2-8 太野礼阿のすべきこと?
かくして初仕事が終わった。よろよろと椅子に戻る。
てのひらの中では、貝殻が澄んだ光を放っていた。まるで、かつての親愛を切り取ったかのように。首飾りの紐を、首の後ろでそっと結わえた。
疲労困憊だが、次の死者の来訪に向けて気持ちを整える。
エンマ様が肩越しに振り返った。
「おまえはもう部屋に戻れ」
「そうですね、部屋で服を着替えたら、すぐに戻ってきます——」
「おまえは、今日はこれで退勤だ」
にらんでいるわけではないのに、怖い顔。上司に盾突いた部下に腹を立てているのだ。
わたしはふてくされ、つい語気を強めて訴えかけた。
「わたし、間違ったことはしていません。エンマ様にはエンマ様の視点が、わたしにはわたしの視点があるわけで、こんなことで仕事を取り上げられては——」
ところが、降ってきたのは予想外の一言だった。
「まずは傷を癒せ」
きょとんとした。そういえば、オロチに羽交い絞めにされたときに、切り傷ができたのだっけ。少しかゆい程度ですっかり忘れていた。
「こんなの、何てことありません」
言い張ったが、エンマ様の容赦ない眼差しが、頬から首筋、腕、指先へと、傷を追う。
「おまえのお節介は度を越えている。矢面に立つな」
「話せばわかったでしょう。彼は悪人なんかじゃ——」
「今回は運がよかっただけだ。聞く力はおまえの武器だが、盾にはならない。今後一切、おれの後ろから出るな」
容赦のない口調。
はーーーん。
わたしは思わずつぶやいた。
「……だから〝業務改善命令〟が出るんだ」
エンマ様の眉間に、くっきりと縦じわが寄った。
「何だと?」
「説明責任は最小限。感情は伏せる。絶対的なトップダウン。そういう内輪での態度って、お客を相手にしたときも出ちゃいますよね」
双子が両手をあたふたと振り、黙れと合図を出してくる。わたしは気づかないふりをした。
新聞部だって同じだ。普段の言葉遣いが、思想が、生き方が、文字の一粒一粒に自ずとにじみ出る。良くも悪くも。
そのとき、冥府の温度がぐっと下がった。
「言いたいことはそれだけか」
エンマ様の声が重く沈む。
「おれは、死者や部下の機嫌を取るために裁いているのではない」
霧が床を這う。冷気が足首に絡みつく。
「説明責任など、本来は不要だ。己の行いは、己が一番よく理解しているのだから」
わたしの耳の内側で、心臓の音が鳴る。
だめだ。逆らえない。早くここから逃げるべきだ。
「そしておまえは、自分が裁かれない立場だとでも思っているのか。うぬぼれるな。八百万の物象の中で、裁かれないものはない。神も、怪物も、王も、冥府の従業員も、例外はない」
寒い。濡れた官服が、じくじくと体温を奪っていく——
そう思ったが、衣はすでに乾いていた。
「理解したなら、今すぐここを出て行け」
最後の命令が振り下ろされると、わたしは弾かれたように立ち上がった。ペンと手帳を抱え、一目散に大広間から逃げ出す。
ひどい! ひどい! わたしは間違ったことをしていない。エンマ様は偉いからって、全部が正しいわけじゃない。それでも、言うことを聞かなければならない。
悔しい。腹が立つ。
廊下を曲がる。霧が濃い。
食堂に飛び込んだ。湯気。味噌の香り。ほっとするあたたかさ。別世界だ。
「ん? 礼阿ちゃん。仕事はどうした」
厨房にいる桃鬼さんが振り返った。わたしの表情を見て、困ったようにぽりぽりと頬を掻く。
「……何か食べるか? でも、朝食を食べたばかりだもんな」
わたしは椅子に腰掛け、スライムのように伸びていた。
前の机に、丸皿がことんと置かれた。砂糖をまぶしたお団子が三つ。
桃鬼さんは向かいの席に座り、肘をつく。
「どうして悲しそうな顔をしているの」
