堅忍不抜:ベイルスレイブの夏 地獄の始まりは、一本の教鞭から
だいぶ先まで書き溜めができたため本日は、20時10分も投稿いたします。
どうぞ1読、お楽しみください。※8月8日まで2回投稿を実施いたします。
あと4日……頑張ります
よろしければ感想やポイントなど頂けるととても励みになります。
春の終わりの風が、容赦なく演習場の砂埃を巻き上げていく。
肌を撫でる空気は、汗の匂いと、どこか張り詰めた鉄の匂いが混ざり合っていた。
整列した俺たち合同課程の一年生たちの前に、上級教官がゆっくりと歩み出る。
その佇まいだけで、騒がしかった場が水を打ったように静まり返った。
いつもなら怒号を飛ばす教官が、今日はやけに静かな声で口を開く。
「――今日は、単純な話をしよう」
その一言で、周囲の空気の温度が一段下がったような気がした。
隣に立つランドの背筋が、ビシッと不自然なほど伸びる。さやかも緊張した様子で、小さく息を呑んだ。
「最大限の準備をして、最高の布陣を敷き、最高の位置を取れたとしても――なお、予想外の事態は起きる。そして、一瞬にして窮地に立たされる」
教官の鋭い眼光が、生徒一人ひとりの顔を舐めるように巡る。
「それが戦場だ。それが、君たちがこれから嫌でも向かうことになる場所だ。魔術の構築が狂い、連携が崩れ、あらゆる『想定』が瓦解した時、最後に君たちを救うものは何か」
ごくり、と誰かが唾を飲み込む音が聞こえた。
誰もが、高位の防御魔術だとか、特別な魔道具だとか、あるいは仲間との絆だとか、そういう高尚な答えを期待した。
教官は不敵に、そして確信に満ちた笑みを浮かべて言い放った。
「――筋肉だ」
「……え?」
ランドが、間抜けな声を漏らした。
張り詰めていた空気が、一瞬にしてフリーズする。
ミナトは目を見開いて教官を見る。
(おい、今なんて言った? 筋肉?)
教官の表情を変えることなく、その目は力を持っていた。
「鍛え抜いた肉体こそが、最後の最後の瞬間まで裏切らない、唯一無二の相棒だ。この演習場において、君たちには『自らの肉体を信じられる』ようになってもらう」
教官の熱弁は止まらない。
「誤解するな。お伽話に出てくる伝説の勇者のような、岩をも砕く人外の肉体を手に入れろと言っているわけではない」
そこで教官は言葉を区切り、ふっと視線をこちらに寄越した。
ミナトと少し離れたところに立つ春日井陽菜は、まゆをぴくりと動かす。
「……まあ、中にはその領域に近づけそうなバケモノもおるがな」
その瞬間、クラスメイトたちの視線が一気にはるなと陸斗に集まり、ざわめきが広がった。
はるなは表情一つ変えずに前を見据えている。陸斗は少し顎を引いて、口角が上がっている。
ミナトは、二人を見ている。
(ま、そうだよな、二人とも実技で抜群だ、比べて俺は平均……くっそ)
ざわつく生徒たちを黙らせるように、教官はごつい拳を目の前で握りしめる。
「肉体を限界まで追い詰めろ。そして己の“死線”の境界を知れ! そうすれば、将来やってくる本物の危機が、ただの『想定内』に変わる」
教官の言葉が、今度は重く、鼓膜を震わせた。
「もう一度言う。友が倒れ、武器を失い、魔力の光を失っても――最後まで頼れる相棒とは、筋肉だ!」
熱い。泥臭い。
けれど、抗えない説得力がそこにはあった。
「……名言だ、胸に刻んどこ……」
ランドが小声で感動したように呟いている。
ミナトがランドとさやかを見ながら、目を伏せる。
(お前は感化されやすいな、だが、正解だ、日々筋トレに励んでいる俺はわかる!確かに筋肉は必要だ、30回が60回に増えたとき、無性に嬉しかった、お前もこっちにくるか?優しく教えてやるぞ?)
さやかは「筋肉……筋肉……」と青い顔で震えていた。
(うん、運動苦手だもんな、さやか、無理は良くない。キツイのは俺に任せとけ)
「では――」
教官が容赦のない笑みを浮かべ、腰の笛を口に咥えた。
「――はじめ!」
ピィィィィィッ!!!
