第一話 男が魔法を使った日
人は二度死ねるらしい。
もっとも、それは誰かに聞いた話じゃない。
正確には、俺自身まだ一度しか死んでいない。
だから「らしい」としか言えないのだ。
一度目は、下校途中だった。
信号が青に変わって、横断歩道を渡ろうとしている女の子がいた。
ランドセルを背負った、小柄な子だ。
道の向こうから、よそ見運転の大型トラックが突っ込んでくる。
減速する気配はなかった。
「危ないっ!」
声が出たときには、もう体が動いていた。
両手で精一杯、小さな背中を突き飛ばす。
女の子が歩道側へ転がるのが見えた。
——よかった。
視界がやけにゆっくりになる。
目の前に迫る黒いアスファルト。焦げたゴムの匂い。
鼓膜を突き破りそうなブレーキ音。
「そのブレーキ、遅いよおっさん」
最後の瞬間、そんなどうしようもない感想が浮かんだ。
自分の選択を後悔はしていない。
ただ、突然息子を失った両親の顔を思うと。
いまでも少しだけ、胸が重くなる。
そうして俺は死んだはずだった。
というより、状況的に考えて死なない方がおかしい。
なのに次に目を開けたとき、世界がぼやけていた。
天井がやけに高い。体が動かない。
自分の手が、信じられないくらい小さい。
どこかで誰かの泣き声がする。
……俺の声だった。
なんと俺は赤ん坊になっていた。
現代の病院ではない。見知らぬ家の、見知らぬ部屋。
ほんとうに、意味が分からなかった。
死の直前に見る長い夢か。臨死体験の一種か。
いくら考えても答えは出ない。
それでも腹は減るし、泣けば誰かが抱き上げてくれる。
春が来て、夏が過ぎ、秋を越え、冬を耐える。
それが何度も繰り返される。
現実はサディストである。
十五年も続けば、理解できなくても受け入れるしかなくなる。
俺の名はレオン・ハートウェル。
ユーレリア帝国の西部に領地を持つ、貧乏男爵家の三男だ。
前世では日本の男子高校生。
今世では朝起きれば薪を割り、畑を耕す。
それが俺の毎日だ。
●
転生という大げさな言葉は便利だが、現実はそれほど劇的じゃない。
赤ん坊の頃はさすがに思った。
「ゲームや漫画で見た異世界だ」と。
では実際のところ、どうなのか。
便所は外にある。
風呂は週に一度入れればいい方だ。
冬は隙間風が容赦なく吹き込み、朝には水桶に氷が張る。
異世界生活という響きに夢を見るべきじゃない。
あるなら早めに捨てた方がいい。
生粋の現代日本人にとってはつらい環境だ。
精神が持たない。
ただ——ひとつだけ。
この世界には、前世にはなかったものがあった。
魔法である。
初めて目にしたのは五歳の頃だった。
村の近くに魔物が出て、領都から魔法使いが派遣されてきた。
柵の隙間から覗いていた俺の前で、その女は片手を掲げた。
炎が宙に灯る。
まるで生き物のようにうねり、魔物を飲み込んだ。
地面が揺れ、熱風が頬を叩く。
少年なら誰だって息を呑む光景だ。
俺だって興奮した。
……五分くらいは。
「ロマンだけど——戦争に使われるよな、これ」
そう気づいてしまった時点で、純粋な感動は終わった。
夢のない子供だったと思う。
もっとも、その直感は外れていなかった。
この世界の魔法は奇跡じゃない。
国を支える技術であり、産業であり、軍事力だ。
優れた魔法使いを抱える家は栄え、そうでない家は沈んでいく。
そしてこの世界には、決して揺るがない二つの常識がある。
一つ。魔法は、女にしか使えない。
人に魔法を授けた女神の恩寵は、女性にのみ宿る。
だから男は剣を振り、女は魔法を学ぶ。
貴族は娘の魔法の才を求め、それが家の浮沈を決める。
もう一つ。一人が扱えるのは、一つの属性だけだ。
火なら火。水なら水。
適性は生まれたときに定まり、それが変わることはない。
俺もそれを疑ったことはなかった。
疑う理由がなかった。
……十歳の春までは。
●
その日、俺は裏庭で薪を割っていた。
斧を振り下ろし、パンと乾いた音。
汗を拭って、ふと手を止める。
何となく自分の手のひらを見下ろした。
ただ、それだけのことだった。
ぽ、と。
割ったばかりの薪の上に、小さな火が灯った。
思考が止まる。
数秒のあいだ、俺はその炎をただ見つめていた。
慌てて周囲を見回す。誰もいない。
もう一度、手のひらに意識を向ける。
火は、今度は少しだけ大きくなった。
消す。
灯る。
消す。
灯る。
俺が念じるたびに、炎は従順に応えた。
「……いや、なんでだよ」
思わず声が漏れた。
転生はまだいい。十五年も経てば、さすがに受け入れた。
魔法がある世界も、異世界なのだからそういうこともあるだろう。
だが、この世界の魔法は『女にしか使えない』はずだ。
それなのに男の俺が、さも当然のように使えている。
神様の設定ミスじゃないだろうか。
その後しばらく考えて下した結論は単純だった。
黙っておく。
男が魔法を使える。その事実は、この世界の前提そのものを壊してしまう。
珍しい才能、では済まない。
人は空を飛べない。それと同じ次元の話だ。
才能でも努力でも、覆せないこと。
そんなありえないことが、ありえてしまっている。
正直に申告して得をする未来が想像できない。
褒められるより、解剖される方がよほどあり得た。
「……いや、落ち着け」
深く息を吐き、炎を消した。
偶然かもしれない。気の迷いということもある。
一度だけ成功しただけで騒ぐのは早計だ。
そう自分に言い聞かせながら――ふと、井戸の桶に目を向けた。
ただそちらを見ただけだ。
水面が、ふるえた。
次の瞬間、水が浮き上がる。
まるで意志を持った蛇のように宙をうねり、俺の腕に絡みついた。
「っ⁉」
反射的に振り払う。水が弾けて地面に散った。
火だけじゃない。
嫌な予感が走った。
ものすごく嫌な予感だ。
確かめたくない。だが確かめなければ分からない。
地面に意識を向ける。土が波のように盛り上がる。
空を見上げる。風が走り、木々がざわめいた。
光を思えば、まばゆい球が手のひらの上に浮かぶ。
影に目をやれば、周囲がうす暗く沈んだ。
火。水。土。風。光。闇。
全部で、六つ。
どんなに優れた魔法使いでも、一つしか扱えないはずの属性を。
俺はその六つすべて、使えてしまった。
「……終わった」
天を仰ぐ。
世界が終わったわけじゃない。
俺の平穏が終わっただけだ。
必死で考えを巡らせる。
まず必要なのは、制御だ。
最初に魔法を使ったとき、俺にはその実感がなかった。
歩くように、息をするように、ただ火が灯った。
だからこそ怖い。
意識すれば出る。意識しなくても……出るかもしれない。
人前でうっかり使えば、言い逃れはきかない。
力は持つことより、隠せるかどうかがすべてだ。
少なくとも今の俺にとっては。
翌朝から、俺は森に通い始めた。
薪拾いを口実に、人気のない林の奥へ入る。
そこでひたすら――出す、止める。出す、止める。
来る日も来る日も、その繰り返しだった。
すべては自分の力を隠し、平凡な日常を守るため
だが、その秘密は半年も持たなかった。
「隠し事は苦手みたいだね、レオン」
背後から聞こえた女の声に、俺の全身の血は凍りついた。




