6-9 後ろの正面、だあれ?
湖の水面から勢いよく飛び出した、鶴と亀。水柱がバシャーッと立ち上がり、近くにいた双子が頭から水をかぶる。ぺしゃんこになった白髪からぼたぼたとしずくを垂らし、顔をしかめた。
「「最悪」」
二人の白けきった視線の先で——鶴は大きく羽を広げて飛び回り、亀は縦横無尽に泳ぐ。長く固まっていた体をほどくように。生きていることを確かめるように。
やがて彼らは方向を変えた。ツクヨミ様の元へやってくる。鶴がすぐそばに舞い降り、亀が水面から顔を出した。
ツクヨミ様の肩が大きく跳ね、ぶるぶると震え出す。わたしの膝からガバッと身を起こし、這って離れていった。
「うっ……おえええええ」
湖に吐き散らかす。苦しげに、指先が水面をつかんだ。わたしはすぐに立ち上がり、その背中をさすりに行った。
「大丈夫、大丈夫」
「うっ……おまえ……ばっちいと思わないの……?」
「養護施設で、熱を出した子たちの看病を何度もしてきましたから」
ツクヨミ様の呼吸が少しずつ落ち着いていく。
その向こうで、鶴と亀は、若干うろたえるような、申し訳なさそうな動きを見せていた。
「きみたちも、大丈夫だからね。ツクヨミ様はきみたちのことが嫌いなわけじゃないよ」
鶴と亀は、そろりそろりと向きを変えた。ツクヨミ様には近づかないよう、円を描いて回り込み、わたしの背中へすり寄ってきた。
「わ!?」
思わず声が漏れる。冷たさに驚いたが、怖くはなかった。これまで触れたこともない生物なのに、どこかなつかしい。優しさが伝わってくる。
わたしは亀を膝に乗せ、鶴の頭を抱いた。
「きみたちも、ずっと待っていたんだね」
鶴と亀は、安心し切ったように体を預けている。
そのとき、司命が上ずった声を出した。
「お、おい、れーちゃん。あれ……」
天を指差す。つられるようにわたしも見上げた。
巨大な満月のすぐ脇を、黒い影が通過し、こちらに迫っている。最初は、空にできた小さな傷のように見えた。しかしみるみるうちに大きくなる。
隕石だ。
「隕石が落ちるのは、七日後じゃなかったの!?」
声がひっくり返った。
司録がすかさず口を挟む。
「冥府とそれ以外では、時間の流れ方が異なります。何度言えば覚えるのですか」
「今はそんなことを言っている場合じゃないだろ!」
司命が、半ば怒鳴るように言った。
「あれ、どうするんだよ——」
「この世界には落ちないから、大丈夫だよ。あれが向かっているのは日本だ」
ツクヨミ様が口元をぬぐいながら言った。まだ息が荒いが、目はしっかりと開いている。
「それは大丈夫じゃない! ツクヨミ様、早く月を動かして——」
「だから」
あっさりと遮られる。
「それはしないって、最初から言っているでしょう」
絶望に胸が締めつけられる。
しかし、青白い衣がふわりとひるがえった。ツクヨミ様の体が宙に浮く。その手に、身長を超える長さの細長い棒が出現した。先端には大きな三日月の刃がついている。死神の鎌のようだ。
三日月の鎌を片手に、空へ一直線に飛び出していく。隕石はすぐそこに見えている。
「隕石の方をどうにかするよ」
真正面から鎌を振るう。月光が弧を描く。ガン、と鈍い衝撃。隕石の表面がひび割れ、火花のように破片が散る。
「……っ!」
ツクヨミ様の体が大きく弾かれた。それでもすぐに体勢を立て直し、再び踏み込む。今度は切るのではなく、三日月の刃を隕石に食い込ませた。刃がきしみ、押し返される圧力に腕が震えている。それでも逃げない。歯を食いしばり、唇の端からは血がにじむ。
隕石が砕けた。破片が雨のように降る。
「やったか——?」
司命が息を弾ませる。
でも、まだだ。一番大きな塊が残っている。勢いは止まらず、むしろ加速している。
破片を浴びたツクヨミ様は、全身傷だらけで浮かんでいた。青白い衣が血に染まっても、三日月の鎌は手放さない。また隕石に立ち向かっていく。
「どうか人間を助けて。お願い、お願い、お願い……」
わたしは無意識のうちに口走っていた。
すると、すぐそばで空気が震えた。鶴と亀が、ツクヨミ様を追うように空へ飛び出す。月光をまとい進みながら、ぐぐぐ、と音を立てるように大きくなっていく。鶴は飛行機ほどに、亀は船ほどに。その姿は、神話の中の存在そのものだった。
ツクヨミ様が、はっと振り返った。
「来るな!」
しかし彼らは止まらない。鶴が隕石の側面へ回り込み、亀がその下へ潜り込む。
そして、受け止めた。巨大な質量に抗う。光が弾け、空が咆哮する。鶴と亀の体がほどけていく。今の今までわたしにもたれかかっていた羽も甲羅も、粒子となって散っていく。
声が出ない。ただ見ているしかない。
鶴と亀は、その勢いを削り切る最後の瞬間まで隕石を支えた。そして役目を終えると、夜空に溶けて消滅し、あとには巨大な満月だけが残った。
「……ツクヨミ様!」
わたしははっとして叫んだ。空の高みから、小さな影が落ちてくる。意識があるのかもわからない。
司録がすでに動いていた。指先ですばやく空を切ると、破れた和紙や折り鶴の残骸がひとつに集まり、幾重にも編まれ、網を作り出す。ツクヨミ様の落下地点に合わせて広がった。体を受け止めると、びり、と嫌な音が走ったが、持ちこたえ、優しく水面へと降ろす。
三人で駆け寄った。横たわるその姿は、ぼろぼろだった。衣は裂け、全身に血がにじんでいる。それでも消滅の気配はない。隕石も消えた。
わたしはその場に膝をついた。ツクヨミ様の胸が上下しているのを確認する。
「……生きている」
かすれ声にかぶさるように、司命が叫んだ。
「生きている。生きているぞ。やった――」
わたしと司録の手をつかみ、高々と天に掲げる。月光の下で、三人の影が一つに伸びた。
「ありがとう……」
空を見上げ、鶴と亀に向けてそっと告げた。羽根一枚、甲羅の欠片も残らなかった。どうして隕石を止めてくれたのかはわからない。ツクヨミ様を助けに向かったのだろうか?