鼓膜を突き刺すような金属音が演習場に響き渡る。
それと同時に、地獄の春の特別訓練が幕を開けた。
◇
「走れぇッ! 考えるな! 動け! 止まった瞬間に筋肉は死ぬと思えぇぇッ!」
演習場に、教官の鼓膜を破らんばかりの絶叫が響き渡る。
腕立て、スクワット、体幹、負荷走――息が切れ、視界が歪み、足が笑い、腕が生まれたての小鹿のように震える。
春の終わりの生ぬるい風が、舞い上がる砂埃と、若者の体から噴き出す汗の匂いを容赦なくさらっていった。
隊列は、はるな、陸斗を先頭に、ランド、琉生、さやか、おと、の順に並び、ミナトはその後ろにつけていた。
(ちょっと、さやかさん、おとさん風上に立つのやめてくれるかな、変なの湧きそうだ)
だが、誰も足を止めない。いや、止められない。
「――筋肉、か。確かに、最後に残るのは『形(骨格と肉体)』だ」
ミナトは、乱れのない呼吸を維持しながら、淡々走っている。
(これは限界を知るための走りだ、限界をしる、だから、苦しむために走る、だが、ただ苦しめるだけではもったいない、型と反応を鍛えるために、出来るだけ持続させる、そう、ぬるーッと走るんだ。なんだ、教官が妙に眉間に皺をよせてこっちを見てるな。だが、愛想は振り向かない、そんなことをしたら呼吸が乱れるッ)
教官は、さぼっていないかどうか各人の走りをみていた。
「っしゃあああ! まだいける! まだいけるぞおおお!」
その横を、勢いよく前に飛び出していく影があった。立花ランドだ。
お世辞にも綺麗とは言えない雑なフォームだが、その野生的な馬力だけで進んでいく。
(あの顔はきっと、筋肉を鍛えるのが癖になりそうとか思っているな?だがな、俺はもう知っている。筋トレは癖になる!毎夜毎夜、お前らに笑われてからずっと鍛えてるからな!)
「お前、まさかもう筋肉信者に洗脳されてないか!?」
並走する井上琉生が、引きつった笑いでツッコミを入れた。
「うわ、きっつ……! でも、ランドにだけは負けたくねぇ!」
陸斗は前衛の意地を見せてきている。
「楽しんでねぇよ! ……いや、ちょっと楽しい!」
「完全に洗脳されてんじゃねぇか!」
そんな男子たちの喧騒から一歩引いたところで、黙々と、しかし確実に一定のペースを刻む女子たちがいた。
「きつい……。でも、まだ……いける……。ミナトくんも、ランドくんも、みんな頑張ってるんだから……!」
佐伯さやかだ。
額に光る汗が、夕暮れの光を反射してきらめく。運動は得意な方じゃないはずなのに、彼女の瞳には強い光があった。その健気な姿勢は彼女の華奢な体も相まって、張り詰めた彼女の横顔になんとも言えないその美しを出していた。一緒に走る男子たちが時折、視線を奪われていた。
(もう少し体形が分かりにくい服を着てくれた方がいいな、時折こっちの足がもつれそうになる)
だが、その前方には、「異常」が走っていた。
(……なんて余裕をみせるんだ、それじゃあ、さぼってるって突っ込まれないか?)
