2-9 炎魔大王の趣味は?
食堂の隅で手帳を見返し、ヒイノミコトの証言をまとめながら待ち続ける。
この間に、桃爺が塗り薬をくれた。大蛇の鱗が擦れてできた切り傷につける。すると、傷口の皮膚が寄り合い、治りかけの薄桃色に変化した。
長い長い時間を経て、ようやく白命と白録が現れた。およそ四千人分の裁きが終わったのだ。
わたしはすっくと立ち上がり、入れ違いで机を離れる。
「あっはは! れーちゃん、まだ拗ねてんの?」
白命がけらけらと笑う。
「拗ねてないよ」
「その声色は、九割九分、拗ねてんのよ」
「まあ、最低のデビュー戦だったことは確かですし」
白録がつんとした声を出す。
もう、この双子は余計なことばっかり。でも念のため聞いておこうかな。
「二人は、エンマ様の執務室に行ったことある?」
「まさか。そもそもプライベートの用事なんてありませんし」
「でも、廊下の奥から悲鳴が聞こえてくるよな? ほら、エンマ様は美女の舌を抜くのが趣味だから」
白命が、指先で舌をつまむふりをする。
わたしはじろりとにらんだ。
「いいかげん、その下品な冗談はやめて。執務室はどこにあるの?」
「知ーらね。まさか、突撃するつもりじゃないだろうな?」
「今度こそお仕置きされますよ、焼き芋」
「美女たちと並んで舌を抜かれるのがご所望なら、話は別だが」
双子がそろって意地悪な笑い声を上げた。話にならない。
鼻息も荒く、食堂を出る。
すると、衣の裾を引っ張る小さな手に気づいた。
桃爺と桃婆だ。夕食を乗せたお盆を二人がかりでかかげ、くりくりの瞳でわたしを見上げている。
「桃坊から聞いたぞ。エンマどのの、しつむしつに行きたいのじゃろ」
幼児が、おじさん料理長を〝桃坊〟と呼ぶ違和感。今では慣れたものだが。
わたしはしゃがみ込み、視線の高さを合わせた。
「連れて行ってくれるの?」
「わしらを追った先が、ぐーぜん、しつむしつだった、ということはありうるかもしれんのぉ」
「追いかけてもいいの?」
「ふふ。鬼ごっこじゃ、鬼ごっこじゃ」
幼い二人は、勢いよく廊下を走り出した。急いであとを追う。まさか、半鬼と鬼ごっこをする日が来るとは。味噌汁の湯気が尾を引き、食器が危なっかしく揺れている。
「お盆を貸して。わたしが運ぶから!」
しかし二人ともはしゃいでいて、聞く耳を持たない。
立ち入ったことのない廊下で、中庭を見つけた。中央に、苔むした不気味な井戸がある。
前方に向かって問いかけた。
「あの井戸はなに?」
「たまーに、人間の青白い手が出てくるのじゃよ。うへへ」
桃爺のからかう声が返ってくる。
わたしは井戸から思い切り目をそらした。嫌な冗談!
角を曲がるごとに、両壁にかけられた松明の炎がどんどん小さくなっていく。それなのに、なぜだろう。空気が熱い。酸素が薄くなっている気がする。
桃婆と桃爺の足が同時に止まった。冥府の深層。両開きの黒い扉。ここがエンマ大王の執務室か。汗が一滴、こめかみを伝った。緊張のせいではない。冥府のどこよりも熱いのだ。そして暗い。
二人がお盆を扉の前に置いた。わたしは意を決し、ノックをしようと腕を上げる。
そのとき——
室内から叫び声が漏れ聞こえ、三人同時に飛び上がった。
言葉にならない苦痛の悲鳴だ。
桃爺と桃婆は震え上がり、わたしの体をよじのぼった。わたしも二人を抱きしめ返す。
音量はどんどん上がっていく。甲高い。エンマ様の声ではない。拷問という言葉が頭をよぎる。耳を塞ぎたくなる。普通じゃない。あまりに生々しい。
後ずさりをし、そのまま方向転換した。幼児たちを抱え、全速力で元来た道を戻る。声を出すことも振り返ることもできず、松明の影を踏み越え、井戸のある中庭の脇を駆け抜け、自分の部屋へと逃げ帰った。
現実を遮断するように、三人そろって布団へダイブする。
う、う、うわあああ! 白命の言ったことは本当だったの?
暗い部屋で、抗えない距離に女性を追い詰めるエンマ様。片手で長い髪をつかみ上げ、片手で釘抜きを振るい、舌をつかむ——
そんな映像が、嫌でも頭の中に流れた。
ぎゃー!!! 再生停止! 怖すぎる!
布団の中で足をじたばたさせたせいで、掛け布団が巻きつく。桃爺、桃婆と並んで簀巻きになった。
顔だけが突き出た状態で、思いつきを口に出してみる。
「……例えば、裁きの一種とか」
「さばきは、広間でとりおこなうものじゃろう」
桃爺が、魂の抜けたような顔で言う。
「舌に刺さった魚の骨を、抜いてあげていたとか」
「食事はまだじゃったろう」
桃婆の目は点になっていた。
「じゃあ、虫歯を抜いてあげていたとか」
「「めーふに病はない」」
桃爺と桃婆の声がぴたりと重なった。
だめだ、こじつけようもない。あれは明らかに痛めつけられ、恐怖におののく悲鳴だった。
「わすれようぞ」
「深追いは、きんもつじゃ」
珍しく、神妙な面持ちの二人。
わたしもうなずくしかなかった。
・・・・・・・・・・
翌朝。エンマ様は何事もなかったかのように玉座に座っていた。その涼しい横顔を、疑いの目で観察する。
——うん。全っっっ然忘れられない。あの甲高い声。
卑劣。サディスト。女性蔑視。この御方には、ありとあらゆる陰口が当てはまる。
唐突にエンマ様が振り返り、わたしの頭から爪先までを眺め回した。
「怪我の具合はどうだ」
「!」
おや? 部下の心配? 桃鬼さんの言ったことは間違いではなかったのかも。
「それは、どういう意図でたずねていらっしゃるのですか?」
わずかな期待を込め、身を乗り出す。エンマ様は怪訝そうな顔をした。
「おれは上司だ。おまえの責任は、おれにある」
ああ、やっぱり。これは心配ではなく管理だ。わたしは意気消沈しながら言った。
「大丈夫です。塗り薬をつけました」
「目が充血しているが」
それは、あなたの反道徳的行為が頭から離れず、一睡もできなかったからだってば!
お互いの胸の内を測るように、わたしたちは目を細め合っていた。そして同時に視線をそらす。
——エンマ様。なぜ女性たちを苦しめているの?
胸の奥が、きゅっとしめつけられる。これは、怒り? 失望?
そうじゃない。わたしは今、とても悲しい。
やっぱり、すべきことは仲直りなんかじゃなかった。それよりも、ヒイノミコトから聞いたことを記事にまとめ上げなくちゃ。
そちらに熱中すれば、エンマ様の悪趣味を思い出さずに済むだろう。
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