4-10 礼阿vs閻魔大王!?
こうして、エンマ様の補佐の座をめぐる戦いは終結した。野々子ちゃんを見送るため、エンマ様と双子と一緒に中庭まで出向く。
野々子ちゃんは去り際、井戸に片足を突っ込みながら、わたしに愛想よく手を振った。そしてエンマ様に向けては悪態をつく。
「この冥府 ブラック企業よ 社長のせい。礼阿さんたち お気の毒だわ」
何かよそごとを考えていたらしいエンマ様は、腕組みをしたまま、またも凍りついた。
「カチコチの 氷頭を 直しては? ないに等しい 会話力もね」
野々子ちゃんは言い捨てると、そのままひらりと井戸に飛び込んだ。ぽちゃん、という軽い水音のあと、何も聞こえなくなる。また一か月後、地上の品々を持って来てくれるのだろう。
司命と司録が揃って大きく伸びをした。
「いやあ、疲れた疲れた」
「小娘どものいがみ合いに付き合うのは、もう懲り懲りです」
「お開きだな」
「お疲れさまでした」
双子はエンマ様にお辞儀をすると、さっさと背を向けて歩き出す。自由だなあ。
わたしもひと息つき、踵を返した。安堵とともに疲労感が押し寄せる。部屋に戻ろうと思った、そのとき。
「おまえは残れ」
冷たい声が背中を貫通した。ぴたりと足を止め、恐る恐る振り返る。
エンマ様が怖い顔で、煙水晶の瞳をわたしに向けていた。この御方、また怒っている! なんで? 野々子ちゃんとの口論? 平手打ち? わ、思い当たることが多すぎる。
「げ……」
思わず声が漏れ、慌てて口を押さえたが、もう遅い。
エンマ様の眉間のしわがますます深くなる。
廊下の先で双子が振り返った。
「れーちゃん、ちゃんと反省しろよー」
「ご武運を」
にやにやと野次を飛ばすだけで、助ける気はゼロ。完全に見捨てられた。
エンマ様は何も言わず、颯爽と背を向ける。
「来い」
短い一言。逆らう余地はない。渋々、あとをついていく。中庭を抜け、再び広間へ。先ほどまでの騒動が嘘みたいに、しんとしている。
嫌だなあ。何を叱られるのだろう。それとも全部か。
エンマ様が玉座に腰を掛け、わたしは観念してその正面に立った。
「……」
また無言。叱られる前の静けさって、どうしてこうも長く感じるんだろう。
そしてエンマ様は、口を開くより先に立ち上がった。今しがた座ったばかりなのに。
うろたえるわたしの前で優雅に手をかけたのは、自身の背後にあるわたしの椅子だ。たくましい片腕で軽々と移動させ、閻魔帳や筆が置かれている机の反対側に回り込み、玉座の正面に据える。
「座れ」
「あ……はい。わざわざありがとうございます」
「おまえは裁かれる側ではない。立つ必要はない」
机を挟んでエンマ様と向かい合い、座った。背筋を伸ばして身構える。
「知りたいことがある」
「……はい」
「冥府に不満はあるか」
「……はい?」
間の抜けた声が出た。え、今なんて? 不満? わたしの? エンマ様のじゃなくて?
「おれはこのやり方を通してきた。死者たちからクレームが入ろうが、業務改善命令が下ろうが、曲げる気のない部分が大半だ」
エンマ様は険しい顔を、さらにしかめた。
「しかし、働く者たちがストレスにさらされているとすれば、改善しなければならないのかもしれない」
——なんだ。野々子ちゃんのののしりを気にしているんだ。これまであれほどはっきりと苦言を呈されたこともなかったのだろう。
ふっと笑いそうになるのを、必死でこらえる。かわいいところもあるんだ。
「それで?」
エンマ様が高圧的な角度で首を傾ける。でも内容は、ただの従業員アンケート。そんな怖い顔ですることじゃないのに。
どうしよう、言ってしまおうか。この際だから思い切って。
わたしは咳払いをし、真面目な顔を作った。
「不満というほどのものではないのですが」
エンマ様がわずかに身を乗り出す。わたしは続けた。
「……ちょっとだけ、怖いです」
空気が固まる。
まずかった? ストレートすぎた? また怒っちゃった?
