[5] 逃避のゆくえ(1)
流す、という技術が不得手なアリスに、直接的な打撲を『ないもの』としてあつかうことなど、できようはずもなく。
「いった! うわ、いってぇ……!」
フヒト渾身の右ストレートをまともに受けたアリスは、丸々とした黒瞳いっぱいに涙を浮かべて、床を転がりまわっている。
非戦闘員の代表格と呼べるほどに非力な[史記]だが、その実、『情報をあつかう』という一点に関しては、右に出るものがいない。
アリスのような不器用な存在には、『痛そうだ』と信じこませさえすればいい。
フヒトにとっては、赤子の手をひねるようにたやすいことだ。
「馬鹿じゃないの」
身を転がすたび、床を埋めるガラクタに身体をぶつけては、もんぜつする少年を、フヒトはひややかに見下ろす。
「意味がわからない。二度とふざけたまねしないでよ、アリス。すごく不愉快」
表情筋を眠らせたまま、淡々とつむぐ言葉は、フヒト自身にさえ自覚できるほどに冷えきっていた。
反射的に動きを止めたアリスが、身を丸めたまま、仁王立ちするフヒトをうかがいみる。
首をすくめ、そろりと目線を動かす様は、まさに叱られるのを待つ子どもの姿そのものだ。
「ごめん、なさい」
「僕は、謝って欲しいわけじゃない」
「うん、……ごめん」
そう言ったきり、アリスは頭を抱え込んだ。部屋のまんなかに残った窮屈なスペースに、すっぽりと収まるカタチで、器用に丸まる。
とてもコンパクトなその体勢からは、普段は満ちあふれて洪水状態の生命力が、まるで感じられない。
――それだけで、フヒトの心は不安定にざわつく。
横倒しで、ひざがしらに顔を埋めたまま、アリスが、くぐもった声をぽつりと漏らした。
「……眠ろうと、思ったんだ。だけど眠れなくて。そういえば俺、学都にオちてから、どれだけたったんだろうって。昼も夜もない。暖かい陽ざしがさしたつぎの瞬間には、影が空をおおう」
「アリス?」
「わけわかんなくなったんだ。俺、いちども寝てない。眠くもない。腹もすかない。フヒトはそれを当たり前だって言うけど、だけど、俺。……俺、わかんねえよ」
きつく身体をかき抱いて、アリスはより一層小さく、ちぢこまる。
つき刺さるような少年の孤独と困惑とを、フヒトは、文字通りに肌で感じていた。影響を流すことも忘れて、立ちつくす。
(わかって、いたのに。この子は、とても弱いから、簡単に逃げる。見ないふりをして、気づかないふりをして、すぐに問題を先送りにする)
へらへらと笑うその裏で、なにを感じて、なにに苦しんでいるのか。
フヒトには、探りきれない。
根本的に、[史記]は、そういったものにうとい。
けれど、探らなければならなかったのだ。追いこまれて逃げ場をうしなう前に、その芽を摘みとらなければならないのだ。
もろく不安定な来訪者が、壊れてしまわないためには。
――仮にも、[調停者]から直々に、監査役を任じられているのだから。
こわばっていた肩の力をぬいて、フヒトはかけるべき言葉を探す。
安っぽいなぐさめを投げることは簡単だけれど、……それよりも先に、伝えるべきことがあると、気づいた。




