08 安土へ
「……まったくもう、どうなることかと思いましたよ」
馬上、まつがむくれながら愚痴を言う。
一方のねねは、馬上、無表情に「相すみません」と返した。
まるでちっともすまないと思っていないという感じである。
「……は?」
まつは怒った。
ちなみに今は、瀬田城の山岡景隆に馬を提供してもらって、ねねもまつも、安土へ向かって騎行している最中である。
ねねもまつも、武将の妻であるため、馬に乗ることは易いことである。
「大体、山岡どのがああいうお人柄だったから良かったものの、もっと、陰険奸譎な悪党だったら、どうされるおつもりですか?」
「いや、ああいうお人柄だったから、良かったと思う」
「……はあ?」
話にならない。
まつは歎息した。
あれから。
山岡景隆は、(まつがもう一度駄目押しして)瀬田の唐橋を焼くことを確約してくれた。
そして二人は、そのまま「安土へ急を知らせる」ことを頼まれ、こうして駿馬二頭と共に、安土へ向かっている。
そしてまつは虎口を脱したことを喜んでいたが、だんだんと、ねねの行き当たりばったりというか適当なやり方に腹が立ってきたというわけだ。
「そも、十日。十日って何ですか? どこをどうやったら、秀吉どのが中国からわずか十日で京畿に返してくるそろばんになるの?」
「いやそれは適当で」
「適当?」
ねねにしてみれば、山岡景隆がある程度びっくりして、それでいてわかりやすくて、ひょっとすると冗談と捉えられる感じで、決めたかった。
そう思うと、自然に両の手のひらを広げて、「十日」と口が開いたという。
「……そんなんで、よく山岡どのも決心されましたねぇ」
「……山岡どのも、本音は橋を焼きたかったからじゃ」
「え?」
まつの驚きの表情に、ねねは手綱を繰りながら説明した。
山岡景隆は、本能寺の変について、ほぼ正確な情報を得ていた(と思われる)。京の北玄関を預かる身だ、そして自分が忠節を尽くす織田信長のため、どうすれば明智光秀に一矢報いることができるかも知っていた。
橋を焼くことだ。
だが、それをやると、光秀とあからさまに敵対することになる。
景隆は武士だ。
忠節を尽くすのも仕事だが、家臣たちを食わせるのも仕事だ。
そこへ、ねねたちがやって来たという訳である。
「……羽柴秀吉の妻女が、あそこまで言えば、十日で間に合わなくとも、何とかしてくれるだろう、そう山岡どのはそろばんを弾いたのじゃ」
最悪、ねねに騙されたと言い張れば、光秀に申し開きができる。
景隆は、そう踏んだのだ。
だから、光秀の使者が城内にいる状況で、あそこまでねねとまつの相手をしてくれたのであろう。
「……人間、本音は存外、最初から決まっていて、そうと後押しして欲しかったりする。人間は、そういう生き物」
ねねはそう言ってから、口を閉じた。
そういえば秀吉がそう言っていたことを思い出したからである。
何だかんだで、似た者夫婦か。
そう、まつに言われるのが恥ずかしかったからだ。
「それはさておき、安土へ」
いみじくもまつが今そう言ったとおりだ。
ねねは、まつがちがう話を持ち出したことにほっとしながらも、瀬田城を去るときのことを思い出した。
「一刻も、早う」
安土へ至らねばならない。
山岡景隆は、そうまくし立てて、半ば強引に、ねねとまつを馬に乗せた。
あとで思えば、明智の使者の介入の暇をあたえまい、という意思の表れだったのやもしれぬ。
ともあれ、安土に向かわなければならないのは事実だし、いつまでも瀬田城にいては景隆に迷惑がかかろう。
水の入った竹筒と、急ごしらえの握り飯をいくつか入れた筍の皮の包みを受け取り、ねねとまつは馬に鞭をくれた。
「…………」
今はただ、安土へ。
一心にそう思おうとするねねであったが、何故か、ある疑念が頭に取りついて離れない。
明智光秀は、何故、叛したのか。
そして叛した今、どうするつもりなのか。
……それについて考えれば。
答えを得られれば。
