4-9 カラス、結婚する(下)
土曜日の午後、コヴェントガーデン市場のいつもの場所に座っていると、少女がこちらに駆けてきた。危ない、と叫ぶ間もなく石畳につまずいて、よろけながらも、なんとか転倒はまぬがれたようだ。
「大丈夫? マリー」
「うん、私、やっぱりそそっかしいみたい」
サディは少女のドレスをはたいて、にっこりと笑った。
「先週はありがとう。とっても綺麗だったよ。ウェストエンドのウェディング・ティーに招かれたロマの一族なんて、きっとわたしが初めてだね」
「来てくれて嬉しかったよ。また家にもあそびにきてね!」
マリーは笑みをこぼして、サディの手をにぎった。それから、ふっと憂い顔をみせた。
「それでね、サディ……実は相談があるの」
そう言って、彼女はポケットから銀色の小箱を取りだした。植物の意匠が刻まれた、銀製の煙草ケースだった。表面には飾り文字で『R』のイニシャルが彫られている。
「あのね…………これを届けたいひとがいるの。だけど、そのひとに届くまでに、茶色い紙巻煙草を七本入れて、英国のどこかの古道具屋さんに渡って、そのひとのお祖父さまに渡って、それから、そのひとに届いてほしいの。そんなことって……できると思う? いろんな土地を旅してまわって、なにかそんな話を聞いたことはある?」
マリーが手のひらに煙草ケースを乗せた。ひやりと冷たく、見た目よりも重量があった。開いてみると、彼女の言葉どおり中身は入っていなかった。サディは空っぽのケースを見つめた。目をすがめ、意識をそこに集めて呼吸する。顔を上げると、マリーが不安そうな目で自分を眺めていた。
「……大事な物なんだね。とても大事で、ひとの想いが詰まってる」
「うん、そうなの。とっても大事なの。カラスにとっても、私にとっても」
「ああ、Rって……旦那さんの物なのか。だからだね。このケースも、あのひとも、ずいぶん遠い所からやってきたように感じるから」
「そうなの! このケースもカラスも、本当に……本当に遠い所からきたの」
カチ、と蓋を閉めて、サディは彼女に微笑んだ。
「預かろうか? これ」
「えっ?」
マリーが目を丸くして、上体をサディに近づけた。
「必要なものを必要なときに届ければいいんだね。必ず、とは断言できないけど……いつも心に留めておくよ。大陸を放浪しながら、ときが来たら煙草を集めて、英国に戻って、またときが来たら手放すよ。わたしの代でそのときが来なければ、次の世代に託そう。そうやって、いずれわたしの手から、巡り巡って、そのひとの手に届くかもしれない……だけど科学が発達した十九世紀に、こんなロマのやり方じゃ時代錯誤かな。あんたたちには、もっと確実な方法が……」
言葉はそこで途切れた。彼女がサディを思いきり抱きしめたのだ。
「ううん! ううん、それがいい! サディ、ありがとう‼」
彼女の背中に腕をまわして、サディはふわりと力をこめた。
「勘がよくていいことなんて、これまでないって思ってたけど……あんたの役に立てるなら、そう悪いもんでもないね」
サディは目を細め、頬に優しく口づけた。
◇
廊下から足音が聞こえる。マリーが市場から帰ってきたんだろう。結婚式のあと、俺たちはケンジントンに新居を構えた。ケンジントン・ガーデンズの南側にあり、R医師の家からもそう遠くない。書斎の大きな窓からは、公園の木々が頭の先をのぞかせている。空は澄みきって、初夏の緑がよく映えていた。
ここ最近、煙草ケースがなくても、やっと言葉に不自由しなくなった。どうやって祖父ちゃんに渡そうかと悩んでいたら、マリーが市場の少女のことを教えてくれた。大陸中を放浪するロマの一族の娘で、とても勘が鋭いそうだ。俺はケースをマリーに譲って、彼女たちの判断に委ねることにした。
書き物机に座っていると、扉が音をたてた。
背後で足音が鳴り、首にやわらかな感触がふれる。
「トワさんへの手紙?」
「うん。結婚式の写真も入れようと思って」
「届くのが楽しみだね」
俺の肩ごしに、マリーが机をのぞきこんだ。
俺は毎年一通、弟に手紙を書いている。書きあがった手紙は、義父が屋敷の金庫で保管してくれた。俺たちには子どもがいないから、一世紀後のクリブデン公爵家の当主が、トワに手紙を送ってくれるだろう。
この六月、マリーは十八歳の誕生日を迎えた。その日、俺は自分がどこから来たのかを、彼女に打ち明けた。微笑みを崩さずに、マリーは最後まで話を聞いてくれた。
『……驚かないの? 二十一世紀から来たなんて、突拍子もない話をして』
