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抜き身の剣を携えたまま少女は歩く。
それが本来の長さであったなら、運ぶことすらままならなかったかもしれない。半ばから欠け、折れて久しいその姿でさえ、曇りを浮かせた鈍色の塊は、少女の細腕にずしりと、不釣合いな重さでぶら下がっていた。
『おもー、おも? 重そうだから、おも? なんて書いてあるんだろうねー、よめないしらないわかんない! どーしてー!』
剣の刀身、だった側面には、細工に混じって何かの記号が刻印されていた。文字が何かに記されるものではなくなったのもいつのことか、すでに知るものはいない。種族単位で膨大な記録を保持しているはずの目玉の彼でさえ、その解読の前に挫折し、憤慨にいっそう羽音をやかましく響かせている。
一方で、少女の傍らを寄り添うように歩いていた狼の彼が立ち止まった。
『だーめーだーめーわかんなーい! わかんないからみんなに今度――こんど? 今度って今さ! 今さ! 丁度よか』
羽音は突如、さんざめく音色にかき消された。
目の前を昇りゆく光の帯。単体では騒々しいばかりだった擦過音が、無数にどこまでも重なり合った挙句に奇妙に調和して、その残響を透き通らせながら、全身を包み通り過ぎていくのを間近に見上げた。
群れだ。
捩れ煌く目玉たちの群れが狂騒の輝きを撒き散らしながら高みへと立ちのぼる。一枚一枚、微妙に色彩の違う幻燈の羽が幾層にも重なり合い、周囲の闇を極彩色の渦に変えた。
同胞との邂逅に狂喜してか、目玉の彼がいつにも増して激しく宙をのた打ち回り、群れの中へと飛び込んでいく。
それを追うように、少女の脚が駆けようとした直後、あたりを満たしていた光がいっせいに薙ぎ払われた。
警戒するように唸っていた狼の彼が短く咆哮するのとほぼ同時に、少女はその場から飛び退っていた。白々とした硬質の腹部で擦られた足場は、周囲に破片を撒き散らしながら、やがてその巨体の前に無残に砕け落ちる。
周囲から明かりが失われた。
先ほどまでの煌びやかな羽音は、いまや巻き上がる突風の中に掻き消え、諸共その暗い口の中に呑まれてゆく。
無数の節を連ね、幾対もの脚と大仰な羽を備えたその身をくねらせながら宙を泳ぐ外骨格の巨躯。その絶望的なまでに大きな顎からからくも零れ落ちた幸運な――あるいはより不運な獲物目当ての、数え切れない羽虫の群れが、あたりを一転、不協和音の坩堝と化した。
そのうちの一群は、既に目聡く眼下の一行を捉えている。
羽音の内にキシキシと混じり始めた顎の食む音。嘲笑にも似たそれは、瞬く間に群れの間を伝播していく。
下々の猛りに呼応したものか、やがて群れの長たる巨体がぐらりと宙を傾ぎ旋回をはじめた。
その姿を遠く望みつつ、既にその身体は螺旋の回廊を全力で駆け上がっていた。
襲い来る羽虫の身体を飛び越え、踏み台にしながら少女が跳ぶ。右手に携えた鉄塊の重さを忘れたかのごとき疾走だった。だがそのまま逃げ切るには、あまりにあちらの手勢が多い。すぐ傍らに続く狼の彼が少女の横顔に目配せした。どうするつもりか。
「剣を使う」
呼吸も乱さず、ただ一言で少女は答えた。
狼の彼の相貌にそれほどの険しさが浮かんだのは初めてのことではなかったか。
「――わかってる。でも使い方はちゃんと思い出したもの」
折れた剣を使うことの意味を知る、確信と意思を宿らせた瞳が狼の彼を見返した。
返事を待たず、少女はさらに駆ける脚の速度を上げた。
内心で嘆息したものか口の端を歪ませながらも、彼の反応は早い。跳ぶ四肢に急激に制動をかけ、適度に殺した勢いを、そのまま自分の身体ごと虚空へと一瞬の間に放り出した。
