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4-9 カラス、結婚する(上)

 診療所の時計は午前8時をまわっていた。ベッドに少年を寝かせて、足の裏に刺さった釘を抜いてやる。ふくらはぎで鈍く光るガラス片も取り除き、消毒液でよく拭いて、ガーゼをあてて包帯を巻いた。マイルエンドの小さな診療所の一室で、少年はふくれっ面で俺をにらんでいる。


「余計なことすんなよ、先生。オレはこの後すぐテムズに入るんだから。こんな丁寧に巻いてくれたって、泥につかったらまた取れちまう。もったいねぇよ」

「だめだよ。傷口から細菌が入るかもしれないから、塞がるまで川には入らないで」


 今朝は明け方まで急患の処置をして、浅い眠りについていた。目が覚めて窓の外をみると、道端に少年がうずくまっていた。


「なにいってんだ、まだ一ペニーも稼いでねぇのに。飢え死にしちまう!」

「きみは泥ひばりなの?」

「ああ、そうさ。父ちゃんは石炭運搬夫だったけど、事故で死んじまったんだ。母ちゃんもコレラで死んじまった。でもオレは、こうしてちゃあんと暮らしてるんだぜ」

 少年は黒ずんだ指で鼻先をこすった。笑うと欠けた歯がみえた。

「この先のボウ・ロードに学校があるんだ。そこにいけば食事がでるよ」

「やだよ、オレ知ってるぞ! そうやって、貧乏な家から子どもをさらってるんだろ!」

「それは……バーナードさんの孤児院のこと? 確かにそんな噂もあるけど、彼は善意のひとだと思うよ。でも俺が言ってるのは、別の学校なんだ。俺の友人が設立して、無料で勉強もできるし食事もできる。夜、泊まる場所がなければ簡易のベッドもあるよ」

「そんなの無理だよ。オレ、ばかだもん。三ヶ月だけ貧民学校に行ったけど、文字なんて全然覚えられなかったし。自分の名前も書けねぇんだぜ」

「大丈夫だ。スペルを間違えても、鞭で叩かれたりはしないよ。それに食後にはデザートもでるんだ。日替わりで、ローリー・ポーリーや木苺のパイが食べれるよ」

 少年はごくりと生唾を飲みこんだ。

「ほんとか……? それなら、まあ……行ってやってもいいけど」


 ぐうぅ、と大きな音が部屋に響いた。俺は笑って、彼のぼさぼさ頭をなでつけた。


 通りに馬車が停まり、玄関の扉が威勢よく叩かれた。俺は手を洗って、早足で戸口にむかう。扉の先に、老年の医師があきれ顔で立っていた。

「あれ? R医師、ずいぶん早く来てくださったんですね。まだ朝なのに……」

「なーにを言っておるかね、きみ‼ 自分の結婚式に遅刻するつもりか⁈」

 R医師はベストから懐中時計を取りだして、俺の鼻先に突きつけた。

「……え、もう正午? でも診療所の時計はまだ8時……」

 自分の懐中時計を開いて、置時計と見比べてみる。俺は思わず声を上げた。

「うわっ‼ 止まってる⁈」

 R医師は俺の背中をぐいぐい押して、馬車に追いやった。

「まったく、信じられん。アンソニー様が馬車を寄こさなければ、花嫁は待ちぼうけだったんだぞ!」

「あ、でもまだあの子にパンを……」

「ああもう、わたしがやっておくから‼ 診療所はわたしに任せて、とっとと聖ジョージ教会に行きなさい!」


 R医師が扉を閉めると、すぐに御者が鞭を鳴らした。窓のブラインドを下げて、用意された衣装に着替える。箱馬車は砂ぼこりをたてて、ロンドンの東から西へと走りだした。



 マリーがジェームスに引き取られて、五年が過ぎた。俺は義父の養子になったあと、キングズ・カレッジで学んで医師になった。あの年の秋には、ジョニーは王立芸術院に入学して、サラはアルフレッドと結婚して、ふたりとも下宿をはなれた。二階の下宿人(劇場で道具係をしていたらしい)が退去したタイミングで、俺はK夫人に話を持ちかけた。快く了解してくれた彼女のおかげで、下宿の一階は小さな診療所になった。俺はメイフェアで暮らしながら、日中はこのマイルエンドに通っている。急患がいるときは、そのまま二階で寝泊まりした。


