野良犬と生存者-1
どれだけの時が過ぎようと双月はそこに在り続けた。
何時まで経っても青と赤の満月が消え去らないので、少なくとも幻覚を見ている訳ではないと理解した兵衛は、立ち位置を変えた上でもう1度ガラス屋根を見上げてみる。
これが単にガラス部分へ絵やステッカーを描いたり張っただけだったり、もしくは透明な屋根が実はスクリーンになっていて偽りの夜空を投影しているというのであれば、手の込んだ騙し絵であっても見る角度を変えればすぐに見分けがつくものだ。
しかし今兵衛が見上げる2つの月は、どれだけ視点を変えてみても平面状に描画された存在特有の違和感というものがこれっぽっちも感じられない。どう見ても本物としか思えなかった。
だが月が2つ、そう、2つである。
いくら記憶を失っていようが世間一般の常識は覚えている……つもりだ。ピッキングの仕方や効果的に人体を壊す為の暴力の振るい方を一般常識に含んで良いのかは置いとくとして、空に浮かぶ月は1個だけの筈だ。
だが実際にガラス屋根から見える月は2つである。それも赤と青の色違い。急に月が分裂したとでもいうのか。
頭がおかしくなりそうだった。いや、記憶喪失の時点で既におかしくなっているとも言える。
記憶喪失の青年はしばしの間戸惑い、混乱し、喚いたり取り乱すまではいかなかったものの頭を抱えた。
やがてこう結論を出した。。
「……また後で考えよう」
現実逃避と言うなかれ、理解不能以前にまともな情報も無いこの状況で延々悩み続けるよりも、彼にはもっと優先すべき事があった。
自分の記憶を取り戻す。
記憶の手がかりとなりそうな通学先の学校へ向かう。その為にはまず地下から脱出しなければならない。
月が2つに増えた理由や地下にゾンビが溢れて荒廃した原因なんて兵衛にはどうでも良かった。
大事なのは生き延びて己が何者なのか明らかにする事、ただそれだけ。
それだけだ。
月が2つ浮かぶという異様な風景から視線を引き剥がした兵衛は改めて改札前を見回す。
空間そのものの広さ、また具体的な時刻は分からないが時間帯が夜とあってか、広々とした改札前はひんやりとした空気が漂う。
鼻を鳴らしてみる。心持ち淀んだ空気の中に、微かな血生臭さを嗅ぎ取った。改札前の壁や床にも所々血痕が残っており、ここでも惨劇が繰り広げられた事を示している。
とはいえ、シャッターをくぐる前にも確認した事だがこの空間にゾンビの姿は見当たらなかった。
シャッターを手動で動かした音は駅側にも響いた筈だ。目に見える範囲にいないだけで、通路側と同じように聞きつけたゾンビが兵衛の下へやってこようとしている可能性もある。警戒は怠らないべきだ。
さて、と兵衛は順繰りに視線を右から左へ動かした。
彼の位置から見て手前から順番にコンビニ、改札、駅長室、そして上方向へ延びるエスカレーターの乗り口が目に入る。
改札の向かい側の壁にはコインロッカーがあった。財布の中に入っていた領収書の存在を自然と思い出す。記憶を失う前の手がかりを求める身としてはエスカレーターを使って地上へ昇る前にこちらをチェックしておくべきか。
その時、唐突に腹が鳴った。自然と兵衛の視線はコンビニへと吸い寄せられる。
トイレで水をがぶ飲みしたとはいえ、栄養もへったくれもない水道水だけでは彼の胃は不満なご様子だ。抗議のように腹の音が更に鳴る。
そんな訳で、兵衛の中で優先順位が脱出よりも記憶の手がかりもまず食い物の調達へと傾くのはあっという間であった。
「腹減っては……何だっけ? まぁいいか」
こういう時にピッタリな言葉があった気がしたが中々出てこないのはきっとエネルギーが足りてなせいだ、などと誰も聞いていないのに独り言い訳しながらそそくさとコンビニへ。
入り口の自動ドアは完全に開放されたまま停止している。照明の方は地下通路同様、一定間隔で点滅しているものの生きてはいたが、交互に訪れる光と暗闇による視界への影響はやはり厄介だし、商品棚の影になっている部分など死角も多い。
兵衛は毛部分を外したモップを構えながら店内へと踏み込む。
彼の構え方は少しばかり異質だ。柄の一端を両手で握るというケンカ慣れしていない素人がよくやるものとも、長物の扱いに熟達した武術経験者の型に嵌った構えとも違う。
背中を丸め、右手は引いて左手をやや前方に伸ばした格好でモップを握り、T字型の金具が付いた部分を突き出しながら滑らかな動きで進む姿は、敢えて例えるなら訓練を積んだ現代の兵士がライフルを構えた際のそれだ。
