を包み込むと、
「……ええ」
頷いた瞬間、甘い香りが印象に残る。花を愛する少女からは、いつも、自然の優しい香りがする。
五年前までは知らなかったはずのこの少女が、今やルーカスにとっては、心の支えとなっていた。美言の笑顔を見ているだけで、例えば落ち込んでいる時も、気持ちが晴れやかなものになってくる。
傍にいるだけで、いつも心のわだかまりを、解いてくれる娘のような存在、否、ルーカスの娘。
こつん、と寄りかかってきた彼女の暖かい重みに、ルーカスはそっと瞳を閉ざした。
「私もあなたに、助けられているんですよ。……美言の笑顔は、とびきりの魔法ですからね」
皆を、元気にしてくれます。
それだけで美言は、まず一つ、人のためになる魔法使いとしての仕事をしているんですよ? と耳元でそっと付け加えると、美言はくすぐったそうにして、宙に足をぱたつかせていた。