 リージェント通りを北上して左折すると、教会の尖塔が見えてきた。十八世紀に建てられた聖ジョージ教会は、にぎわう街中にありながら静謐な空気に満ちている。音楽家のヘンデルが好んだこの教会は、義父とアシュリー一家が毎週ミサに通っている。俺は今日、ここでマリーと式を挙げる。

 正面玄関には、コリント式の円柱が六本並んでいる。二階分の高さがあり、どっしりとした石づくりだ。その柱の陰に、アンソニーが両腕を組んで立っていた。


「ごめん! アンソニー‼」


 馬車から飛び降りて、俺は玄関の扉に駆け寄った。アンソニーが顔を上げ、安堵した様子で腕をほどいた。

「よかった。間に合わないかと思ったよ」

「時計が止まってたんだ。迎えを寄こしてくれて助かった」


 アンソニーは、俺の花婿付き添い役(ベスト・マン)を務めてくれた。式にまつわる諸々の手続きや指輪の管理を一手に引き受けてくれて、当分は頭が上がらない(マリーの花嫁付き添い長ヘッド・ブライズメイドは、彼の妹のアンが引き受け、はりきって準備してくれたらしい)。俺の胸元の花をなおして、アンソニーは扉を開けた。執事のように慇懃な礼をして、右手でなかへと促した。両脇には、見慣れた顔がずらりと並んでいる。俺は両手で髪をかき上げて、足を踏み入れた。


 赤い絨毯が敷かれた、真ん中の通路を進んでいく。目の前に祭壇があり、牧師が会釈をしてくれた。二階まで吹きぬけの教会は、半円形の大きな窓にステンドグラスがはめられている。赤、黄、青、紫、と光に透けて、壁に浮きあがる巨大な絵のようだ。背後で扉が開く音がした。続けて、全員が立ち上がる音も。横目でそっと振り返る。ジェームスの肘に手をそえて、マリーがこちらへ歩いてくる。祭壇に近づくと、ジェームスは彼女からはなれて席についた。俺の左側まで来ると、マリーは足を止めた。


 祭壇の前で、俺とマリーは並んで立った。

 讃美歌が歌われ、聖書が読み上げられる。

 牧師が宣誓の言葉を紡いでいく。

 俺はマリーと向き合った。

 彼女の白く細い指に、指輪をはめた。


 マリーは頭からヴェールをかぶり、ほっそりとした白いドレスに包まれている。結い上げた金髪には、オレンジの花輪が飾られている。床まで広がるやわらかなヴェールを持ち上げた。プラムのように赤い唇、陶磁器のような肌、きらめく水面のような瞳があらわれる。その頬に手をあてると、ほんのりと熱を帯びていた。マリーがはにかんだ笑みをうかべる。腰を屈めて、俺はマリーに口づけた。



 教会から戻り、ジェームスの館の庭でウェディング・ティーが始まった。庭にテントが立てられて、長方形のテーブル一面に料理が並べられている。黄金色のコンソメスープ、ハムのゼリー添え、オマール海老のサラダ、冷たいローストビーフ、トマトソースが添えられた羊肉のカツレツ、フォアグラのパイ、七面鳥の丸焼き、ゼリーとホイップクリーム、さいの目切りのフルーツの盛り合わせ、マデイラケーキ、ナポリ風ケーキ、バニラアイスクリーム、ベリーのアイスクリーム、ワインやシャンパン、コーヒー、紅茶、レモネード。そして極めつけは、ドライフルーツとバターがたっぷりの、砂糖菓子の花が飾られたウェディング・ケーキ。ラムゼイ家のコックだけでは手が足らず、アシュリー家からウースターさんとグヴェンが応援にきてくれたそうだ。