「もしかしたら、秀吉が、光秀に勝てるかもしれない」
「……え? ねね、何か言った?」
「……いえ」
今はまだ言えない。
その答えがはっきりとしないからだ。
ただ、田んぼの中の蛭のように。
川を泳ぐ鰻のように。
何か、蠢くものは感じる。
「……急ごう」
安土へも。
答えへも。
それが、ねねとまつの勝利への道だ。
*
「……何や、瀬田の唐橋を焼かれた? ホンマか!」
京。
光秀は、早くもこの町の事実上の支配者として、全国各地から来たご機嫌うかがいの使者と引見していた。
何名かの大大名の家臣との歓談をこなし、そしてようやく一息つくか、というところでこれである。
その時会っていた使者の目から見てもわかるくらい、光秀はおかんむりとなった。
「誰じゃ、瀬田の山岡景隆は、弟、景猶が明智光秀の寄騎やから大丈夫や言うた奴は? 出て来んかい!」
そこまで言ってから、ようやく使者と対面していることに気がついた光秀だが、別段、悪びれる様子もなく、「いやいや、瀬田の唐橋は元々焼こうと思とったんや。あそこは源平の昔から、いくさの場所やねん」とうそぶいた。
実際、源平合戦において、木曽義仲の臣、今井兼平が瀬田の橋の橋板を外し、源範頼の攻勢から守ったことがある。
使者はさようですなと如才なく相槌を打ち、そして去って行った。
「……よろしいのですか」
瀬田の橋、炎上の報を伝えた斎藤利三が冷めた表情でうかがうと、
「よろしいもよろしくないもない。聞かれたもんは、しゃあないねん」
光秀は行儀悪く足を伸ばして中空に上げて、そのまま拍手ならぬ拍足をした。
「しゃあけど、瀬田の橋を焼かれたんは痛いな……利三、浮橋で良え、二、三日で架けられるか?」
「……御意」
利三も、光秀の思うところはわかる。
織田信長の居城、安土城。
これを陥としてこそ、明智は織田を下剋上したと、満天下に訴えることができる。
また、信長の妻妾は置いておいて、少なくとも、城内に蔵われているという、金銀財宝は魅力だ。
「……兵らに恩賞を、目に見えるかたちで取らせるんや」
光秀は、足の指を曲げたり伸ばしたりしながら、その時ふと、気づいたことを聞いた。
「そういや、山岡景隆の瀬田城、ここに羽柴ンとこの妻女が居ったってホンマか?」
利三も、その未確認情報には接している。
何分、山岡景隆がうまいこと明智の使者とねねを会わせないようにしていたため、それはあくまでも未確認情報である。
「……ま、ええわ。どちらにせよ、長浜は取るつもりやからな」
この時、光秀がもっとも警戒していた相手は、実は柴田勝家である。
この、重代の織田家の家臣が、しかも猛将として知られる家臣が、戦略も戦術もなく、算を乱して、単純に南下してくることを警戒していた。
「……あの猪が、越後の上杉ぃと和して、そいでぐるっと回って来てみい。背後の上杉が襲いかかる間もなく、明智がやられる」
そこで光秀としては、安土を陥としたあと、そのまま余勢をかって長浜へおもむき、焼き討ちにする所存である。
「権六の奴ぁ、長浜や、あわよくば安土で兵糧やら金銭やら手に入れておきたいやろがぁ、その当てを外させてもらうわぁ」
光秀は愉快そうにまた、拍足をした。
そこを見計らったように、利三は懐中から、一通の書状を取り出した。
「殿、以前頼まれていた文の返事がきました」
「……見よう」
光秀は一瞬にして座り直し、利三の出した書状を押し戴いた。
そしておもむろにその書状を開き、しばらく黙って読んでいたが、不意に顔を上げた。
得意満面。
そんな顔だった。
「かかった。利三ゥ、お前の妹聟はやってくれたのう」
「……恐縮に存じます」
光秀は老人らしくない、機敏な動作で立ち上がり、早速に内裏に参上すると告げた。
「これで、これで織田の目論見は潰した。潰してやった。新しい征夷大将軍は、斯波なんぞではない、最初から、最初から、足利よ」
呵々大笑する光秀は、これこそわが世の絶頂だとばかりに、跳ねて、飛び上がった。




