3-5 カラス、頭を抱える(下)
暖炉の上に置かれた時計が、カチカチと秒針を鳴らしている。沈黙が満ちた部屋のなかで、時を刻む音だけが耳に響いた。長椅子の背もたれに片腕をそわせて、上体を預けたまま、アンソニーはすみれ色の瞳でカラスを見つめ続けている。
(…………やっぱり、こうするしかないか)
カラスは覚悟を決めてアンソニーに向き直った。
「……俺が消毒します」
背もたれから上体を起こし、両肘を膝に置き、アンソニーは組んだ両手にあごを乗せた。背中を丸めて前かがみになり、上目遣いでカラスに視線を投げかける。
「きみが?」
「はい。手術の当日、俺がハリエット様の部屋で器具の消毒をします」
「R医師が許可すると思うかい?」
「いえ、R医師には気づかれないように」
「なるほど……例えば、僕がR医師を連れ出して、その隙にきみが消毒するというわけか」
「そうです」
「手指消毒は?」
「俺が……転んだふりでもして、消毒液を振りかけてみます」
「はは、ずいぶん無理やりだな……まあいいや。消毒薬は持っているんだね?」
「はい、手持ちのものがあります。石炭酸ではないですけど」
「効果はあるんだね?」
「はい。多分、なにもしないよりは」
「……いいだろう。じゃあ、きみに任せよう」
「あの……ひとつお願いがあるんです」
「なんだい?」
「ハリエット様に許可を取りたいんです」
「なんだって? 姉さまに? まさか! 僕たちがR医師に内緒で消毒するなんて、許すわけがないだろう⁈」
「だけど、ハリエット様の生命に関わることです」
「そうだよ! だからどんな手段を使っても、できる限り安全にしたいんだ」
「もしも手術後になにかあれば、ハリエット様は、俺たちが独断でやったことを悔やむかもしれません」
「そうならないように、消毒をするんじゃないか!」
「消毒をするといっても、俺は医師じゃない。素人です。消毒すれば絶対に安全とは言い切れない。決めるのはハリエット様です。たとえ善意からでも、彼女の生命に関わることを俺たちが勝手に決めるのは……間違ってると思います」
「きみは責任を取りたくない、ということかい?」
「責任は…………はい、取れません。俺は医師ではなく、自分の知識からそうした方がいいと思っているだけです。だから助言しかできません。でも俺が責任を逃れるためにハリエット様に許可を取りたいわけじゃなくて……いや、それもありますけど……なんていうか、素人が言うのはおこがましいけど、インフォームドコンセントは大事、っていうか」
「インフォームドコンセント?」
「ああいや……とにかく、ハリエット様の手術に関わることの決定権は、俺でもあなたでもなく、ハリエット様のものだと思うんです。彼女の許可なく勝手なことはできません」
「カラス……きみも姉さまに負けず頑固なんだね。いいよ、分かったよ。じゃあ姉さまの説得もきみに任せるよ。その代わり、もし姉さまが認めてくれなかったら……そのときは」
アンソニーはわざとらしく言葉を切って、上目遣いで小首を傾げた。
「軟禁するからね」
食堂の椅子に座りこみ、カラスはテーブルに突っ伏した。重たく息を吐いたあと、紅茶が入ったカップに手を伸ばす。香りのよい湯気が肌に触れて、乾いたのどに琥珀色の液体を流しこむと、ようやく人心地ついた。
(…………あれ、本気だよな)
下宿を訪ねてきたというアンソニーの様子について、以前、マリーが聞かせてくれた。あのとき、マリーはなんと言っていた? やわらかな声音の記憶をたぐり寄せる。
『人懐こくて感じがよい人なんだけど……なんだか怖かった』
普通に考えて、誰かを軟禁しようなんて思わないだろ? それともこの時代で権力をもつ人間にとっては当たり前のことなんだろうか。呆然とそんなことを思っていると、彼の隣から明るい声が届いた。
「どーしたの、カラス? なんか元気ないね。疲れてる?」
「ああ……ローザ。いや、なんでもない…………あ」
