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07 瀬田城

 瀬田城城主、山岡景隆は、元々は南近江の国人である。

 そのため、南近江を支配していた六角氏に所属していたが、そこへ織田信長が足利義昭を擁して軍勢を率いて近江に入って来た。

 六角氏は当然、信長に抵抗し、景隆もまた、抵抗した。

 信長は六角氏を撃破し、上洛それ自体は成功したものの、景隆はなおも信長に対して刃向かう意思を示した。

 ちなみにこのとき、義昭の喜びようは尋常でなく、信長にさまざまな褒美を与えようとした。


「副将軍の地位に、(足利家の家紋である)桐紋に二つ引二両を差し上げよう。ああ、あと御父(おんちち)(義昭は信長をこう呼んでいた)は、尾張のものであったな。では、尾張守護・斯波(しば)家の家督を……」


 だが信長は、それらの多くを辞退した。

 代わりに、堺、草津、大津の直轄の許可を求めた。経済優先の信長らしい申し出である。

 ただ、それだけでは義昭の体裁が悪いと判じたのか、自身は桐紋と二つ引紋を使うことし、斯波家の家督は嫡男・信忠に譲った。


「さて、これで草津と大津は織田家のものとなった……が、その近くにおいて、つまり南近江において、まだ、この信長に、従わぬ奴がいる」


 信長は、直轄となった草津、大津のある南近江において、未だに己に服属しない山岡景隆に、兵を差し向けて、景隆を撃破した。

 そして大和に逃げたものの、その大和は、織田家寄りの松永久秀の支配である。

 進退窮まった景隆は降伏した。


「ここまで抗ったということは、骨がある。気に入った」


 信長は、こういう男が好きである。

 わりとあっさりと許し、元の南近江に戻し、どころか、最重要地点である京の北の玄関、瀬田を任せるようになった。



「さような男を説得して、しかも信長さまから任されたという、瀬田の唐橋を焼かせる!?」


 まつは目を()いた。

 ねねの「橋を焼く」という案には一理ある。

 それで明智光秀の軍勢が近江に渡るのを止められるというのなら、それは途方もない大金星だ。

 だが。


「わたしたちはまだいい。本能寺にいた。されど、山岡どのは本能寺にいたわけではあるまい? だというのに、明智の謀叛を信じさせられるか?」


 ねねは黙して語らない。

 山岡家の番兵に従って、ただ足を動かして歩いている。

 しかし、まつの言葉に説得力があることは感じていた。

 光秀は早速に京を支配下に置き、箝口令(かんこうれい)()いた。

 そもそも、光秀の上洛にしてからが、森蘭丸が使いとして「信長さまの閲兵を受けよ」という命じたからだ、というのがもっぱらの京雀のうわさだ。

 光秀はこれに利して、「信長、京にあり」と信じ込ませておいて、各所、とくに近江を攻めるつもりであろう。


「まつ、静かに」


 ねねは目線は動かさずに口だけで言う。


「……そこまで分かっているのなら、明智方がもう、この山岡どのに使いを差し向けていても、おかしくはない」


 まつは口をつぐんだ。

 たしかに、あの手回しのいい光秀のことだ。

 この、京の北の玄関を(やく)す山岡景隆の元へ使者を回していることだろう。

 とっくのとうに。



「いやあ、まさかこんなところで羽柴どのの奥方と、前田どのの奥方と出会うとは、奇遇でござるな」


 山岡景隆は如才なく言い放った。

 相好を崩しているが、目が笑っていない。

 となると、ねねの読み通り。

 すでに明智の使いをこの瀬田城内に入れており、その耳に入ることも計算に入れてしゃべっているのだろう。


「山岡どのにおかれましては、ご機嫌麗しゅう」


 ねねは、くそ度胸ともいうべき胆力で、涼しい表情で山岡景隆に一礼して見せた。

 こうなるとまつも、やはり豪胆さを発揮して、ねねにつづいて見事な一礼を見せた。


「こたび、山岡どのにお会いしたいは、ほかでもございません」


 景隆が何か言おうとする前の先制攻撃。

 さすがに、あの羽柴秀吉の妻女だと、まつは舌を巻いた。


「山岡どの、瀬田の唐橋を焼いて下され」


 ……やっぱり駄目かと、まつはその場に突っ伏した。



「瀬田の唐橋を焼く?」


 言い間違いではないか。

 山岡景隆のその反問は、暗にそう言っているように思われた。

 あるいは、この場にいるかもしれない、明智光秀の使いにも、聞こえるように言っているのかもしれない。

 まつは煩悶する。

 たとえ、景隆が光秀の謀叛を信じたとしよう。

 それでも、瀬田の唐橋を焼くなどという選択肢は有り得ない。

 それをやったが最後、京近江丹波丹後を支配下に置く光秀との敵対を意味するからだ。

 たとえ信長の仇を討つにしても、今は面従腹背、光秀に唯々諾々と従うほかあるまい。


「山岡どのはもうお聞き及びかもしれませんが、信長さまと帰蝶さまが本能寺にて泊していたところを、明智がこれを襲撃、焼き討ちにされました」


