第九話 訪ねてきた女性
前書き
この物語は、目には見えないものに耳を澄ませながら、自分自身の運命と向き合っていく少女・楓夏の物語です。
森の声。
魂の記憶。
ご先祖様から受け継がれる想い。
そして、まだ誰にも決められていない未来。
私たちは、日々の中で「どうしてこんなことが起きるのだろう」「なぜこの人と出会ったのだろう」と、不思議に思うことがあります。
もしかすると、その出来事には、目には見えない意味があるのかもしれません。
楓夏もまた、森から聞こえる不思議な声をきっかけに、さまざまな魂や未来と出会い、自分が何者なのかを知っていきます。
けれど、この物語で描きたいのは、特別な力を持つ少女の冒険だけではありません。
大切な人を想う気持ち。
失った人への愛。
自分では変えられない過去。
そして、これから先をどう生きるのかという「選択」。
どんなに過去を変えたいと思っても、起きてしまった出来事を消すことはできません。
それでも、その経験を抱えたまま、未来へ進むことはできます。
誰かに決められた運命ではなく、自分自身で選んだ道を歩いていく。
その先に、どんな未来が待っているのか――。
楓夏と一緒に、森の声に耳を澄ませながら、この物語の世界を旅していただけたら嬉しく思います。
あなたの心にも、いつか小さな「声」が届きますように。
そして、その声があなた自身の未来を選ぶための、優しい道しるべになりますように。
第九話 訪ねてきた女性
牧場の入口に立っていた女性は、三十代くらいに見えました。
長い髪を一つに束ね、薄い青色の上着を着ています。
女性は楓夏の顔をじっと見つめていました。
「あなたのおばあちゃんに、伝えなくちゃいけないことがあるの」
楓夏は少し不安になりました。
「おばあちゃんに?」
「そう」
女性はうなずきました。
そのとき、楓夏の足元にいたキタキツネが低く唸りました。
『ふうか』
「なあに?」
『この人……悲しい匂いがする』
楓夏は女性を見ました。
怖い匂いではありません。
怒っている匂いでもありません。
キツネの言うとおり、悲しい匂いでした。
「お名前は?」
楓夏が聞くと、女性は少し驚いたように笑いました。
「私は、沙織」
「さおりさん?」
「うん」
そこへお父さんがやってきました。
「どうかしましたか?」
女性は深く頭を下げました。
「突然すみません。私は、以前この地域で働いていた者です」
「どんな仕事を?」
「環境調査の仕事です」
その言葉を聞いた瞬間。
楓夏の胸がざわざわしました。
森の事件。
黒い袋。
観測装置。
木の箱。
そして、ひいおばあちゃん。
全部がつながっているような気がします。
「おばあちゃんに会わせてください」
沙織さんは言いました。
家の中へ入ると、おばあちゃんは台所にいました。
「お母さん」
お父さんが声をかけます。
「お客さんだよ」
おばあちゃんが振り返りました。
その瞬間。
持っていたコップが、床に落ちました。
カラン。
「……沙織?」
女性の顔が強張ります。
「お久しぶりです」
「どうして……」
おばあちゃんはしばらく言葉を失っていました。
「二十年ぶりですね」
楓夏には、二人の間に何か大きな秘密があることが分かりました。
おばあちゃんは椅子をすすめました。
「座って」
沙織さんが腰を下ろします。
「ずっと迷っていました。でも、あの事件がまた起きたと知って……」
「事件?」
お父さんが尋ねます。
沙織さんはうなずきました。
「昔も、同じようなことがあったんです」
部屋の空気が静まりました。
「森に何かを捨てる人たちがいた。でも、当時は証拠がなくて、事件にはならなかった」
おばあちゃんは目を伏せました。
「……あのとき、私は母と一緒に森へ行った」
楓夏は驚きました。
「ひいおばあちゃんと?」
「そう」
おばあちゃんは、古い写真を見つめました。
「母は、森の中で何かを見つけたの」
「黒い袋?」
「違う」
おばあちゃんは首を横に振りました。
「もっと大切なものよ」
楓夏が木の箱を見せると、沙織さんは息をのみました。
「やっぱり……」
「知ってるの?」
「はい」
沙織さんは箱の模様を指しました。
「これは、昔の調査記録を保管するために使われていた箱です」
「調査記録?」
「森と海の変化。それから、動物たちの異常行動について記録されていました」
楓夏は耳を澄ませました。
すると、窓の外の白樺が小さく揺れました。
『本当だよ』
楓夏は箱を見つめます。
「でも……どうしてそんな大切なものを隠したの?」
沙織さんは、しばらく黙っていました。
「その記録には、ある会社の名前が書かれていたからです」
「会社?」
「昔、この地域で大きな事業を始めようとしていた会社です」
お父さんが眉をひそめました。
「まさか……」
「その会社が、森に危険なものを捨てていた可能性があります」
楓夏は黒い袋を思い出しました。
「じゃあ、今も同じ人たちが?」
「分かりません」
沙織さんは首を横に振ります。
「でも、今回の事件には、昔の事件を知っている人間が関わっています」
そのとき。
玄関の外から物音がしました。
ガサッ。
誰かが歩いています。
お父さんが立ち上がりました。
「誰だ?」
返事はありません。
お父さんが玄関を開けると、そこには誰もいません。
ただ――。
地面に一枚の紙が落ちていました。
お父さんが拾います。
紙には短く、
「箱を返せ」
と書かれていました。
楓夏はその紙を見た瞬間、背筋が寒くなりました。
そして、森から声が聞こえます。
『ふうか』
「うん……」
『今夜、誰かが来る』
「誰が?」
木々がざわめきます。
『昔、森を傷つけた人』
楓夏は窓の外を見ました。
夕暮れの森は、いつもより暗く見えます。
その夜。
家族は全員、早めに戸締まりをしました。
楓夏はおばあちゃんと一緒に部屋にいました。
「おばあちゃん」
「なあに?」
「ひいおばあちゃんは、どうして私の名前を書いたの?」
おばあちゃんは答えません。
長い沈黙のあと、ようやく口を開きました。
「楓夏という名前はね……」
そのとき。
窓の外で、木が大きく揺れました。
『ふうか』
楓夏には聞こえます。
『思い出して』
「何を?」
『あなたが生まれる前から、私たちはあなたを知っている』
楓夏は目を見開きました。
自分が生まれる前から?
