第一の邪道 文字
その頃、言葉は人の身体から離れることができなかった。
獣の棲む谷を知る者が死ねば、その谷への道も死んだ。毒のある草を見分ける老婆が息を引き取れば、次の春には、誰かが同じ草を口にした。隣の谷の一族へ何かを告げたければ、山を越え、川を渡り、自分の口で話すしかなかった。途中で獣に喰われれば、その言葉もまた、獣の腹の中で途絶えた。
言葉は声となって生まれ、耳へ入り、記憶の中で少しずつ形を変えた。
夜、人々は洞窟の火を囲んだ。燃えているのは獣の脂だった。黒い煙が岩の天井を這い、その下で、昨日の狩りが語られていた。
「獣は三頭だった」
「五頭だ」
「槍を投げたのは俺だ」
「お前は木の上にいた」
「最後に仕留めたのは、ほにだ」
「ほには穴に落ちていた」
「落ちておらん!」
声が岩を打った。火の粉がわずかに揺れ、子どもたちが一斉に洞窟の奥を見た。
そこに、一族の族長ほにが立っていた。
ほには一族で最もよく響く声を持ち、最も巨大な獣を倒し、何より、岩壁を埋め尽くす絵を描く男だった。
「獣は四頭だ! 俺は穴へ落ちたのではない。獣を誘い込むため、自ら入ったのだ!」
「出られなくなっていた」
「黙れ!」
ほには火のそばに落ちていた黒い炭をつかむと、岩壁へ向かった。
「口で伝えるから、話が変わる」
太い腕が岩肌を走った。黒い線が幾重にも重なり、盛り上がった背が現れる。地を踏み砕く四本の脚。人の腕ほどもある爪。振り下ろされる前脚の下で、槍を構えた狩人たちが獣を囲んでいた。
火が揺れるたび、熊の背もまた上下した。
狩りに出た者は、もう一度その場へ引き戻された。爪に裂かれた男は、古傷を無意識に押さえた。熊を見たことのない子どもは、母親の獣皮をつかんだ。
ほにの絵には、獣の臭いがあった。地を蹴る音があった。槍を握る者の恐れまであった。ただ巧いのではない。ほにの絵を見た者は、そこに描かれた物語から逃げることができなかった。
「見ろ」
ほには壁画の前で胸を張った。
「これが物語だ」
それから狩りが終わるたび、ほには壁へ描いた。春の大鹿。夏の熊。秋の猪。氷の川へ落ちた子どもを救った女。洞窟の奥は少しずつ、一族の記憶で満たされていった。
誰も、ほにより鮮やかに物語を残せる者はいなかった。その息子でさえ、父の絵を描こうとはしなかった。正しくは、描けなかった。
何度試しても、骨の上の熊は犬のようになり、石の上の鹿は脚の多い虫になった。息子は父が描いた熊を、よく見上げていた。自分には、あんな熊は描けない。そのことを、誰よりよく知っていた。
だから息子は、熊そのものを描くことを諦めた。熊だと分かるものだけを残そうとした。小さな石や獣の骨を拾っては、尖らせた刃で細い傷を刻んだ。
ある日、息子は一本の骨を父へ差し出した。
「父さん。見てください」
骨には、いくつかの小さな印が並んでいた。
「これは熊です」
ほには骨を目の高さまで持ち上げた。
「小さい」
「印ですから」
「熊はもっと大きい」
「熊そのものではありません。熊がいると伝えるための印です」
「牙も爪もない」
「熊だと分かればいいんです」
ほには眉間へ深い皺を寄せた。
「これでは大きい熊か、小さい熊かも分からん」
息子は洞窟の奥へ目を向けた。父の熊が、岩壁いっぱいに前脚を振り上げている。
「父さんの熊の方が、ずっと立派です」
「当たり前だ」
「見れば、どれほど大きかったかも分かります。何人で囲んだかも、どこへ槍を刺したかも分かる」
「そうだ」
「でも、見るにはここへ来なければなりません」
ほには答えなかった。
息子は骨の上の小さな熊を指でなぞった。
「これは父さんの絵ほど見事ではありません。でも、持って歩けます」
「持って歩ける熊など、気味が悪い」
「文字というらしいです。最近、東の一族で使う者が増えています」
すでに若い者たちの間では、骨や石に文字を刻んで知らせを交わすことも珍しくなくなっていた。ただ、ほにはそれを見るたびに顔をしかめた。
「流行りものか」
ほには露骨に顔をしかめた。
「ならば、なおさら信用できん」
息子は骨に刻んだ印を一つずつ指した。
「熊はこれです」
「痩せている」
「刃はこれ」
「欠けている」
「肉はこれです」
「腐っているように見える」
「人はこれ」
「腕がない」
「簡単でいいんです」
「邪道だ!」
ほには骨を息子へ突き返した。
「物語とは、遠くから見ても腹に響くように描くものだ。こんな小さな傷に、魂などない」
「でも、遠くへは運べません」
「運ぶ必要などない。見たい者が来ればよい」
ほには立ち上がった。
「ちょうどいい。文字がどれほど愚かなものか、皆へ教えてやる」
「皆に?」
「一週間後、ここら一帯の者を集める。絵を描ける者が増えれば、残せる物語も増える。俺が教える」
「どうやって知らせるんです」
「絵で知らせるに決まっている」
翌朝、ほには洞窟の入口へ案内を描いた。大勢の人間。中央で両腕を広げる自分。空には太陽。足元には一頭の鹿。
集う人々の顔には喜びがあり、中央のほには力強く天を仰いでいた。鹿の毛並みまで丁寧に描かれている。物語として見るなら、それは見事な絵だった。
