一知半解:モノマネが妙に正確 芸の限界、境界の距離
宿舎の自室。木製の椅子が冷たい音を立てて俺の身体を受け止めると、遠くの浴場から微かな水の音が、夜の闇に溶け込むように聞こえてきた。
つい先ほどまで一緒にいたランドたちの、あの夕方の他愛のない笑い声の残響が、部屋の隅に少しだけ澱んでいる。
けれど、俺の顔に笑みはなかった。
谷底の夜は急激に冷え込む。短い夏の前触れであるこの時期こそ、昼夜の寒暖差は凶器のように牙を剥く。だからこそ、今、目の前で静かに立ち上る湯の湯気が、たまらなくありがたかった。
「お帰りなさい、ミナト。お疲れ様でございました」
お盆に温かい湯を載せて、リーンが音もなく歩み寄る。
「ただいま、リーン。……今日も、やっぱり軽かったよ」
湯飲みから広がる熱を手のひらで受け止めながら、俺はぽつりと言葉を零した。
「軽く扱われたと、ご自身で感じられましたか?」
リーンの問いかけに、俺は少しだけ言葉を重ねる。自分でも、この喉の奥に引っかかった澱を、誰かに吐き出したかったのかもしれない。
「僕の解説は、多分、当たっている。……なのに、それだけだ。『あいつにはやれない』と思われている。頭で分かっていることと、実際に身体を動かすことは別だって、最初から決めつけられているんだ」
「当たるのは、ご主人様の確かな才能です」
リーンはいつもの穏やかな、けれど芯のある声で言った。
「ですが、そのように形に見えない才能というものは……どうしても『芸』として消費されやすい性質を持っています」
「……芸を見せるのは、嫌いじゃないよ」
俺は湯気の向こうをじっと見つめた。
「でも、芸で終わってしまえば、その先がない。ただの『おもしろい見世物』で終わる。次がないのは――」
「はい」
リーンは小さく頷いた。その瞳が、暗がりのなかで一瞬だけ冷たく光る。
「このベイルスレイブにおいて、次がないというのは、そのまま死を意味します。非常に困りますね」
「……解説だけの、座学馬鹿、か」
俺の指先が一瞬だけ止まり、落としそうになった器を小さく持ち直した。
(俺の解析は、外れていない)
(けれど、外れていないのに、周りからはどんどん価値が軽くなっていく)
(……でも、ここで言い返したところで、もっと軽くなるだけだ。笑われる……できないやつで言葉が多いのは、笑われる)
「……次は、届く言葉で、外さない」
「ミナト」
リーンが優しく、宥めるように声を紡ぐ。
「急ぎ過ぎるのも良くありません。ミナトなら、いつか必ず、やり遂げられます。それよりも……」
ふっ、と。
それまで慇懃だったリーンのまとう空気が、一瞬で『護衛(同伴者)』としてのそれに切り替わった。
「主様」
その呼び方に、俺の背筋がわずかに伸びる。
「さやか嬢……距離が、近うございます」
言葉遣いは丁寧そのものだったが、その声のトーンは、先ほどまでの冷気よりも明らかに硬かった。
「同伴者として、今後の彼女との『距離の置き方』だけは、今ここで明確に決めておきたいのですが」
少しの間。
俺はリーンの少しだけ尖った視線を受け止めながら、そっと尋ねた。
「……気になる?」
「はい。極めて」
「ただの、学友だよ。それ以上でも以下でもない」
「――承知いたしました」
俺の言葉を聞いた瞬間、リーンの肩からほんの少しだけ余計な緊張が抜けた。
「それがよろしゅうございます」
ほっとした様子を悟られまいとしているのか、その後の言葉はひどく短かった。
リーンは小さく咳払いをすると、話題を変えるように、けれど重要な情報を差し出すように目を細めた。
「ちなみに、ですが」
彼女は窓の外、昼間の演習場のあった暗闇へと視線を向けた。
「今日、訓練中にこちらを執拗に凝視していた、あの『剣士』の少女は……何かご存じですか?」
「……はるなのこと? いや、わからない。あの人がどうしてこっちを見てるのか、僕にもさっぱりなんだ。系統だって、向こうは前線の強化魔法で、僕はただの解析。まったく違うのに」
「そうですね」
リーンは首を傾げ、警告するように言った。
「他者から見られすぎるというのは、それだけで行動の導線が詰まります。ましてや、あの手の直感が鋭いタイプは、予想外の事を起しかねません。ただ……いえ、何でもありません。どうかお気を付けください」
俺は、小さく息を吐き出した。
声を大きくしてはいけない。
腹の奥底に燻る怒りを、肥大化させてはいけない。
感情を大きく表に出せば出すほど、この街の連中は、俺をさらに『軽い存在』として見下すようになるからだ。
ベイルスレイブの夜は、余計な音をどこまでも削ぎ落としていく。
言葉を増やせば増やすほど、自分の喉が詰まっていくような、そんな夜の気配。
「明日も……ちゃんと戻れる形で」
俺は、自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。
「はい」
リーンが、その言葉を両手で受け止めるようにして、静かに頭を下げた。
「必ず、戻れる形で」
揺れていた湯気がついに消え去り、部屋は完全な静寂へと沈んでいった。
――。
扉が閉まり、リーンの気配が完全に遠ざかる。
静まり返った暗闇の中、俺はゆっくりと立ち上がった。
「……いや、でもやっぱり腹が立つ!」
ぽつりと、誰もいない部屋に本音が零れた。
さっきまでの、あのすました「達観したポーズ」はどこへやら、胸の奥ではドロドロとした悔しさがしっかり燃え残っている。言い返さなかったのは合理的判断だが、それとこれとは話が別だ。そう別だ!別なんだ!
こういう時にやるべきことは、昔から一つしか知らない。
俺はベッドの脇に座り直し、自らの手のひらを見つめた。
息を吸い、意識の焦点を極限まで絞り込む。
身体の内側で、行き場を失っていた「怒り」の感情をじわじわと熱量へ、そして純粋な魔力へと変換していく。
手のひらの上に、小さな、けれど驚異的な密度を持った火炎魔法の触媒を形成する。発動はさせない。限界の寸前でせき止め、その制御をただひたすらに維持する――地味で、果てしなく、そして最も精神を摩耗させる典型的な基礎訓練。
冷え切った自室の中で、俺の手のひらだけが、小さな、不格好な熱を放ち続ける。
「……見てろよ、座学馬鹿がお前らを見返してやる!」
チリチリと皮膚が焼けるような熱気と、自らの意地だけを頼りに。
ミナトは誰も見ていない暗闇の中で、一人、その牙を研ぐように魔力の膜を重ね続けていた。