「ん?」
「あのさ、あの鎮痛薬……誰かに話した? その、アンソニー様とか」
「ええーまさかぁ! アンソニー様と直接話す機会なんてないもん。あ、マリーやヴァイオレットとか、アリスたちの前では話したけど……まずかった?」
「いや、いいよ。でも今度からは話さないでくれるかな? マリーならいいんだけど」
「うん、わかった! カラスはマリーと仲良しだよね」
「え?」
「あたし、お兄ちゃんなんてケンカばっかだったけどさぁ。カラスたちみたいに仲がいい兄妹もいるんだね。頼りになるお兄ちゃんがいて、いいなぁ、マリー」
「俺が……頼りになる?」
「うん! それに優しいし、マリーもお兄ちゃん大好き、って感じだもん」
「へっ? マリーが俺を……好き……?」
「でしょ? もー、兄妹じゃなかったら妬けちゃうとこだよ」
「ああ……兄妹。そうだな……兄妹……」
その小さな呟きは、ローザの名前を呼ぶヴァイオレットの大声にかき消された。「うわ! やっば!」と急いで廊下に向かう途中、彼女はカラスに振り返り、真夏に咲く向日葵のような笑みを残して駆けていった。
「なんだか上の空だねえ」
翌日の午後になっても、カラスの頭にはローザの言葉が居座っていた。アンソニーと並んで廊下を歩いていると、呆れた視線を寄こされた。
「別に構わないけれど……そんな調子で姉さまを説得できるのかい?」
カラスは息を吸って、ゆっくりと吐き出した。
(そうだ……俺は今からハリエットを説得しにいくんだ。マリーのことはいったん忘れて……きっとローザの思い違いか、それとも、万が一、俺のことをって……それはあれだ、つまり兄さんとして、ってことだよな。マリーはきっと、俺のことを兄さんの代わりみたいに思ってて…………ああ、うん、きっとそうだ。俺はただの代わりなんだから……本当の兄さんが見つかったら……そのときは身を引かないと)
「ねえ、カラス。さっきから厳しい顔をしたり嬉しそうだったり情けない顔になったり、具合でも悪いのかい? 日を改めようか?」
「や! 大丈夫です。行きましょう」
先延ばしにしたところで、気の重さは変わらない。それならさっさと済ませて肩の荷を下ろした方がいい。ハリエットの扉を叩くアンソニーの背後に立って、カラスは緊張の面持ちでそう自分に言い聞かせた。二人を招き入れるように、音もなく扉が開いた。
「だめよ」
カラスの提案を、ハリエットは容赦なくひと言で却下した。困惑するカラスを労わるように、穏やかな声で言葉を連ねていく。
「だってね、カラス。それじゃあ、R医師を信頼していないと言うようなものだわ。あなたが私を気遣ってくれる気持ちは嬉しいのよ。だけど、その気持ちだけで十分なの」
「絶対にR医師に気づかれないようにしますから。お願いです、ハリエット様」
「そんな泣きそうな顔をされると困ってしまうわ……アンソニー、まさかあなた。カラスを脅してはいないでしょうね」
冗談めかして笑うハリエットの言葉に、カラスはぎょっとしてアンソニーを振り返った。
軽い調子で「やだなあ、姉さま。ひと聞きが悪い」と答えながら、アンソニーはカラスに向けて素早く唇だけを動かした。
(な・ん・き・ん)
伝えられた言葉を理解して、カラスはこめかみを押さえた。
固く目を閉じたあと、ゆっくりとまぶたを上げた。心配そうに自分を見つめるハリエットの顔、凪いだ目をしたアンソニーの顔が視界にあらわれる。説得の方法なんて分からない。それなら正直に話すしかない、とカラスは心を決めた。
「ハリエット様、俺はあなたを死なせたくないんです」
「まあ……カラス。言ったでしょう? 私も死ぬつもりはないわよ」
「消毒をしない手術は生命の危険があります。安全とは思えません。それが分かっているのに、ただ黙って見ているのは嫌なんです」
「でもね、カラス」
「昔、ただ黙って見て…………ひとが死ぬのを見過ごしました」
「…………カラス」
