名前のない野良犬-5
怒りの衝動に流されるがまま吠えてしまった彼――兵衛であったが、自分が何をしでかしたか自覚するなり真っ赤になっていた顔を今度は青くし、思わず手で口を押えたポーズのまま鏡の前で凍りついてしまった。
「…………………」
息を殺すどころか実際に呼吸を止めてまで固まる事しばし。
再起動した彼はぎこちない動きで扉の施錠を外し、少しだけ開けてまたトイレの外を窺う。そして足音も呻き声も戻ってきていないと確信できると、安堵の溜息を漏らして扉を閉じた。
地面に放り出した学生証を拾い上げた兵衛は、洋式便座を椅子代わりに腰を下ろした。クレジットカード大の学生証を片手で弄びながらじっと見つめる。
あからさまに怪しい名前以外は何の変哲もない学生証……だと思う。
肝心なのは失われた記憶の手がかりを入手できたという点だ。学生証の発行元である学校なら学生証に記載された内容以上の情報も存在するだろうし、教職員やクラスメイトといった兵衛の事を知る人間もいるに違いない。
「俺の名前は武名兵衛、俺の名前は武名兵衛……」
学生証に書かれていた名前を何度も反芻する。本当に自分の名前なのであれば少しぐらい記憶が蘇ってもいいだろうに、彼の記憶は相変わらず靄がかり続けたままだ。
しかし学生証を発見した事で事態が進展したのは事実である。自分の身にどんな事態が降りかかったのかはまだ分からない。でも自分が何物だったのかについての手がかりはあった。
まずゾンビがうろつくこの場所を脱出する。地上へ出たら自分の記憶に繋がる手がかりを探す。その為に学校へ向かうのだ。
一旦決意すると、兵衛は己の内側に何かが生まれるのを感じた。最初は小石だったそれは見る見る集まり、固まり、やがて強固な1本の柱へと変貌した。
地上はまともなままかもしれないし、そうじゃないかもしれない。施設の外もゾンビがうろつきまわる地獄へ変貌してる可能性は否定できない。
「それがどうした」
彼は決めたのだ。己が何者なのかを明らかにするのだと。
自分が『武名兵衛』である事を確かめに。
『武名兵衛』だった記憶を取り戻す為に。
手に入れると心に決めたからには決して諦めるつもりはない。この地下空間に閉じこもり続けるのも、ましてやゾンビに生きたまま食われ死ぬのも真っ平ゴメンだ。例え相手が化け物だろうが知った事か。
ああそうだ、目的の為ならどんなやり方を選ぼうと――
「ぐぅ……っ!」
突然の頭痛。ぐらりと世界が一瞬傾いた。
何かに殴られた時のような、というよりかはカキ氷を一気食いした時に似た、側頭部を貫く痛み。便座から滑り落ちてしまいそうな体を両手で支える。
幸いにも頭痛は長くは続かなかった。急な頭痛の発生原因に困惑しつつ、握ったままだった学生証を財布の中に戻そうとする。
「ん?」
中身をよく見てみると、当初は学生証しか入っていなかったと思っていた折りたたみ式財布のカード入れに、小さく押し込まれた紙片も入っていた事に兵衛は気付いた。
つまみ出し、紙片を広げてみる。どうやらレシートのようだ。単なる買い物の領収書とは違い、支払金額以外に桁数の違う数列とQRコードが記載されている。
「六角シティポート駅コインロッカー、だぁ?」
学生証に続く、過去の自分を思い出す為の新たな手掛かり。
コインロッカーがある駅はちょうど今兵衛がいるトイレからシャッター1枚隔てて目と鼻の先にある。
もう1度言おう。シャッターの向こう側である。このシャッターが難敵だった。
学生服を着直した兵衛はもう1度扉を静かに開けた。今度こそトイレの外へ出ると、なるべく足を立てない歩き方で通路へと戻る。
先程までゾンビの群れがひしめいていたであろう通路は元の静けさを取り戻していた。
音の聞こえ具合から兵衛を負ってきた屍の群勢が既に散っていたのは察していたつもりだったが、直接見て確認してみるとやはり実感度合いが違う。胸を撫で下ろしつつ、シャッターの様子を確かめる。
予想通り数十体のゾンビによる圧力が加わっていたにもかかわらず、通路を完全に塞ぐシャッターはその表面をいくつもの手形の血判に汚されているものの、その全体像に歪みは1つも見られない。
シャッターの汚されていない部分を兵衛も軽くノックしてみた。予想以上に硬質かつ重量感のある叩打音が返ってくる。生半可な道具ではまず破れそうにないほどに頑丈な代物だと理解せざるをえなかった。
シャッター自体を破るのはまず不可能だと判断した兵衛は次にシャッター周辺の壁を調べて回る。
探していた物はすぐに見つかった。何らかの原因で手動操作が必要になった時に使う操作スイッチ。ただし一般客が勝手にいじらないよう鍵付きの蓋でロックされている。
鍵は至ってシンプルなシリンダー錠だ。
「そういう時こそコイツの出番ってな」
そんな訳で手錠に引き続き、今度はシャッターの操作スイッチの鍵を仕込んでいた針金で解きにかかる。
今度は特に邪魔が入らなかった事もあり、手錠の時よりもはるかに短い時間での解錠に成功した。T字型の開閉装置が姿を現す。
シャッターの作動音にさっきのゾンビ集団がまた引き寄せられるのを警戒した彼は地下通路を見回し、視界に入るほど近くにゾンビが存在しない事を確認した上で開閉装置を操作した。
しかし上手く事が運んだのはそこまでだ。上か下かで開閉を操作するタイプの装置を何度も上方向へ押し上げても、シャッターはうんともすんとも言わなかった。