 とん、と肩がぶつかって、隣を見たらチャールズがあんぐりと口を開けていた。


「おおっ、カラス! おまえいいやつだなあ。こんなご馳走、見たことないぜ。このケーキなんて、6フィートはあるんじゃないか……あっ‼ わりい、結婚おめでとな!」

 ぱんぱんと背中を叩くチャールズに、俺は笑い声をたてた。後ろから、女性のひそひそ声が聞こえてくる。

「ほら見て、エミリー。あの人いけてない? あの横顔、彫刻みたいじゃない? さすが準男爵家ね。うちの男どもとは大違いだわ」

「おねえちゃん、ほら、あっちにマリーがいるわよ。挨拶にいきましょう」

 チャールズが、横に立つゴードンに渋い顔をむけた。

「……なあ、おれたちだってイケてるよな? あいつ、見る目ないんじゃね?」


 ゴードンは苦笑いを返して、俺に祝いの言葉をくれた。

 優雅にグラスを抱えて、シルヴィアとルーシーがやってきた。


「おめでとう、カラス」

 ふたりは声を重ねて、微笑んだ。礼を口にしていると、ラヴェラとミス・リトルも近づいてくる。ミス・リトルは、シャンパンのせいか頬が赤く染まっていた。

「いいお式だったわよ、カラス。父親でもないのに、ほろりとしちゃったじゃない」

「ありがとう、ラヴェラさん」

「私も泣いちゃいました。自分の生徒が結婚するのは初めてで……ああ、きっとアン様のときも泣いてしまうわ」

「ありがとう、ミス・リトル」

 マリーが引き取られたあと、ミス・リトルは、彼女の家庭教師を兼任してくれた。ミス・リトルは熱心に愛情深く教えてくれて、マリーは読み書きもできるし、フランス語も話せるようになった。

「ところで、ラヴェラさん。あなたたちのお式はいつかしら?」

「そうよ。あたくしたち、楽しみに待っていてよ」

 ふたりの言葉に、ミス・リトルはさらに顔を赤くして、ラヴェラはじろりとルーシーを睨みつけた。

「そのうちよ、そ・の・う・ち‼ ほらもう行きましょ、ミス・リトル! マリーにもお祝いを言わなくちゃ」

 遠ざかる背中をぼうぜんと眺め、俺はふたりの女性を振り返った。

「……え? そういうこと?」


 ふたりはにっこりと笑い、うなずいた。

 肩を叩かれて振り向くと、エドウィンが立っていた。口元に微笑をうかべている。


「おめでとう」

「ありがとう、エドウィン。きみたちも、もうすぐ?」

 エドウィンはわずかに照れた様子を見せて、ちらとアリスに視線をやった。

「いや……あいつもアン様の侍女になったし、おれはアンソニー様の従者だしな。お互い、もう少し落ち着くまで待つつもりだ」

 四年前、ハリエットとジェームスが結婚して、令嬢つき侍女のルーシーは彼女と一緒にラムゼイ家に移った。末娘のアンの侍女は、何人か入れ替わったあと、アリスが任されることになった。

「おまえには感謝してる。おれをアンソニー様に推薦してくれただろう?」

「……きみの実力だよ」

 サイクスが逮捕されたと聞いて、エドウィンは俺に頭を下げた。館を辞めようとする彼を引きとめて、アンソニーに相談した。アンソニーは数日保留にしたあとで、彼を自分の従者に任命した。

『僕はまだ、彼の評価を決めかねているが……アリスもジョニーも彼を気に入っているのなら、一緒にいるうちに、僕にも長所が見えてくるだろう』

 アンソニーは肩をすくめて、俺にそう漏らしていた。


 館に近いテーブルでは、ミスター・リーとハリソン夫人、庭師頭を引退したガイさん、それにK夫人が談笑している。俺が遅刻しそうになったと聞いて、K夫人は「あらまあ。準備で早めに出ましたけど、診療所に残ってあなたを連れてくるべきでしたね」とあきれ顔でぼやいていた。


「よお! おめでとう、カラス‼」

 ワインを片手に、アルフレッドとサラがやってきた。アルフレッドは二年前、庭師頭になった。それよりも早く、ふたりはアシュリー家で暮らし始めた。結婚祝いに、ガイさんが庭師小屋を半分譲ってくれたのだ。

「恰好よかったじゃないか、カラス。いい男になったね」

 サラが俺の頬にキスをした。アルフレッドが憮然とした顔で突っ立っている。どうしたものかと二人を眺めていると、サラが何事かを彼にささやいた。アルフレッドは耳まで真っ赤になって、ワインをぐいと飲み干した。「マリーにもお祝いを言わなきゃね」とサラは彼の背中を押しながら、俺に片目をつむってみせた。


