3-5 カラス、頭を抱える(上)
<改稿のお知らせ>
参考文献を見直すなかで誤った記述があり、R医師とカラスの会話を修正しました。ヴィクトリア朝の石鹸は冷水では泡立たないそうです(詳細は「活動報告」にも記載しています)。申し訳ありません。(2022.1.28)
ハリエットの居間の窓から、温かな風が吹いてきた。カーテンの白いレースがゆれて、波紋のように午後の光を投げかけている。穏やかな日差しとは対照的に、部屋の空気は張りつめていた。
「カラスの意見って……でもね、アンソニー。彼は医者ではないでしょう?」
ハリエットは子どもをなだめるような口調で、諭すようにそう告げた。カラスは心のなかで彼女の言葉に強く頷いた。
(そりゃそうだ。一体、なんだってアンソニーは俺なんかに……)
「カラスは船乗りです。米国を始め、航海中や寄港する度に、さまざまな国の話を聞いているはずです」
アンソニーの言葉にカラスは内心青ざめた。
(いやいや、それマリーが考えた設定だから! 俺、日本から一度も出たことないし!)
「いや……」
無理です、と続けようとするカラスを遮り、アンソニーは言葉を重ねた。
「きみの手の平の傷は化膿することもなく、きれいに治っているね。確かエタノールで消毒、と言っていたが……R医師、エタノールを消毒薬として使用するなどと聞いたことがありますか?」
「いえ……初耳ですな」
「それから、カラス。ハウスメイドのローザに、アヘンチンキの代わりに鎮痛薬を服用させたそうだね。よく効いたそうじゃないか。それも外国で手に入れた薬だろう?」
「…………はい、そうです」
一体いつの間に耳に入れたんだろう、と驚きながら、カラスはしぶしぶ頷いた。
「このとおり、カラスには僕たちにはない知識があります。だから僕はこの手術が安全かどうか、彼にも意見を聞いてみたいんです。どうです? 構わないでしょう、姉さま?」
カラスと目が合い、ハリエットは見極めるように視線を定めた。数十秒の沈黙のあと、観念した様子で口を開いた。
「……そうね。いいわよ、アンソニー。確かにカラスは日本のおまじないまで知っていたわ。私たちが知らないことで、彼が知っていることもあるかもしれないわね。カラス、遠慮はいらないわ。なにか気になることがあれば聞いてちょうだい。いいわね、R医師?」
「はい。ハリエット様さえよければ、わたしは構いません」
「では、説明をお願いします」
アンソニーが場を掌握するように、よく通る声を響かせた。
「先ほども申し上げたように、手術はこの部屋で、一週間後の土曜日に行います。最初にクロロホルムで麻酔をします。ハリエット様がぐっすりと眠られている間に、苦痛もなく手術は終わっている、という次第です」
「どうだ、カラス? クロロホルムは安全だと思うかい?」
「えっ…………と、すみません。分かりません」
カラスは正直に答えた。TVドラマのなかで『犯人はクロロホルムで意識を失わせて』といった台詞は聞いたことがあるものの、それが医療として良いか悪いかの判断はつかなかった。アンソニーは肩を落として、R医師は言葉に力がこもった。
「もちろん、安全ですとも! ヴィクトリア女王のご出産にも使われたのですから」
「まあ、そうですね……じゃあ、続きを聞かせてください」
「鉗子などの器具はよく拭いて用います。あとは筋腫を取り除き、二週間ほど安静にしていただければ、これまでどおりの生活を送れますよ」
「消毒はどうされますか? ロンドン大学の知人によると、今は石炭酸が主流だと聞きましたが」
「石炭酸など! あんなものはただの流行です。わたしは手術の前日に、熱湯で絞った布でしっかりと器具を磨きます。五十年間、そうやってきたのですから」
「どう思う、カラス? 石炭酸はヨーロッパ大陸や米国でも使われているだろう?」
「すみません……分かりません」
石炭酸などという単語を聞くのは初めてだった。アンソニーはうなだれて、R医師は満足そうに微笑んだ。
「あの……でも」
カラスの言葉にアンソニーが顔を上げた。
「手術の器具を……前日に熱湯で拭くんですよね? 使う直前に消毒しないんですか?」
「そんな熱い器具を使ったら、ハリエット様が火傷なさるかもしれないでしょう?」
「でも器具を移し替えたり、移動もするでしょうし……そのとき、もし手が汚れていたら細菌が付着するかもしれないし……」
「細菌ですと? この清潔な部屋に、結核菌やコレラ菌がいるとでも言うつもりですか? 貧民街でもあるまいし」
「いや……それ以外の細菌だっているでしょうし」
「は? きみは医者でも学者でもないのだろう? 一体なにを知っているというのだね?」
声を荒げるR医師に、カラスははっと気がついた。
(……あ、この時代ってまだ細菌ってそんな一般的じゃないんだっけ? あーよく分かんねぇ……俺が医大生とかなら、もっと役に立てたのに)
「まあ、落ち着いてください、R医師。まさにそこですよ。我々にはない知識を持っているかもしれないからこそ、この場にカラスがいるんです。それで? きみはR医師のやり方では不十分だと思うんだね?」
