[3] 求められるモノ、られないモノ
「く、ず……れる?」
ただ、目をみはることしか、できない。
ヒジリの言葉を、うまく咀嚼できないまま、フヒトは立ちつくしていた。
ユ=イヲンが、くり返し伝えてきた。あの、意味不明な言動の根底にあったのは、まさか、この警告なのか。
そんなはずはない、と打ち消しながら、フヒトの脳裏には、ニィ――と口の端をつり上げる[破戒者]の姿が、浮かんでは消えていく。
混乱のさなかに突きおとされたフヒトをおいて、ヒジリは柵をのりこえる。
「ゆ――ヒジリさま!」
かるがると二階から飛びおり、柔らかな草地にひざをついたヒジリが、屋上を見上げる。
これだけの距離をあけてなお、強さをうしなわない深緋のまなざし。その、毅然とした輝きに、フヒトは気圧される。
「っ……ユ=イヲンと関連があるんですか!? 崩れるって、いったい、なにが――」
「少しは自分で考えろ」
凛とした声音が、大気を揺らす。柵から身を乗りだした体勢のまま、フヒトは固まった。
痛んだ木材が、ギシリ、ときしむ。
「フヒト。お前は、読み手を待つだけの古ぼけた書物か? なされるがまま記録を書きこまれるだけの媒体か? ――自覚しろ。お前は[史記]でありながら『書』じゃあない」
ヒトの王、[勇聖]が、きびしく叱責する。
階下に立つヒジリを見下げながら、まるで逆転した感覚を、フヒトはいだいていた。
為政者たるモノのはなつ存在感を前に、高低差など、意味をなさないことを知る。『王』が踏みしめる土地は、ただそれだけで高みを感じさせた。
(これが、学都を統べるモノ――)
ぞくり、と肌があわだつ。
フヒトの反応など意に介さず、ヒジリは、不遜に笑う。
「お前には、どちらに属した感覚もないだろうが、厳密に言えば光の眷属だ。リ=ヴェーダが認めた価値を、なぜお前自身が認めない?」
『万物を駆り立てる烈火』と称えられた、深い深い焔のまなざしが、容赦なくフヒトを射ぬいてくる。
逃げも甘えも許さないと、なによりも雄弁に、その瞳は語る。
セカイは、とても精巧で、残酷。――いつか、ユ=イヲンは、[風織]に告げた。まさに、その通りだ。
性能の優劣はあれど、民は、みな、学都というセカイを構成する、換えのきく歯車の一に過ぎない。
この地では、必要とされるモノも、されないモノも、すべてが『理』によって定められた、そのままに存在するのだから。
そして、ときに無価値なモノを見極め、切り捨てることもまた、【支配】する権利を与えられた『王』の義務なのだということを、フヒトは思いだしていた。
「……僕が存在しなくても、学都は予定調和をたもつでしょう。そうした意味で、僕は……かぎりなく無価値だ」
そう。異物たる『来訪者』と、おなじように。
震え声で反論したフヒトを、ヒジリは鼻で笑った。
「それがなんだ? [史記]。もとより、その唯一絶対の価値は、リ=ヴェーダの手元に置かれることによってこそ生まれるものだ」
きっぱり、と言いはなったヒジリは、大きく伸びをすると、身体の向きを変えた。深緋の瞳が、それる。
プレッシャーから解放されたフヒトは、はぁ、と深く息をついた。
(そんなの、僕の存在価値の低さには、なにも関係しないのに)
ぐったりと、香木の柵に身をもたせかけたまま、特異職の住まう別棟へと足を向けたヒジリの背を見送る。
――寄り道は、これで終わったものだとばかり、思っていた。
「[史記]。肝に命じろ。ただそのひとつで、お前の存在は、他者を軽く凌駕するのだと」
ふい打ちでふり向いたヒジリが、最後に残していった言葉に、フヒトは度肝を抜かれた。
その真意を問うよりも早く、森に消えてしまった、白兎。
彼の後を追うべきか悩んで、フヒトは、先にアリスを捕まえるべきだ、という結論にいたった。




