3-4 カラス、淑女に助言する(下)
翌朝、アンソニーに朝のお茶を届けたあと、カラスは庭を散策した。朝露をたたえた葉がきらきらと陽を反射して、道の両脇に茂った草花が惜しみなく芳香を放っている。植物の濃厚な空気のなかを歩いていると、眠気が次第に覚めていった。曲がりくねった小道の中ほどに木陰に設けられたベンチがあり、片隅に腰かける女性の姿を見つけて、カラスは頬をゆるめた。
「あら。おはよう、カラス」
「おはようございます、ハリエット様」
「どうぞ。座ってちょうだい」
「あ、どうも。あの、先日はありがとうございました。ラヴェラさんのこと……」
「どう? 上手くやっていけそう?」
「はい。話してみたら……いいひとでした。仕事熱心で」
「口やかましくて?」
「やっ! そんなことは…………ちょっとだけ」
「ふふ。ラヴェラのがみがみは愛情表現だけど、度が過ぎたら、もーうるさい! って言っていいのよ。お互い我慢せず付き合っていくといいわ。まあ、あんまり言うと傷つけてしまうかもしれないけれど。ラヴェラはああ見えて繊細だから」
「よくご存知なんですね」
「ラヴェラも、ルーシーやシルヴィアも、私が小さい頃からずっと一緒にいるの。ミスター・リーやハリソン夫人なんて、私が生まれる前からこの館にいるのよ。みんな大切な家族みたいで……ときどき、ずっとこんな毎日が続けばいいのに、って思ってしまうわ」
「……ハリエット様?」
視線を落とすハリエットの姿を見て、カラスは戸惑いながら様子をうかがった。彼の困惑に気づいたように、ハリエットはぱっと顔を上げて、にっこりと笑った。
「いやね、感傷的なのは。なんでもないの。ただ……ちょっとだけ、勇気がほしいなと思っただけ」
「勇気、ですか?」
「そう。前に進むための。怖さを乗りこえるための、勇気がほしいわ……知らない? 船乗りをしていて、そんなおまじないは聞いたことがないかしら?」
口調は冗談めかしていたものの、ハリエットの目は真剣で、カラスは必死で頭をひねった(勇気? なにか……励ますような? なんだ? なんかないのか……)。
「あの…………手の平にこう、人の字を……あ、そうか。えっと、こうやって二本の線を三回書いて、飲みこむんです。緊張が解けて怖さがなくなるっていう……」
それは昔、誰に聞いたのかさえ覚えていない、迷信のような仕草だった。小学生の自分が母親に尋ねてみたら、母親も子どもの頃に誰かに聞いたことがあるという。疑いながらも、日本で暮らす人なら一度は試したことがある仕草なのかもしれない。カラスはそんなことを頭に浮かべ、果たしてハリエットの役に立つだろうか、と思いながらも丁寧に仕草をくり返した。
「この二本の線は、どんな意味があるのかしら」
「それは……漢字なんです。『人』っていう意味があって」
「漢字……そう、これが。じゃあ、これは清国のおまじない?」
「いえ……日本です」
「日本…………そう、日本なの。じゃあ、アンソニーにも教えてあげないと」
「え? なんでアンソニー様に?」
「ああ、アンソニーは日本びいきだから。きっと喜ぶわ。あなたの黒い髪と黒い目も東洋を思わせるから……きっと気に入っているはずね」
ハリエットはもう一度、手の平をなぞって飲みこむ仕草をすると「もう行かなくちゃ」と立ち上がった。ありがとう、と微笑む彼女を見送って、カラスは複雑な気持ちで朝の庭に佇んでいた。
(……アンソニーは、俺が日本人に似てるから手元に置いておきたいのか? 東洋趣味のひとつとして? それとも……俺を日本人だと疑ってるんだろうか?)