 アンがジョニーの車椅子を押して歩いてくる。


「あれ? サラたちがいたと思ったんだけどな」

「うん、ついさっき、マリーのところに行ったんだ」

「おめでとう、カラス! とっても素敵なお式だったわ。あたし感動しちゃった‼」

「ありがとう、アン。きみが花嫁付き添い長になってくれて、マリーも俺もすごく感謝してる」

「そんなの! どんなドレスにしようかって、とっても楽しませて貰ったもの。友だちの結婚式でもこんなに感動するのに、自分の結婚式なんてどうしよう。泣き崩れちゃうかもしれないわ」

 アンの言葉に、ジョニーがそわそわと車輪を前後にゆらした。

「カラス、おめでとう。ああ、そうだ。きみたちの結婚式を描いたら、王立芸術院の個展に出品してもいいかな?」

「もちろんだ。バーリントン・ハウスでジョニーの絵が見れるなんて、楽しみだな」

 にっこりと笑うジョニーに、アンがぽろりと呟いた。

「ああそうよ。あたしたちの結婚式のときも展示してもらわなくちゃ。だけど、自分の結婚式の絵なんて描けるかしら? ねえ、ジョニー?」

 ジョニーはもごもごと「まあ……写真を見れば……」と口ごもった。俺は思わず声を上げた。

「えっ……きみたち⁈」

 アンは満面の笑みをうかべて、ゆっくりと車椅子を反転させた。


 通りに面した柵のそばで、ピーターが笑い声をたてていた。ラムゼイ家のフットマンと、どうやら気が合ったらしい。ボーイからフットマンに昇格して、今ではすっかり一人前の青年になっていた。その近くのテーブルでは、キングズ・カレッジの友人たちが、グラスを手に盛り上がっている。


「おめでとう、カラス。美しいお式だったわ」

 ハリエットとジェームスが並んで歩いてきた。俺はふたりに深く頭を下げた。

「ありがとう、ハリエット、ジェームス。庭を貸してもらうだけじゃなくて、装飾もスタッフもすべて手配してくれて……本当に助かったよ」

「あら、かわいい義妹と義弟のためだもの。ふふっ。あなたが私の義弟だなんて、なんだかくすぐったいわね、カラス。それにクリブデン公爵家には女主人がいないもの。館の運営は慣れているから、これぐらい大丈夫よ」

「おめでとう」

 ジェームスの目がわずかに赤くなっていた。五年間マリーと暮らして、娘を送りだす父親のような気分なのかもしれない。ジェームスは、ボウ・ロードに学校を建ててくれた。ケンブリッジの孤児院にも出資してくれて、今ではマリーが経営権をにぎっている。孤児院では、温かい栄養たっぷりの食事とふかふかの寝具が用意され、子どもたちは勉強したり庭を駆けまわったりしているそうだ。

「週末の予定は決まっているか?」

「いいえ、特には」

「では、よければ……」

 俺は笑ってうなずいた。社交期でロンドンに滞在する間は、特段の予定がなければ、俺は週末に彼の館を訪れていた。宵っ張りの彼につきあって、いつも一晩中チェスをして過ごした。最初の頃、アンソニーを誘わないのかと尋ねてみたら「あいつは気分にむらがあるから勝負にならない」と、子どものようにむくれるので笑ってしまった。


 ふと視線を感じて庭を見渡した。数メートル先のテントの下で、義父とアンソニーが立っている。ふたりは俺にグラスを掲げて、嬉しそうに笑った。俺もグラスを持ち上げて、口の端を上げた。


 テントの隣では、ローザとアリス、ヴァイオレットがマリーを囲んで笑っている。アンソニーは四人に近づき、俺を指さしてマリーに耳打ちした。ローザたちが歓声を上げ、マリーの肩をこっちに向けた。目が合うと、花のような笑顔を見せてくれた。

「カラス!」

 笑みをこぼしながら、マリーが俺に飛びついてきた。

・ジョニーとアンの短編(上下2話)を『ヴィクトリアン万華鏡』に掲載しています。

https://ncode.syosetu.com/n3280gz/7/

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