1-4 どうやって死者を裁くの?
階段でわたしの後ろを歩いてきた中年男性が、
おずおずと広間に入ってきた。
次に閻魔大王に裁かれるのは、この人だ。
ぱりっとしたスーツに、少し薄い頭髪。
三十四日間も一緒にいて、
たまに身の上話もしていたものだから、
親近感がある。
ほっとして手を振った。
「天野さーん」
その途端、猛ダッシュしてきた司録に確保され、
自分の席の隣へ押し込むように座らされた。
椅子がキイッと鳴る。
司録は青ざめた顔で、
しーっと人差し指を立てた。
「頼むから、邪魔をしないでください」
司録の必死の形相に、
わたしは顔をしかめた。
身を寄せ、ひそひそと反論する。
「天野さんは家族思いのいい人よ。怖がらせないで」
司録は無視を決め込んでいた。
わたしも渋々黙り込む。
「名前」
閻魔大王の声に、
天野さんは濡れた目を上げた。
悲痛な面持ちが張りついている。
「……天野 若彦です」
名前が判明するや、
司録はすかさず帳面を呼び寄せた。
壁際の本棚から飛んできたそれを受け取り、
勢いよくページを繰る。
思わず横からのぞき込んだ。
帳面の中は、余白のない世界だった。
細かな墨の文字がびっしりと連なり、
紙を黒く埋め尽くしている。
これが彼の人生。
「あの、わたしはなぜ死んだのですか。
まだ四十五歳なのに」
すがりつくように、天野さんがたずねる。
司録とともに最後のページを見たわたしには、
もう答えがわかっていた。
胸の奥がひやりと冷える。
閻魔大王に帳面を預けながら、
司録が事務的に告げた。
「心筋梗塞です」
「そ、そんな。
中学生と小学生の子どもがいるんです。
何とかなりませんか」
天野さんの懇願を、司命が笑い飛ばす。
「ははっ! おまえの命日は、
前から決まっていたこと。
一日一日を無駄に過ごしちまったようだな」
最っっっ低。
天野さんは絶望に打ちひしがれていた。
階段に並んでいたときの
穏やかな面持ちは消えている。
閻魔大王を前に、パニックに陥っているのだ。
死んでしまったという実感も湧いてきたのだろう。
嗚咽混じりの泣き声が響き渡る。
見ていられない。
わたしは立ち上がりかけたが、
司録に腕をつかまれ、引っ張り下ろされた。
「離してよ」
「何をする気だ、馬鹿芋娘」
司録が、シャーッと歯を剥き出す。
閻魔大王は帳面に目を向けたままだ。
「言いたいことはあるか」
大きな声を出したわけでもないのに、
司命の乾いた笑いがぴたりと止む。
天野さんの表情にも緊張が走った。
「殺していません」
食い気味の声。
「盗みも、暴力も、していません。
犯罪なんて、一度も——」
閻魔大王のしなやかな指先が紙を押さえ、
静かに次のページへ送る。
「では、何をした」
沈黙。
そして、天野さんの言葉が足元に落ちた。
「……裏切っただけです」
わたしは耳を疑った。
天野さん、何の話を始めたの?
「会社で、部下がいまして。
真面目なやつで……仕事もできた」
天野さんはそこまで言ってから、
自分が語りすぎていることに気づいたように
口をつぐんだ。
「続けろ」
閻魔大王が顔を上げ、見透かす。
天野さんは気まずそうに目を逸らした。
「そいつの妻と浮気しました」
天野さんは矢で射抜かれたように胸を押さえ、
荒い息を吐く。
声がどんどん小さくなる。
「結果は」
「そいつは、会社を辞めました」
「それだけか」
天野さんの喉がひくりと鳴った。
青白い唇が震え始める。
「そのあと、自ら命を絶ちました」
白状するなり、天野さんは泣き崩れた。
肩を震わせ、身を縮めている。
そんな。信じられない。
唇を噛み、目の前の男性を見つめた。
仕事熱心な課長。
休日には家族サービスを欠かさないお父さん。
階段で見聞きした像が、次々と浮かんでは砕けていく。
嘘だと言って。今すぐに否定して。
さもないと……
「家族がいたのはおまえだけではない。
その部下もまた、一家の長だった」
閻魔大王の冷たい声が広間を貫く。
天野さんは床にうずくまっていた。
「おれは手を出していない。
死ねなんて言っていない。
家族を捨てることを選んだのは、
あいつ自身です」
それを聞くや否や、
わたしは司録の制止を振り切り、
立ち上がった。
天野さん。優しい天野さん。
本当はそんなことを考えていないよね。
こんな恐ろしい場所に引きずり出されて、
気が動転しているだけだよね。
「どう思っていましたか」
わたしは叫んだ。
天野さんの肩がびくりと跳ね、
顔を上げる。
「どう、とは」
「きっと、一時の気の迷いで……
部下が亡くなるなんて思いもしなかった。
そうですよね?」
助けたい一心だった。
言葉に詰まり、天野さんの喉が鳴る。
視線が逃げ場を探すように揺れる。
そして、堰が切れた。
「ずっと前から、
死んでくれればいいのにとは思っていたよ。
あの、いけ好かない野郎——
でも、おれは殺していない!
おれは悪くない!」
天野さんが唾を飛ばしながらわめく。
わたしは呆然と立ち尽くしていた。
この男は一体、何を言っているの?
怒号の中、閻魔大王は帳面を閉じた。
表紙の上で筆を滑らせ、
ためらいなく行き先を綴る。
墨で大きく四文字。
それが判決だった。
「以上」
閻魔大王の一言とともに、
熱をはらんだ風が後ろから押し寄せた。
髪が乱暴に煽られる。
振り返り、あっと息をのんだ。
どうして気づかなかったのだろう。
閻魔大王たちが背負っているのは、
壁でも本棚でもない。
霧に紛れ、
天井に届くほどの巨大な扉がたたずんでいる。
今、左右に大きく開かれていた。
むせ返るような鉄と血の臭い。
その奥から鬼たちが嬉々として進み出て、
罪人を引きずっていく。
天野さんの顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、
もはや人の形を保っていなかった。
帳面の表紙には、閻魔大王の字で
〝衆合地獄〟と記されていた。
「違う! おれは何もしていません!
あの野郎、自殺なんて余計なことをしやがって——
閻魔様、どうか聞いてください——」
扉が閉まる鈍い音とともに、
悲鳴もぷつんと途切れる。
残ったのは焦げつくような熱と、
重苦しい静寂。
わたしはその場に座り込んだ。
冷たい床に触れているはずなのに、
じわじわと焼かれるような錯覚に陥る。
あれが、地獄の門。
あれが、人間の醜さ。
わたしは、裁きというものの残酷さを、
まったく理解していなかった。
墓場まで持っていった秘密も、エンマ様の前では暴かれてしまいます。
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