 言った。

 まつは()()と顔を上げた。

 ことここに至ったら、仕方ない。

 たとえ山岡景隆がどう対応しようと。

 この、一大事件のことだけは伝えてやる。

 それでも駄目なら、この場でねねと刺し違えよう。

 不退転の決意でまつも、(しか)(しか)りとうなずいた。


「なんと」


 景隆は驚いた表情をしたが、それは用意されたような表情である。

 仮にも京の北玄関を預かる身、耳目はそれなりに張っているようである。


「……して、何ゆえに、ねねさまは拙者に瀬田の唐橋を焼けとおっしゃるのか」


 景隆の探るような目。

 それを受け、ねねはすっと目をつぶった。

 実は、何も考えていない。

 ただ、明智の大軍を近江に行けなくしてやれ、という思いだけだ。

 それぐらいは、童子にでも思いつく理屈である。

 でも、それをやると、景隆は明智と全面対決である。

 明智はまず、全力で景隆を潰すであろう。

 しかも、景隆の側には、それに対抗する術がない。

 逃げることはできるだろうが……。


「あ」


 ねねの目が開いた。

 その所作から、今、何かを思いついたなとまつは察した。


「山岡どの、山岡どのは、元は近江の六角の臣だと聞きますが」


「さようですが」


 ぐいと迫るねねに、若干、引き気味に景隆はのけぞる。


「……そしたら、橋を焼いたら城を捨てて、近江のどこかに隠れたらどうですか?」


「……はあ?」


 この女、何を言っている。

 景隆は今や、遠慮なくそんな顔をしていた。

 武士に向かって、しかも、忠誠を尽くす信長から拝領した城を捨てろだの、正気の沙汰ではない。


「正気です」


 ねねがまた、ずいっと迫る。

 ねねは美人なのだが、目力が強く、景隆からすると、ちょっと怖いぐらいの迫力である。


「……そも、橋を焼いたところで、二、三日あれば明智は近江に渡るでしょう。するとどうなります?」


「ど、どうって……」


「あ」


 これはまつの台詞である。

 明智はまず、安土城を襲うだろう。

 信長の側室たちのいる、安土城を。

 信長の財宝のある、安土城を。


「……それでも、山岡どのが橋を焼いたら、少なくとも側室たちはお逃げいただくことができましょうな。欲を言えば、財宝も」


「むむ……」


 何しろ安土城の留守居役は、蒲生賢秀(がもうかたひで)である、景隆と同じく、六角家の家臣であった、賢秀が。

 賢秀なら、「橋を焼いて稼いだ時間」を無駄なく使い、安土城から女たちを退避させられるであろう。

 それは同じ六角家の家臣であった、山岡景隆にも、よくわかる。


「さらに」


 ねねは止まらない。

 いつの間にか景隆が出した近江の地図の一点を指した。


「わが長浜城もまた、反明智に立ちます。これなら、明智の目は安土だけでなく長浜も。その間、山岡どのはお逃げなされ。何、そんな長い日にちはいりません。秀吉が兵を率いて戻るまで、十日あれば、充分」


 ねねの差し出した、両の手のひら。

 立てられたそれは、指を全て伸ばし、「十」を示していた。


「十日とな」


 これには景隆も度肝を抜いた。

 今、秀吉は中国征伐の最中である。

 具体的には、備中高松に滞陣中だ。

 それが、十日。

 しかも、秀吉単騎で戻るのではなく、この場合、明智に有効に敵対しうる軍勢を引き連れて、十日。


「……夢物語じゃ」


 たしかにねねは長谷川宗仁を介して、秀吉に書状を出したが、肝心の秀吉が「返してくる」のに、十日だけではありえないだろう。

 まつはそう思ったが、言わなかった。

 ねねと景隆が、あたかも兵法者のごとく、相対し、文字通り目から火花を散らさんばかりににらみ合っていたからである。


「……ふ」


 だが、景隆が先に顔をほころばせ、にらみ合いは(しま)いになった。

 ねねもまた、ふうと息を抜いたが、景隆はさらに笑い出し、ついには哄笑した。


「わっはっはっは……面白い、面白い。この景隆、久々に笑った、笑った」


 景隆は京にほど近い近江を在とするところから、諧謔(かいぎゃく)にも理解があった。

 ましてや武士である。

 大敵を目の前にしての大言壮語は、むしろ客気(かっき)があると愛する傾向にある。


「うけたまわった」


 それはあまりにも()()()とした言葉で、面と向かっていたねねにも、()()()()か何かだと思うくらい、自然にこぼれ落ちたような台詞だった。


「……え?」


「うむ。面白いから、この山岡景隆、瀬田の唐橋、焼き落として進ぜよう……たしか、十日待てば、羽柴どのは兵を率いて京畿まで駆けつけてくれるのでござるな?」


 ねねは無言でうなずいた。

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