ほには岩壁から数歩下がり、満足げにうなずいた。
「完璧だ」
一週間後、洞窟に現れたのは三人だった。
一人は、たまたま近くを通りかかっただけだった。もう一人は、壁の中央で両腕を広げるほにを、何者かに襲われ助けを求めている姿だと思い、槍を携えてやって来た。
最後の男は妙に満足そうだった。仕留めた鹿の脚を握り、洞窟の床へ赤い筋を引いていた。
「なぜ伝わらん!」
ほには激怒した。
「太陽も、人も、鹿も描いたではないか!」
鹿を持ってきた男は、誇らしげにうなずいた。
「鹿は分かった」
「そこだけではない!」
ほには次の満月の夜、もう一度集会を開くことにした。昼間は狩りや採集に出ている者が多い。ならば、皆が戻る夜に集めればいい。
今度は前より多くの人を描いた。空には岩壁の端まで届くほど大きな満月を描き、自分の両腕も、群衆を抱え込むほど長くした。
鹿は消した。
「これなら間違えん」
ほにが眠ったあと、息子は洞窟の入口へ向かった。
月明かりの下で見る父の絵は、やはり見事だった。人々は生きているように肩を寄せ、中央のほには、今にも岩壁から声を響かせそうだった。
息子はしばらく、その絵を見上げていた。
父の絵を消すつもりはなかった。父に勝ちたいとも思わなかった。ただ、その絵が伝えられないものを、隣へ添えたかった。
息子は壁画の隅へ、小さく文字を刻んだ。
『次の満月の夜、北の洞窟に集まれ』
次の満月の夜、北の洞窟には、百人を超える人々が集まった。
入口からあふれるほどの群衆を前に、ほには大きくうなずいた。
「見ろ。やはり絵には力がある」
息子は何か言いかけた。
違う。
皆をここへ呼んだのは、父の絵ではない。壁の隅に刻んだ、たった一行の文字だ。
そう言えばいい。ずっと父に否定されてきたものが、初めて父の絵に勝ったのだ。少しくらい胸を張ってもいいはずだった。
けれど、息子は口を閉じた。
父は群衆を眺めていた。熊を仕留めたときよりも、巨大な壁画を描き上げたときよりも、うれしそうな顔をしていた。
息子は洞窟の壁を見上げた。そこには、自分が幼い頃から何度も見てきた父の熊がいた。黒い線だけなのに、今にも岩壁から飛び出してきそうだった。
自分には、あんな絵は描けない。たぶん、一生。
それが悔しくて文字を始めたわけではない。そう思っていた。けれど、本当にそうだっただろうか。
「どうした」
ほにが振り返った。
「いえ」
息子は父の熊と、壁の隅に刻まれた自分の文字を見比べた。
「父さんの絵は、やっぱりすごいですね」
「当たり前だ」
ほには得意げに胸を張った。
息子は少しだけ笑った。文字のことを言い出す気には、なれなかった。
ほには群衆の前へ立ち、文字へ頼る者の愚かさを二時間にわたって説いた。
「物語とは絵だ! 声だ! 壁いっぱいに描き、腹の底から叫べ! 小さな傷に魂などない!」
演説が終わると、前の集会で鹿を持ってきた男が、洞窟の外で肉を焼き始めた。脂が火へ落ち、白い煙が夜の空気に混じった。
ほには眉をひそめた。
「今回は鹿を描いておらんぞ」
「前に、皆で食べた」
「それとこれとは別だ」
「食べないのか」
ほには煙の向こうで焼ける肉を見た。
「食べる」
誰も異を唱えなかった。
肉は前よりもうまかった。
それから長い月日が流れた。
文字を使う者は増えていった。狩りの日取りも、獣のいる場所も、骨や石に刻まれ、遠くの一族へ運ばれるようになった。
ほには文字の刻まれた骨を受け取るたび、しばらく裏表を眺めたあと、必ず息子に読ませた。知らせの通り獲物が見つかっても礼は言わず、「絵なら熊の大きさまで分かる」とだけ付け加えた。
それでも、骨を捨てることはなかった。
ほには年老いても、壁へ絵を描き続けた。腕の力は弱くなったが、描かれる獣の迫力は少しも失われなかった。洞窟の奥には、ほにが見た一族の歴史が残っていた。
ある日、ほには新しい岩壁の前で、長いこと腕を組んでいた。やがて、息子を呼んだ。
「おい」
「何ですか」
「俺の考えも、後の者へ残しておこうと思う」
「絵にするんですか」
「絵にはした」
ほには岩壁を見上げた。
人々が小さな文字を囲み、その上から巨大な岩が落ちている。傍らでは、ほにらしき男が両腕を広げて叫んでいた。
「だが、どうも『文字を使うな』には見えん」
息子は壁を眺めた。
「父さんが、人々を襲っているように見えます」
「やはり、そうか」
ほにはしばらく黙った。やがて、岩壁から目を離さないまま、低い声で言った。
「その……文字というものでは」
「はい」
「『文字を使うな』とは、どう刻む」
息子は笑わなかった。あの熊を見上げるときと同じように、静かにうなずいた。
ほには何度も間違え、そのたびに怒鳴り、また最初から刻み直した。やがて誰よりも深く、岩壁いっぱいに響くような一文を書き上げた。
『文字を使うな』
その横には、集会を表す人々の絵と、なぜか一頭の鹿が描かれていた。
現在確認されている、人類最古の文章である。
なお、綴りは息子から聞いた。