そんなことがあるのでしょうか。
その瞬間。
外で車のエンジン音がしました。
ブーン……。
お父さんが立ち上がります。
「車?」
窓から外を見ると、暗闇の中に一台の車が止まっています。
白い車。
その車のライトが、牧場を照らしました。
そして車から、一人の男が降りました。
手には懐中電灯。
男はまっすぐ、家のほうへ歩いてきます。
楓夏は、おばあちゃんの手を握りました。
「おばあちゃん……」
「大丈夫よ」
けれど、おばあちゃんの手も震えていました。
男が玄関の前で立ち止まります。
コン。
コン。
静かな夜に、ノックの音が響きました。
そして男は、低い声で言いました。
「箱を返してもらおう」
楓夏は木の箱を抱きしめました。
そのとき、森の奥から――。
狼のような、長く低い遠吠えが響きました。
道東の森が、楓夏を守るように鳴いていました。
けれど楓夏は知りません。
この夜、家の中にいる誰かが――。
まだ話していない秘密を持っていることを。
後書き
『世界樹の少女と、終わりの魂』を最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
全100話。
長い旅となった楓夏の物語も、ここで一つの区切りを迎えました。
最初は、森から聞こえる不思議な声に戸惑っていた少女が、たくさんの人や魂、そしてさまざまな未来と出会いながら、自分自身の運命と向き合っていきました。
物語の中では、失われた未来や、選ばれなかった未来も登場しました。
けれど、どの未来も決して無意味なものではありません。
私たちの人生にも、「あのとき別の道を選んでいたら」と思う瞬間があるかもしれません。
過去に戻ってやり直すことはできなくても、その経験をこれからの人生にどう生かすかは、自分で選ぶことができます。
楓夏が最後にたどり着いた、
「未来は誰かに決めてもらうものではない」
という答えは、この物語を通して伝えたかった大切なテーマでもあります。
そして、目には見えない魂や森の声を描きながら、もう一つ大切にしたかったのは、「つながり」というものです。
大切な人との思い出。
亡くなった人から受け取った愛。
家族の絆。
言葉にできなかった想い。
それらは、姿が見えなくなっても、心の中から簡単に消えるものではありません。
もしかすると、ふとした瞬間に感じる懐かしさや、夢の中で出会う大切な人の姿も、心の奥に残った記憶や想いが、私たちに何かを伝えているのかもしれません。
楓夏は、森の声を聞くことで、たくさんの魂と出会いました。
そして最後には、自分自身の声にも耳を澄ませることができるようになりました。
物語は終わりました。
けれど、楓夏たちの未来は、ここからも続いていきます。
悠真がどんな人生を歩むのか。
結花がどんな大人になるのか。
凪人と楓夏がどんな日々を重ねていくのか。
それは、誰にも決められていません。
だからこそ、未来には無限の可能性があります。
この物語を読んでくださったあなたの未来も同じです。
もし今、迷っていることがあるなら、焦らなくても大丈夫です。
立ち止まってもいい。
遠回りしてもいい。
時には、最初から選び直してもいい。
あなたがあなたらしく歩いていく限り、その一歩一歩が、あなただけの未来になっていきます。
最後まで楓夏たちと一緒に旅をしてくださった皆さまへ。
心からの感謝を込めて。
そして、いつかどこかの森で風が木々を揺らしたとき――。
ほんの少しだけ耳を澄ませてみてください。
もしかしたら、楓夏の声が聞こえるかもしれません。
「大丈夫。
未来は、これから自分で選んでいけるよ」
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
全100話――完結。