わたしは、きょとんとして目を上げた。
「わたし、悲しくはありません。怒っているんです」
桃鬼さんはこちらを見つめ、へえ? と面白そうに首をかしげた。
「聞いてやろうか」
この人物は、けだるげではあるけれど、たぶん困っている仲間を放っておけないのだろう。
「でも、聞くのはわたしの仕事です」
「食堂では、仕事はなしと言っただろ」
そうだ。七十年前にそう叱られた。
「厳密に言うと——仕事の話はNGで、仕事の愚痴はOKね。
ま、甘いものでも食べながら」
わたしは今日の出来事を話した。でも、これまでずっと〝聞く側〟だったからか、うまく言葉が出てこない。相手に語らせるのは得意でも、自分の気持ちを伝えるのは、これほど難しいのか。
桃鬼さんは、ぼんやりした顔で聞いている。相槌が少ない。表情も変わらない。伝わっているのか、いないのか。でもその食いつきすぎない雰囲気が、かえって話しやすかった。
洗いざらいを語り終えると、桃鬼さんはこう言った。
「ふうん。じゃ、礼阿ちゃんのすべきことは決まっているね」
「はい。ヒイノミコトにまつわる異説を記事にして……」
「うん? まあ、それもいいけれど。その前にさ。
エンマ様と仲直りしておいで」
「どうして——わたし、あれ以上は歩み寄れないです——」
「エンマ様が許せなかったのは、礼阿ちゃんが怪我をしたことじゃないの? もしくは、怪我をさせた自分、か」
え。わたしの怪我が不機嫌の原因?
それから、いや違う、と思い直し、首を横に振った。
「あの御方は、自分の思い通りにならないことが気に食わないんですよ」
「さっき、きみは、〝自分は怒っている〟と言っただろう。でも、おれには本当に悲しそうに見えたよ。置いていかれた子どもみたいな」
……わたしは悲しかったのだろうか。
理解し合えず、突き放され、悲しかった。
だからこんなに寒いのか。
「自分の気持ちをわかってもいないのに、相手の気持ちをわかった気になって踏み込むと、転ぶぞ」
桃鬼さんが、へらっと笑った。
「取材者の悪い癖だな」
ぐさり。
わたしは少し考えたあと、別の角度から反論した。
「でも、パワハラを受けたのは事実です。三歩下がって歩けと言われたようなものでしょう」
「礼阿ちゃんの正義感は尊重するさ。でも無差別に牙を剥く極悪人はいる。エンマ様も、双子も、おれたち鬼も、そういう人間を数知れず見てきたんだ」
桃鬼さんの口調には、どこか同情が含まれている気がした。
「王が柔くなったら、真っ先に食われる」
わたしは手元にある皿を見下ろした。白くて、ふにふにで、甘いお団子。ばらまけば誰もが群がり、皿はあっという間に空っぽになる。
優しさは、時に消費されるのだ。
「もちろん、礼阿ちゃんの言うことは間違いじゃない。
でもな、エンマ様の怖さは、すべてが悪意ってわけでもない」
わたしは、桃鬼さんの目を見つめ返した。思わず逸らしたくなるようなエンマ様の瞳とは違う。安心できる場所が、話を聞いてくれる人物が、ここに存在している。
最後のお団子を口に放り込んだ。甘さが広がる。さっきより、ちゃんと味がする。
「わかりました。今日中に話してみます」
桃鬼さんは微笑みながら立ち上がり、皿を回収して厨房に戻っていった。
「婆ちゃーん。エンマ様の官服が汚れたらしい。あとで洗ってさしあげて」
「もう、子どもみたいな御方だねえ!」
桃婆とのやり取りが遠くに聞こえる。
——よし。エンマ様たちの仕事が終わったら、思い切って執務室を訪ねる。
それまでに、自分の気持ちを少しでも理解しておこう。
礼阿、禁断の部屋へ。
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