これから先、わたしは永遠に彼らを忘れることはない。
そのとき、水面に新たな波紋が広がった。出た! エンマ様だ。深紅の官服をまとい、脇に桃鬼さんを引き連れている。桃鬼さんは困ったように頭を掻いていた。
「ごめん、エンマ様に見つかっちまった。でも、おまえら、七日間も帰ってこないからさあ」
そ、そうか。七日後に来るはずだった隕石が、たった今落ちたということは、冥府では七日が経ったのだ。このツクヨミ様の世界では、一、二時間も経っていない感覚なのに……
「桃鬼さん、七日間もわたしたちの体を守り抜いてくれたのですか?」
「だって仕方ないだろ。守ってやると約束したんだから」
桃鬼さんはあっけらかんと言った。当然のような軽い調子に、かえって胸がじんとする。
そして次の瞬間には、一気に血の気が引いた。
「ということは……わたしたち、七日間も無断欠勤を?」
エンマ様は無言で立っていた。怖い、という言葉では足りない。そりゃ怒るよね。エンマ様でなくとも怒る。
よく見れば、目の下には墨で塗ったような濃いクマがあった。補佐なしで、一人で裁きを回し続けていたのだろう。
「おや、エンマか。大きくなったね……」
弱々しい声が割り込んだ。ツクヨミ様だ。体を起こし、目を細めている。少年から大の大人へ向ける言葉とは思えないが、ここでは年齢と容姿は一致しない。
「ツクヨミ様に、何があった」
怒りを押し殺すような、エンマ様の声。報告を求めている。わたしと司命と司録は視線を泳がせた。いたずらをした子どものように、もじもじと足先で水面をこする。
「いいんだ……彼らは正当防衛をしたまでさ……」
ツクヨミ様がゆるりと口元を緩ませた。ぎこちないながらも、わずかに殻を破った表情だった。
不意に足元が歪んだ。誰かに指でなぞられたように、湖がぐにゃりと曲がる。
「あれ!?」
体の重心が滑り、バランスを崩した。崖から落ちたような感覚に、ひやっとする。
「夢から覚める時間だ。愚かな部下たちよ」
エンマ様の声が響いた。
視界の端でツクヨミ様が動く。のろのろと月下美人の花びらに触れている。すると体の傷が少しずつ癒えていった。
「また会おうね、礼阿」
やわらかな声で呼びかけられる。
「ツクヨミ様、ありがとうございました。またいつか」
「ずっと前に、礼阿が書いた記事を読んだよ。ヤマタノオロチや姉様に関するものも。よければ、ぼくの記事も書いてくれない? 外に出られるようがんばってみるから。いつか家族に顔向けできたらいいなあ」
「……! 記事はもちろん書きます。でも、無理にがんばらなくても——きっと、あなたのペースで大丈夫ですよ」
意識のふちであっぷあっぷをしながら、全力で伝えた。
ツクヨミ様がわたしの目を捉える。
「月はすべてを記憶しているよ。そういえば、礼阿には、親がいないね」
「はい……孤児院で育ちましたが……」
「ううん、そうじゃなくて。礼阿と血の繋がった人間がいないんだよ」
「それって、どういうこと――」
理解が追いつかない。言葉の途中で、自分の輪郭が完全に崩れた。
「礼阿も、後ろの正面を振り返ってごらんよ」
ツクヨミ様の声が、水の中に沈むようにくぐもる。どこか遠くからずるずると縄で引かれるように、意識が後ろへ引っ張られていく。
満月も、湖も、ツクヨミ様の姿も、すべてが遠ざかった。
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