エンマ様は両肘を机につき、顔の前で組み合わせた。氷の炎が燃え上がっているようだ。
「具体的に言え」
あ、とわたしは気づいた。
これは怒っているんじゃない。考えているんだ。真面目か。
今度は我慢できず、少しだけ吹き出してしまった。エンマ様がすかさずにらみつける。
ああ、わかってきた。次は、部下の真意が理解し得ず、探ろうとしているのね。どこまでも真面目だ、この御方は。
どうやら、話しても大丈夫みたい。
「エンマ様は……常に怒っているように見えるんです」
「怒っていない」
「は、はい。怒っている〝ように見える〟だけで……」
「怒っていない」
食い気味にかぶせてきた。表情は完全に怒っているけれど。
「……あの、鏡、見ます?」
「見ない。己の顔はわかっている。常に同じ顔だ」
「それが問題なんです」
即座に言い返してしまった。
「嬉しいときも怖いときも怒ってるときも、全部同じ顔だから、区別がつかないんです」
沈黙。
怖い怖い怖い怖い!さすがに今は怒っているかも!でも、わからない!
「……では」
エンマ様が、組み合わせている手の向こうで、あごを上げた。
「今はどう見える」
ああ——これ、正解ある?
わたしはごくりと唾を飲み込み、真剣に観察した。
両眉がくっつきそうなほど寄っている。伏せがちな長いまつ毛が影を落とし、瞳をいっそう暗く沈ませていた。唇はきゅっと結ばれ、その端にかすかにしわが浮かんでいる。
「……少し、すねているように見えます」
「すねていない」
「エンマ様の笑顔が見てみたいです」
「楽しければ笑う」
ヒアリングは前に進まない。だって上司のコミュニケーション能力が皆無だから。
その最中、わたしはふと思った。これはエンマ様を取材するまたとない機会かもしれない。
「エンマ様は、どんなときに楽しいのですか?」
エンマ様は答えない。まばたきもせず、ただこちらを見ている。
取材テクニックを試すときだ。相手が言葉に詰まったら、具体例を出す。
でも、これを聞くにはためらいもあった。
「エンマ様は……野々子ちゃんのことを気に入っていると聞きました。長く話し込むともあるとか。そういうときには、笑顔になるのでしょうか」
次の沈黙は長かった。これまでと似ているようで違う。
エンマ様のまつ毛がかすかに揺れた。何かを言いかけ、やめたように見えた。そして——
「どうだろうな」
ぼかした。珍しく、はっきりしない言い方だ。
わたしはなんとなく意地になり、食い下がった。
「どんなことを話すのですか?」
「覚えていない」
「楽しいのですか?」
間が空いた。
エンマ様の視線が外れる。
「……楽しくはない。何も」
淡々と、断ち切るような声。
「おれは何も感じない。喜びも、怒りも、悲しみも、楽しさも。それは、おれが閻魔大王だからだ」
エンマ様は、わたしに、そして自分自身に言い聞かせているようだった。
——何も感じないって、一体どういうこと?
「だから、おれに態度の改善は期待するな。それ以外で、おまえの望むことは何でも叶えてやる」
真正面から見据えられる。顔が近い。いつもの揺るがない目だ。
「他に不満はあるか」
エンマ様の問いに、わたしは肩を震わせた。
「……いえ、ありません」
結局、そう答えるしかなかった。
エンマ様はうなずく。用は済んだとばかりに立ち上がり、衣をひるがえした。振り返りもせずに広間を出て行く。
残されたわたしはぽつんと椅子に座っていた。
〝何でも叶えてやる〟
そんなことを言われても、ちっとも嬉しくない。欲しいのは、そんなものじゃないのに。
〝おれが触れたいのは、事実の奥にある心の部分だ〟
かつてあなたはそう言った。エンマ様の心は、本当に空っぽなのだろうか?
重要な秘密に一歩近づいた気がする。とても怖い秘密に。
新年度もよろしくお願いいたします!
平日は朝7時頃、土日祝は正午頃に更新いたします。




