一知半解:解説が妙に当たる 気と影、境界線の夜
宿舎の自室。
使い込まれた木製の椅子に身を預けると、遠くの浴場から微かな水音が響いてくる。
窓の外はすでに完全な闇に包まれていた。谷底の夜は、すべての音を削り落としていく。遠くで誰かが荷物を片付ける微かな音だけが、ろ過されたように静かに残る。
今日、ジン教官から、そして仲間たちから投げかけられた言葉の数々が、喉の奥に冷たいトゲのように引っかかっていた。
机の上に置かれた、温かい湯の湯気だけが、暗い部屋の中でゆっくりと立ち上っている。
「主様、おかえりなさい。……お疲れ様でございました」
湯を置きながら、リーンがいつもと変わらない丁寧な所作で俺を迎えてくれた。
その声を聞いただけで、張り詰めていた肩の力が、ほんの少しだけ抜けるのを感じる。
「ただいま、リーン。……あのさ、今日、学校で『当たるだけのやつ』って言われたんだ」
リーンはすぐには言葉を返さなかった。
ただ、差し出された湯飲みを見つめ、それから俺の顔を静かに見つめる。
「……当たる、だけ。そう言われて、ご主人様の胸は軽くなりましたか?」
自問自答するように、彼女は小さく首を振った。
「いいえ。――ならないですね」
「……そうだね」
俺は小さく笑いかけようとして、けれどその気力も湧かずに途中でやめた。
「当たったのに、心は軽いどころか、むしろ重いくらいだ」
「当たるのは、ご主人様の持つ確かな才能です」
リーンの声には、一点の曇りもなかった。
「……ですが、この世界において才能とは『値札』になります。他人が、勝手に、その価値を査定して貼り付けるためのものですから」
誰かが勝手に貼る、値札。
俺は、ジン教官のあの獰猛な目を思い出す。
「……危険度は被害。位階は規模。被害を測り、規模を当てる」
俺が今日叩き込まれたその基準を口にすると、リーンの美しい顔立ちが、ほんの一瞬だけ、血の気を失ったように青ざめた。
彼女は、立ち上る湯気をじっと見つめる。その視線が、いつになく落ち着きなく泳いでいた。
「……ご主人様」
「ん?」
「あの、ジンという教官ですが……」
リーンの呼吸が、一拍だけ、不自然に浅くなるのを俺の解析眼は見逃さなかった。
「あの男の近くにいると……嫌な『静けさ』がするのです」
「静けさ?」
「はい」
リーンは自らの胸元に細い手を当て、絞り出すように言った。
「近づくだけで……こちら側の存在(音)が、薄く、削り取られていくような感覚。……私が、そう感じただけかもしれませんが」
「……いや、僕もそう思うよ。すごかった」
俺は、あの午後実技で見せつけられた『深淵』を思い出す。
「いくつもの多重魔術の膜が、狂いなく重なり合っていて……。魔力に焦点を合わせようとすると、あまりの深度に、逆に男の姿自体が見えなくなるような錯覚すら覚えた。父様にも、兄さんにも……実家の家族の誰にも、あんな底の知れない気配は感じたことがない」
俺の言葉を聞き、リーンは慎重に言葉を選ぼうとした。しかし、その端々から、どうしても隠しきれない強い感情が漏れ出てしまう。
「……あれは」
リーンの声が、硬く、冷たいものに変質する。
「ただ『強い』という括りの中に入れて理解しようとすれば、必ず間違えます。……分かり得ない怪物には、近づいた時点で、こちらの負けなのです」
「……リーン?」
彼女の尋常ではない様子に、俺が思わず問いかける。
リーンはハッとしたように表情を戻し、いつもの慇懃な態度を取り繕うように頭を下げた。
「……失礼いたしました。取り乱しました、主様」
けれど、俺を見るその瞳には、かつてないほどの切迫した光が灯っていた。
「どうか、明日からも、ご自身の歩調を『詰まらせる』ことのないよう。……もしあの男に呼び出されても、すぐには一人で行かないでください。必ず、私が同行いたします。……お願いですから、一人で行かないで」
絞り出すようなリーンの懇願。
俺は揺れる湯気を見つめ、自分の右手を一度だけ強く握り、それからゆっくりと開いた。
結局、俺にできることなど、あの化かし合いの中で生き残るための「形」を整えることだけだ。自分の非力さを実感し、少しだけ肩の力を落とす。
「……うん。分かったよ」
短く答えると、リーンはようやく、胸に溜めていた息を深く吐き出した。
「はい」
安堵が、彼女の顔に広がる。
「距離は、こちら側で維持いたします。……今日のように、適切に」
ゆらりと湯気が揺れて、その輪郭を失い、消えていく。
部屋には、リーンの残した最後の言葉だけが、重く、静かに残されていた。
外の水音は、夜の更けるとともに小さくなっていく。
ここは、英雄の「勝ち名乗り」ではなく、明日も生き延びるための「仕事」だけが静かに残る、谷底の街だった。