先頭を行くのは、春日井陽菜。
このハイペースの中で、驚くべきことに、彼女の呼吸は、完全に一定のリズムを保ったままだった。無駄のないストライド。底が見えない体力。前衛の男子(陸斗とランド)たちは、依然として彼女の背中を見続けている。
「おい、嘘だろ……春日井、速すぎないか?」
「いや、あれは速いっていうか……なんか、体幹の『芯』が全くブレてないんだ……」
陸斗が荒い息を吐きながら、信じられないものを見る目で陽菜の背中を睨みつける。
「前衛の意地、見せてやるってんだ……! これくらい……普通、だろ……!」
強化系の魔術で肉体を補強しながら必死に追う陸斗だが、陽菜との距離は無慈悲に開いていく。
「は、はぁ……っ……! きつ……死んじゃう……!」
一方で、悲鳴を上げながらも必死に走る今度桜都の姿もあった。
(おと、きついだろ、きついよな、無理するなよ、俺も膝が笑っているんだ、座りたい……)
「がんばれ、今度さん! あと少し、あと少しだよ!」
隣で限界を迎えつつある北村朔太郎が、自分も青い顔をしながら桜都に声をかける。朔太郎は真面目すぎるがゆえに、倒れるまで絶対に止まらない危うさがあった。
「体が動かないと、後衛も意味をなさないからな。これは必要な訓練だ」
岡田悠真は、自分の役割を完全に理解した冷静な走りで、着実にペースを維持していた。痛みの怖さを知っているからこそ、彼は「走れなくなる恐怖」を避けるために最善を尽くす。
「筋肉……理屈は、わかる。でも、いくら何でも走りすぎじゃないか……?」
発動系の基礎体力がある守屋廉も、額の汗を拭いながら、自分のペースを乱さないように黙々と走り続ける。
「無理は、しない……。でも、絶対に止まらない……。これが、私のやり方だから」
渡辺陽葵は、最も小柄でありながら、完璧なペース配分で無駄な体力の消耗を避けていた。自分の限界を正しく見極めるその走り方は、ある意味で一番手強い。
「みんな……本当に、すごいな……。でも、僕だって……置いていかれたくない……!」
運動が苦手な佐藤新も、周囲の動きを必死に読み、一番走りやすい風除けのポジションを見つけながら、気力だけで足を動かしていた。
――そして。
この地獄の耐久走において、最も過酷な現実に直面している者がいた。
「ほいっ、っと。草原の走りは、なんだか単調だね」
走り始め、そのストレートな茶色の髪を流してまるで森の枝葉を渡るかのような、軽やかなステップで先頭集団に混ざっていたニーコス。彼女の身体は、森の中での生活で得た「瞬発的な跳躍」や「急激な加減速」に特化した、しなやかな体だった。
「おらぁああ、1500mを魔力なしで5分のペースを守れぇ、落ちてるぞ!!」
「まだ、10kmも走ってないぞ!」
教官が鬼の声をあげる。10kmは確かに走ってない。だが、6kmは走った、もう呼吸に血の味が混じってきている気がする。
そして、ニーコスだ――ここは遮るもののない、果てしなく平坦な、草原の演習場。
ただひたすらに、同じペースで、遅筋を酷使して走り続ける持続走。
ついさっき、ニーコスの身体に、急激な「終わりの瞬間」が訪れた。
「……あ、れ……? 体が、重……っ」
一瞬にして、体内の魔力と酸素が枯渇する。
さっきまでの軽やかさが嘘のように、ニーコスの足がもつれた。
「……っ……はぁ……っ……はぁ……っ……! 長い……! この道、長すぎる……!」
失速し、ずるずると最後尾に下がったニーコスは、ついに膝から地面に崩れ落ち、丸まるようにして座り込んでしまった。
(くっそ、俺も息が完全に上がってしまった、肺が焼けるように熱い。)
(……ニーコス、持久力に難ありか、ふふっ、それでも、可愛いな……!なんだ?背筋に冷たいものが……)
すぐ横を、淡々と走り抜けていく草原の生徒たち。
ニーコスは悔しそうに拳を握り、自分の無力さに抗うように、強く地面を叩いた。
教官の「草原の時間感覚を学べ」という言葉が、骨の髄まで染み渡るような痛烈な悔しさとなって、ニーコスの胸に刻まれる。
誰かが倒れ、誰かがそれを支えて立ち上がり。
誰かが限界の向こう側を垣間見、誰かが泣きそうになりながら、それでも泥に塗れた足を前に出す。
夕暮れの冷たい風が、彼らの汗と、熱気と、若さゆえの焦燥をさらっていく。
そのすべてを見下ろしながら、教官はさらに声を張り上げた。
「止まるな! 限界とは脳が作った“思い込み”だ! 筋肉は裏切らん、裏切るのはいつも君たちの心だ! 走れ! 倒れるなら前に倒れろ! 立って、また走るんだッ!!」
「そうだ、重要な事を伝えておこう。鍛えた筋肉の痛みにはよほどのことが無い限り、回復魔法は使うな。強化される前の状態に回復してしまうからな。分ったら走れ!」