それこそモップの先端をライフルの銃口よろしく左右に巡らせ、兵衛は店内に警戒の視線を巡らせる。
ザっとクリアリングしてみた結果、店内に生きた屍の姿はないと判明した。
そして彼は気付く。
「……ファック」
食品類の値札が貼られた商品棚が全て空っぽであるのが目に入ると、力ない悪態と共に天を仰いだ。
それこそ菓子パンからカップ麺、酒のつまみから駄菓子類、食べ物だけでなく冷蔵庫に収められていた清涼飲料水の類に至るまで根こそぎ持ち去られていた。
がっかりである。ショックである。期待から一転打ちのめされた兵衛からしてみれば、危うくその場で跪きそうになるぐらいの衝撃であった。
例外は氷点下での保存が必要な冷凍食品やアイスぐらいだろうか。だが冷凍庫の電源が通じていないせいでどれもこれもドロドロのベシャベシャに溶けてしまっていた。
それでも一応、ピラフや焼きおにぎりなど、電子レンジが使えなくても火にかければ食えなくもななさそうな商品はキープしておく。
「何か、何か残ってないのか」
一縷の望みを賭けて残りの商品棚を見て回る兵衛。
すると商品棚の奥、屈んで覗き込まなければ見えないような位置に平べったい缶詰が1つだけ残っていた。期待と共に缶詰を掴むと内容表記に目を通す。
そこにはこう書かれていた。
猫まっ〇ぐら、と。
「ペット用の餌じゃねぇかシット!」
今度こそ兵衛は崩れ落ちた。
だが打ちひしがれていても事態は好転しない。獣用だが食い物は食い物、と割り切ってペット用缶詰もキープに回すと、今度は食料品以外に使えそうな品物を探して店の中を見て回る。
最終的に入手したのは火種に使えそうなライター用のオイルが入ったボトルと同じく充填用のガスボンベ、カッターナイフ用の替刃(本体は持ち去られていた)、それからレジャー用の安全手袋に安物のタオルといったところであった。
正直芳しくない成果だ。特にまともな食料品がほぼ持ち去られているのが痛い。
そう、持ち去られているのだ。
食料品以外にも、殺菌成分入りのウェットティッシュといった衛生用品、懐中電灯に使える各種乾電池や携帯の充電用バッテリー、はたまたハサミやカッター本体といった武器に使えそうな金物までごっそり無くなっている。
これがゾンビの仕業とは到底思えなかった。
ならば思い当たる理由は1つしかない。
商品棚の散策にひと段落つけると、兵衛はレジカウンターへと向かった。別に選んだ品物をレジに通すつもりもなければ金を払うつもりもない。
勝手にカウンター内へ入り込んだ学生服姿の少年がまず行ったのはレジの操作だった。
「チッ、開かねぇか」
彼にとって残念な事にレジスターはうんともすんとも言わなかった。無論ここまでくると犯罪だが、それを咎める店員はこの場に存在しない。
次に兵衛はカウンター内に置かれていた100円ライターを、更に万引き対策としてカウンターの後ろに陳列されていたタバコの紙箱へと手を伸ばす。荒らされた店内で、これらタバコ類だけは唯一と言って良いほど持ち去られていなかった。
慣れた手つきで煙草を咥え火を点ける。
どうも記憶を無くす前の自分はガキのくせにこの手の物を嗜んでいたのだと、兵衛は新たに思い知った。
照明が光っては紫煙の輪郭が、消える度にオレンジ色の小さな光が夜空を漂う蛍のように浮かび上がる。
カウンターに腰かけて佇む事しばし。
口の端からぶら下げたタバコが3分の1ばかり短くなった頃、おもむろに兵衛はカウンターから降りたかと思うと、店内の隅に存在する扉の下に向かった。
扉には『従業員以外は入らないでください』の張り紙。店員が細々とした裏方作業を行う為のバックヤードへ通じているのだろう。
店内を散策した時には商品棚のチェックを優先したのでこの中は調べていない。
扉の前に立った時、兵衛は違和感を感じた。足元へ視線を落とす。
半乾き状態でべっとりとした液体が扉の下から流れ出た痕跡があった。黒く酸化した液体はかすかに鉄錆の臭いを漂わせている。
扉の反対側からは何の物音も聞こえてこない。それでも最大限警戒しながら、兵衛は片手でモップを構えつつ、ゆっくりと扉に触れた。
わずかに軋みながら扉が開いていく。
――中には死体が並んでいた。
たくさんの死体が。
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