カラスはR医師の顔を見ないようにして、首を縦に振った(ああ……絶対怒ってるよな。こんな得体の知れないやつが口出して、って。でもハリエットの生死に関わる以上、適当なことは言えないし……少なくとも、俺の現代日本の知識で分かることには答えないと)。
「手術の直前に、器具の消毒をするべきだと思います。それに手も……」
「手? もちろん洗いますよ」
「そうなんですね、石鹸で……」
「石鹸はお湯の準備が要るでしょう。水でよく洗うんですよ」
「水……いや、それじゃ消毒にはならない……」
「だからきみがなにを知って!」
「大学病院では、石炭酸で手指消毒を行うと聞きましたが」
「アンソニー様! ですから石炭酸などただの一時的な流行で」
「リスター医師が考案したから気に入らないか?」
「な……なにを」
「あなたの親友のシンプソン医師は、最期まで彼と対立していたな。今は亡き親友をかばわれるあなたの意思も分からなくはないが、医師としての矜持を優先されるおつもりはないのか?」
「なっ……なにを……!」
「アンソニー、失礼よ!」
「ああ……すみません。言葉が過ぎました。R医師、あなたが産科医として十数年間、姉さまに尽くしてくださっていることは、よく知っています。しかし、これは生命に関わることなんです。あなたが最新の医学を用いるつもりがないのなら……手術は別の方にお願いしたい」
「だめよ、アンソニー。私はR医師だからこそ任せるのだから」
「姉さま!」
「あなたの心配はありがたいけれど、もう決めたことなの。お願い。これ以上、R医師の名誉を貶めるような言動は慎んでちょうだい」
「……手術は一週間後でしたね。姉さま、僕は諦めが悪いんです。だけど日を改めましょう。R医師、けしてあなたのことを侮辱したいわけではないんです。姉を心配するあまりの弟の言葉とご容赦ください。では、失礼します。カラス、行こう」
最後のひと言をカラスに向けて、アンソニーは一同に丁寧なお辞儀をした。ハリエット、R医師、ルーシーの視線が痛いぐらいに背中に刺さり、泰然とした調子で歩くアンソニーの横顔を、半ばあきれ半ば称賛の思いでカラスは見つめた。
アンソニーは部屋に戻ると、長椅子にもたれて細長い指でまぶたを覆った。
「あーーーーーもう。こんなことになるんじゃないかと思ったよ」
「すみません、俺。なんの役にも立てなくて」
「いや、よく言ってくれた。やはりR医師のやり方では問題があるんだね?」
「はい……俺は問題だと思いました」
「僕もだよ。リスター医師とシンプソン医師の確執は知っているかい?」
「いえ……」
「リスター医師が考案した石炭酸の消毒は、今では多くの病院で採用されている。六十年代に論文を発表したときは、ずいぶん批判を受けたらしいがね。当時、批判の先陣を切ったのがシンプソン医師だったらしい。彼は死の間際まで、リスター医師の消毒法を認めなかったそうだ。シンプソン医師がR医師の親友だと知って以来、僕はこうなるんじゃないかと恐れてたんだ……ああもう、予感的中だよ。最悪だ」
「でも今はその……石炭酸っていう消毒が主流なんですよね?」
「ああ。だが当時のシンプソン医師の仲間たちや、一部の古い考えをもつ医師たちは頑なに認めようとしない。なにを信じるかは個人の自由だが、少なくともハリエットを執刀する医師は、最善を尽くせる者でなければ任せるわけにはいかない」
「ハリエット様を説得してみたら……」
「……だめだろうね。あのひとは頑固だから、一度決めたら意志を変えないだろう」
「じゃあどうすれば……」
アンソニーは白い指をゆっくりと開いて、その隙間からカラスの視線をとらえた。
「……軟禁してしまおうか?」
カラスは自分の耳を疑って、アンソニーに聞き返した。アンソニーはなんということもない様子で、さらりと同じ言葉を吐いた。
「R医師を軟禁してしまおうか? そうして、姉さまの手術をしないと同意のうえ署名をさせて、どこか遠い州にでも引越しさせればいい」
「やっ……それはまずいでしょう!」
「どうして?」
「だって軟禁って……犯罪ですよね?」
「カラス、監禁じゃなくて軟禁だよ。別に手足を縛りあげるわけでもないし。それとも、きみに代案があるのかい?」
「代案……ですか」
「ああ。なければ……カラス。きみにR医師の軟禁を手伝ってもらいたい」
「やっ! ちょ、ちょっと待ってください! 考えますから!」
冗談じゃない、とカラスは焦る。
(……マリーの兄さんを探すために始めた仕事で、なんで犯罪の片棒をかつぐ羽目になるんだ⁈)
カラスは頭を抱えてうなり声を上げた。
・医師以外が行う医療行為は法律で禁止されています。第三章・5、6話では物語の展開上、主人公が医療や投薬について助言する場面がありますが、これは19世紀という物語の状況下における行為です。21世紀の読者の皆さまは、けして真似されることがないようお願いいたします。