「え? 日本? うん、好きだよ」
教会から戻ってきたアンソニーの着替えを手伝いながら、それとなく尋ねてみると、あっさりと彼はそう答えた。奥に寝室を備えたアンソニーの居間は、天井や壁紙は淡いクリーム色にまとめられて、同じクリーム色の長椅子、艶のある木製のテーブル、暖炉や壁に飾られた絵画、そのどれもが西洋らしい調度品ばかりだった。
「東洋の品物を収集したりはしないんですか?」
日本びいきの西洋人といえば、浮世絵や着物を集めたり、日本の書物が本棚に詰まっていたり、といった光景をカラスは思い描いていた。少なくともアンソニーのこの部屋には、日本を連想させるものはなにもない。
「そうだねえ。ほら、通りの向こう側にはリバティだってあるだろう? あそこに行けば素晴らしい東洋の工芸品がなんだって見られるからね。それにカラス……きみのその美しい髪と漆黒の瞳は、イタリア人でもユダヤ人でもなく、東洋の血を思わせる。今はそれだけで十分だよ。ああ、カラス。もしかして、きみは本当は日本人だったりするのかい?」
「えっ? いや……俺はマリーの兄なので…………日本人じゃないです」
「ああ、そうだ。きみたちは兄妹だったね。それで……ああ、そろそろ時間だな」
アンソニーは暖炉の上の時計を見ると、長椅子から起き上がり、短く息を吐き出した。眉尻を下げて笑いながら、カラスに片手を差し出してくる。
「きみの助けが必要だ。一緒に来てくれるかい?」
二階の廊下の突き当たり、左手の扉の前でアンソニーは立ち止まった。軽く扉を叩くと、ルーシーが訝しむように顔をのぞかせた。
「あ……アンソニー様」
「お邪魔するよ、ルーシー」
引き留めるように手を伸ばす彼女に応じることもなく、アンソニーは部屋に足を踏み入れた。後ろを振り返り、カラスに付いてくるようにと目で促す。部屋のなかには、長椅子に座るハリエットと、向かい合った椅子に腰かける老人がいた。二人とも予期せぬ闖入者に驚いた様子を見せた。
「……これは、アンソニー様。ご無沙汰しております。お元気そうでなにより」
「久しぶりです、R医師。あなたもお元気そうだ」
「なにを仰います。この老いぼれはもう七十を過ぎたというのに」
「だけど、ハリエットの手術を執刀するのはあなたでしょう」
「まあ、アンソニー。あなた……いったいどうしてそれを」
「姉さま、あなたの生命に関わることを僕が見過ごすと思う? ああ、もちろんルーシーもR医師も、なにも漏らしてはいないよ。彼らはあなたに忠実だ」
「生命って……大げさよ、アンソニー。簡単な手術なの。それに私の主治医のR医師が執刀してくださるのだから、絶対に大丈夫よ」
「……R医師、絶対に大丈夫と断言できますか?」
「手術は病院ではなくこの部屋で行われますから、ハリエット様は清潔な室内で落ち着いて臨めることでしょう。わたしも最善を尽くしますし、神もきっと味方してくださるはずです。ええ、わたしは成功を確信しておりますとも」
「そうですか……ねえ、姉さま。ジェームスはこんなこと望んではいないと思うよ。彼に相談すれば……」
「絶対にジェームスには言わないで。反対するに決まってるわ」
「だったらなおさら……!」
「アンソニー。大丈夫、生きるつもりよ。私は死んだりしないわ」
ハリエットの目には強い光が宿っていた。頑として意志を曲げようとしないその姿に、アンソニーはため息を漏らした。彼女は白い五本の指をゆっくりと広げて、アンソニーの前に差し出した。眉根を寄せる彼ににっこりと微笑んで、ちらりとカラスを横目で見る。
「日本のおまじないよ。『人』という漢字を三回書いて飲みこむと、勇気が出るんですって。私、この『人』たちは、自分を励ましてくれるひとのことだと思うの。だからR医師と、ルーシーと、それから……ごめんなさいね、アンソニー、あなたのことも大好きだけど……ジェームスの名前を書いて、飲みこんでしまうのは悪いからキスをすることにしたわ。ね、だからもう怖くもないのよ。カラスが教えてくれたのよ」
ハリエットはカラスに笑顔で頷きかけて、その視線を追うようにアンソニーも彼を見た。アンソニーはR医師へと視線を移し、ハリエットを見て、カラスを見て、最後にR医師に向き直った。
「R医師、今日はお願いがあって来たんです。手術について姉さまに説明されたことを、もう一度、僕とカラスに聞かせていただけますか」
アンソニーの申し出に、R医師は戸惑うようにカラスに目を向けた。
「ええと……ご家族のアンソニー様はともかくとして、この男性は……」
「アンソニー、カラスはあなたの従者よ。私の手術には関係ないでしょう?」
「いいえ、姉さま。カラスにも聞いてもらいます。僕は……カラスの意見が聞きたいんです」
その言葉に一同の視線がカラスに集まった。
(……は⁈ なんで俺⁈ いや、俺、全く医療の知識なんてないんですけど!)
狼狽するカラスの心を知ってか知らずか、アンソニーは感情の読めない表情を浮かべて、口を結んでカラスを見つめた。