「あなたに万が一のことがあれば、俺はまた黙って見過ごしたことを……後悔すると思います。出会って間もない俺だってそうなのに……きっと、アンソニーは俺以上に苦しむことになると思います」
アンソニーが目を見開いて、ゆれる眼差しをカラスに向けた。
「約束します。絶対にR医師の気持ちは傷つけません。慎重にします。だから……俺たちを信じてくれませんか?」
「カラス…………」
「姉さま。僕は内緒にしよう、って言ったんだよ」
「なんですって、アンソニー?」
「きっと姉さまは反対するから、言わないつもりだったんだ。それなのに、姉さまの手術だから決めるのは姉さまだ、ってカラスが譲らなかったんだよ。姉さまと同じぐらい頑固だよね、カラスって。まあ、とにかく。姉さまがR医師を信頼しているのは知ってるよ。だけどカラスも…………彼と同じぐらい信頼に値するとは思わない?」
「ああ……アンソニー。あなたって本当に……ときどきものすごく傲慢よね。でも、そうね……カラス」
アンソニーに向けた渋面は、カラスを見ると、別人のように優しい表情に変わった。
「絶対に、気づかれないようにできる?」
カラスは真っ直ぐに彼女の目を見つめ、首を縦に振った。
「いいわ。私を騙そうとせずに打ち明けてくれた、あなたの誠意を信じるわ」
「ありがとうございます……ハリエット様」
ハリエットは春の陽気のような温かな笑みを浮かべた。
『…………僕は損な役回りだったよね。きみへの信頼が高まるのと反比例して、姉さまの僕への評価はがた落ちだよ。まあいいさ。結果オーライだ』
廊下でぼやいていたアンソニーの言葉が、いつまでもカラスの耳に残っていた。
あれから二日が過ぎて、手術は明後日に迫っていた。木曜日の遅い午後、カラスは食堂のテーブルに肘をついて、アンソニーの言葉を思い返していた。
(…………ほんとに、結果オーライなのか?)
胸に石がつかえたような心地で座っていると、どすん、と威勢のいい音がした。横を向くと、ラヴェラが隣の席に腰を下ろして、眉間にしわを寄せている。
「どうしたのよ、カラス。ここ数日ずっとしかめっ面じゃない。そんな顔されると、アタシまで気分が塞ぎそうだわ」
「すみません……」
「なによ。なにか悩み事でもあるわけ?」
険のある言葉とは裏腹に、ラヴェラは気遣うようにカラスを眺めている。口を開いては閉じ、そんな自分の姿を辛抱強く見守るラヴェラに、カラスは用心深く言葉を選んだ。
「ラヴェラさんは……ハリエット様のこと、子どもの頃から知ってるんですよね」
「そうよ。この館に来たのが二十年近く前だから……ハリエット様が八歳の頃かしら」
「ラヴェラさんやルーシー、ミスター・リーやハリソン夫人は、ずっと一緒にいて家族みたいだ、ってハリエット様が言ってました」
「あら、そうなの……それは嬉しいわね」
「他に長く一緒にいるひとは……確か、主治医のR医師でしたっけ?」
「ああ、そうね。彼も十年以上、この館に出入りしているわ」
「R医師はどんな方なんでしょう。ラヴェラさんは知ってますか?」
「ええ、もちろんですとも。あのひとは実直で、義理堅くて職人気質で…………それから、ちょっとアタシと似てるわね」
「ラヴェラさんと?」
「ええ。アタシはね……まあ、なんていうか。意地っ張りなところがあるでしょう。自分が間違っていると気づいても、それを素直に認められないの。自覚はあるのよ。でも口に出したことを簡単に覆すことができないの。だけど、聞く耳を持たないわけじゃないのよ? あの昼食のときだって、あなたの言葉は耳に届いてはいたんだから…………な、なによ。そんな顔しなくてもいいじゃない。わかってるわよ、自分でも大人げないって」
カラスは首を振って、ラヴェラのほうへ身を乗り出した。
「ラヴェラさん、R医師の住所は分かりますか?」
「え? ええ、わかるわよ」
「教えてください!」
カラスは椅子を倒すような勢いで立ち上がり、たじろぐラヴェラの肩をつかんだ。