開閉装置を作動させる為の電気が通っていない……という感じではない。配電系統がそこまで損傷しているのであれば通路やトイレの照明も消えていなければおかしいし、トイレのセンサーも死んでいる筈だ。
ともかく開閉装置が反応しないのであれば手動でこじ開けるしか方法しかあるまい。
再びシャッターの周囲、今度は天井付近を見て回る。天井の高さは2メートル半はあるか、つま先立ちになった上で手を限界まで伸ばしてもまず届かないぐらいの位置に小さなハッチの存在を視認した兵衛は、一旦トイレの方へと引き返した。
といってもまたトイレ内に引きこもるつもりはない。彼の目的はトイレのドアの手前に存在する掃除用具入れにあった。
兵衛は掃除用具入れに収められていたモップを手にする。もじゃもじゃとした床を拭く為の毛の塊を固定用の金具から外すと、短いT字型をした金属の地肌が露わになった。
金具から柄の先端まで全長は兵衛の身長の5分の4ほど。これを使えば余裕で天井のハッチまで届く。柄もスチール製でそれなりに頑丈そうだから武器としても使えそうだ。
目的の道具を見つけた彼はすぐさまハッチの真下に戻った。
「いよっと」
金具部分がある側を天井へ向ける形でモップを持ち上げると、なるべく音を立てないようにそっとT字型の金具をハッチ部分へ当てた。柄を保持する両手にゆっくりと力を加え、ハッチを押し上げようと試みる。
ハッチ自体はかっちりと枠に嵌め込まれているものの、道具を使わなければ普通はまず手が届かない高さの天井に設けられている事もあって鍵の類は存在しない。単純な力技で開けられる代物だった。
一定以上の力を加えると、案の定ハッチが浮き上がる確かな手応えが兵衛の両手に伝わってきた。一旦動かせるようになると後はあっという間で、簡単にハッチを完全開放する事に成功した。
ただ一定角度まで押し上げたところでハッチが反対側に倒れ、その際にバタンと大きな音を生じさせてしまったのは誤算だった。
「やっべ」
静寂に満ちた地下通路において今の開閉音はそれなり以上に遠くまで伝わっただろう。残された時間は短い。
モップの先端を今度は口を開けたハッチの中へと突っ込む。金属質の物体を突いた感触がしたので手探りで金具の折れ曲がった部分へ引っかけると、すぐさま手元へ引き寄せた。
次の瞬間、細かな金属部品がぶつかり擦れ合う音と共に手動開閉用のチェーンが兵衛の目の前へと垂れ下がった。
モップを足元へ置くと躊躇う事無くチェーンを引っ掴む。
開閉装置が反応しない場合の最後の手段、シャッターの開閉機構と連動したチェーンが下方向へ引っ張られると、強固な金属製の仕切りが軋むような異音を伴いながらゆっくりと持ち上がり始めた。
シャッター自体が数十人分のゾンビの圧力をも阻むぐらい頑丈なだけあり、チェーンを動かすにはかなりの力が必要だった。それでも手動ゆえの単純な機構はしっかりとその役目を果たし、着実に床とシャッターの間隔は広がりつつある。
這いつくばればギリギリ通過できるぐらいの幅まで隙間が広がった時、曲がり角の向こうから独特の移動音が兵衛の耳に届いた。
もう一刻の猶予もない。兵衛はシャッターの向こう側にはゾンビの姿がないのを確認し、先に毛のないモップを向こう側へと滑らせてから、床へ腹ばいになって自分も隙間を潜り抜ける。
身を起こす前に通路側を見やった際にはゾンビが既に数体、曲がり角から出現していた。後続も次々と姿を現す。兵衛はシャッターの淵に片足をかけ、ストンピングの要領で今度は自らの力でシャッターを閉じた。
何秒か過ぎた時、不意に通路側からシャッターが叩かれた。思わず兵衛は後ずさってシャッターから距離を取る。
最初は1つだけだったノック音は次々と増えていく。増加のペースに反し、シャッターは震える事も揺らぐ事も無くゾンビの群れの圧力を完全に阻んでいる。
これなら大丈夫だ。そう確信が持てた兵衛は胸を撫で下ろした。
シャッター1枚を隔てた通路の先は六角シティポート駅の改札前だった。モップを拾い上げつつ兵衛は目の前の空間を見回す。
観光客を筆頭に多くの人間が利用するのを前提に設計された場所なだけあって、改札の数も空間の奥行きもかなりの規模だ。様々な物がひっくり返され荒れ果てているのはさっきまで彼がいた地下通路と大差ないが。
天井も通路の倍以上高く、特に改札前の中心部は屋根がガラス張りになっていて外からの光が差し込む構造となっている。それもあってか明滅する照明以外に光源が無かった地下通路と比べると、改札前は証明の類が必要なさそうなほどにかなり明るい。
かまぼこ型の強化ガラスから差し込む光は、突き刺ささるような強烈さはない。太陽の日光ではなく柔らかな月光だった。
透明な屋根越しに天を見上げると幾つもの星に彩られた夜空が――
「……あぁ?」
それに気付いた瞬間、兵衛はまず瞬きをし、次に何かの錯覚だと思い、幾度かきつく目を瞑っては見開くのを繰り返した。
更に目にゴミが入ったせいだと考えて目元をゴシゴシと擦り、最終的に頭の怪我による幻覚を見ているのだと危うく結論付けそうになったが、どちらにせよ窓の外の光景は変わらなかった。
彼の目が窓の向こうに捉えた存在。
それは。
「…………月が2つ?」
――淡く色付いた赤と青、2つの満月。
クラス単位や乗り物規模での異世界転移は珍しくなくなってきたから施設丸ごと異世界転移させてみた、後悔は(ry