『ううん……ううん。あのね、カラス。初めて出会ったときから、不思議な気がしていたの。突然あらわれて、まるで神様の使いのようだと思っていたもの。それに私、見ちゃったの。五年前、どうしても気になって。あの売春宿で、トワさんが消える瞬間を……』
『……そうだったのか』
『ごめんなさい。それでね、あのときアンソニーも……』
俺の身勝手な願いも受け入れて、彼女は結婚を承諾してくれた。マリーが俺に抱かれても、子どもを産むことはない。それを尋ねたうえで、俺は彼女にプロポーズした。俺がこの世界にいることで、生きのびる人間も、起こらない事件も出てくるはずだ。それでも、二十一世紀の遺伝子をもつ子どもが、未来で俺と出会ったらと想像すると、ぞっとした。トワの言うように、この世界が単純な過去なのか、並行世界なのかは分からないけど、そんな事態は避けておこうと思ったんだ。
通りから馬のいななきが聞こえてきた。窓をのぞいてみると、街路樹の近くにアンソニーの馬車が停まっている。彼はふらりと訪ねてきては、俺たちの話を聞きたがった。いつも熱心にメモまで取っている。どうするのかと尋ねてみたら、いつか本にまとめるのだと返ってきた(一体、誰が読んでくれるんだろう)。ベルが鳴り、階下で執事が応対してくれている。アンソニーが玄関のなかに消えた。
「こうしてマリーといられるなんて、絶対に叶わないと思ってた。ほんとに……すごく嬉しい。ほんとに俺でよかったのかな。社交界デビューして、たくさん恰好いいやつとか、俺よりいい男とかいただろうし……痛っ!」
細い指先が、俺の両頬をつねった。
「ねえ、こんなに好きなのに? まだ伝わっていないの?」
「ごめん、嘘です、嘘つきました。ちょっと言ってみたかっただけ。ちゃんと伝わってるよ。わかってる」
やわらかな両腕に背後から閉じこめられた。
耳たぶを唇がなぞっていく。
「私が愛しているのは……唯一、あなただけなの」
やわらかな声が俺の名を呼んで、俺はその唇をふさいだ。
俺は十九世紀の英国で彼女と出会い、もうたどり着くことはない未来に向かって、ふたりで歩いていくと決めた。
二度とはない、唯、一度きりの人生を。
廊下から足音が聞こえ、続いて扉が音をたてた。
『あのときアンソニーも、トワさんが消えるのを見ていたの』
マリーの声が頭に響いた。彼はこの頃、俺とマリーが出会う前のことを尋ねてくる。俺がどこから来たのか、もう見当をつけてるような気がするんだ。あの煙草ケースのことを、夜明け前の東京のことを、いつか彼に話す日が来るのかもしれない。
「……やあ、また来たんだね。ま、ひとまず座りなよ」
俺の言葉に、アンソニーが笑みをうかべた。
さあ、今日は、なんの話を聞いてもらおうか。
■読者の方へ■
これで完結となります。初めての長編小説で、読んでくださる方がいるのかとドキドキしながら連載を始めました。最後まで書けたのは、小説にアクセスしてくださった皆様のおかげです。読者の方があっての小説です。心から感謝しています。約八か月間(後から一気読みの方ももちろん)この長い物語にお付き合いいただき、本当にありがとうございました!!! もしも気に入っていただけましたら、ご感想や評価などをいただければ次回作の励みといたします(あと涙目で喜びます)。どうか、皆さまが歩む未来も明るいものでありますように。
<制作メモ> ※制作メモを、近況ノートに追加しました。
https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/2158306/blogkey/2911360/
■新作のお知らせ■
クリブデン公爵家のカントリーハウスが舞台です。主人公は21世紀の女子高生で、1880年(この小説より5年前)にタイムトラベルしてお家騒動に巻きこまれます。公爵とアンソニー、アリスがメインキャラクターとして登場します。もともと、この小説より以前に作っていた物語で、構成を考えているうちに、このカラスたちの小説を先に執筆しました。年明けの2022年1月7日(金)より連載開始予定です。もしよければ、お立ち寄りいただけましたら幸甚です。
■エピローグのお知らせ■
上記の新作が完結しましたら(2022年6月頃を予定)、両作品の共通エピローグ(2話)を執筆予定です。※どちらかの作品に追加、または、新規の短編小説として掲載する予定です。
それでは皆様、お休みの方もお仕事の方も、よい年越しと新年をお迎えください!