自らの尾を咥えるような姿勢で丸まった肢体は当然のこと、重力に引かれ落ちていく。辺りに満ちる貪欲な蟲共が、愚かな獲物に向かって一斉にその牙を向ける。
忽然と消えたかに見えた。
蟲共の顎がぶつかりあい、互いの節へと食い込む同士討ちの有様を鋭い眼光が見下ろしている。
先ほどの空間から、ゆうに自身の十数倍に及ぶの高さまでを狼の彼は瞬時の内に跳躍していた。
遅れて、静かに地面を踏む足音にも似た乾いた一拍が、たんと短く響くのを聞く。
それが音だと知覚されるまでの間に、再び宙を踏みしめたらしい狼の彼の姿が消え、下方、こぞってもつれあい内輪同士で喚きあっていた蟲柱が突然に爆ぜた。
搾るような悲鳴を上げながら落下する骸に一瞥のみを向け、数度の跳躍の後、再びもといた足場へと、狼の彼は音もなく華麗に着地を決めてみせる。色の軌跡が尾を引き揺らめいて、余韻が闇にとけた。
足裏に触れる空気のみを一瞬ごとに強烈に圧縮しながら、全方位のあらゆる場所を踏みしめることを可能にする狼の彼に組み込まれた技術。その圧縮の反動を利用した衝撃波を纏い、硬質な外殻すら易々と貫く彼の機能は、さながら生きた弾丸だった。
明確な殺意と理知を備える己が存在を、ただ存在のみによって誇る獣が彼という狼だった。
勝鬨の遠吠え。それもまたただの声ではない。
強力な阻害波長を含む咆哮に、耐えかねた小蝿の群れが複眼を爆ぜ散らしながら舞い落ちる。
方向感覚を狂わされるに留まった羽蟲どもは、姿勢を崩し隣行くもの同士で激突し、錐揉みになったところをまた、彼の亜音速の鼻先によって無慈悲に諸共穿ち抜かれた。
蟲の憎悪が攻撃者への呪詛となってあたりに満ち満ち、一点へと収束していくのを感じるに至り、狼の彼の口角が再度大きく吊り上がる。狩猟者生来の愉悦のうちに、しかし確たる思惑を秘めた笑いだった。
来るがいいとでも言うように。
自慢の銀毛を逆立て、吐き捨てるように吼えた狼の彼は、再び地を蹴り、敵の渦中へとその身をしなやかに躍らせた。
はるか下方からの遠吠えに後押しされるかのごとく、少女は駆ける。
いつしか螺旋は頭上の光源を目視できるほどの高さに至っていた。蒼とも碧とも言い難い仄明く輝く球体が、環状の構造物の中央に浮かぶ。その光を遮るようにして、濃い無数の影が少女の上に覆いかぶさった。
「――――――――」
少女が歌うように叫ぶ。
突如として、剣から炎が噴き出した。
放熱部を失った欠け折れた刀身は、熱の余剰を逃がすことの出来ぬまま白熱し、周囲の大気を一気に焦がす。影の中にあって揺らめくように、少女の右手が煌々と燃えていた。
「――いっせいにぃ」
柄を握る手のひらが焼けるのも構わず、少女は振り向きざまの勢いに任せ、
「吹き飛べぇっ!」
全力で折れた鉄塊を振りぬいた。
音が止んだ。焼けていたはずの大気もまた冷え冷えと沈黙し、肉の焦げる臭気ばかりが鼻を突く。刹那の間だった。
爆圧と轟音が、追ってその諸共を根こそぎぐしゃぐしゃに蹂躙した。
小柄なものどもばかりの群れは、その空間ごと、風圧に押し潰されぽっかりと消滅した。
余波を受けた図体のでかい蟲どもは、外皮をごっそりと抉られ、細切れにされて落ちていった。
その声にならない悲鳴までも、少女の宣言どおり吹き飛ばした一閃の衝撃波は、遅れて、遥か遠くの壁面に激突し、抉ったその爪痕から、もうもうとした土ぼこりをあげる。
まだ赤く熱を帯びた剣からは饐えた煙が幾筋も立ちのぼる。柄に癒着し、手放すこともままならない少女の右手は爛れ、ところどころに至っては既に炭化している。想像を絶するだろう苦痛を噛み締め、しかし少女は再び顔を上げた。
黒々と底のない眼球の中、苦悶に歪む顔が間近にあった。
足場から飛び退く猶予はない。
直撃こそ避けられたものの、脆くも崩れ去る瓦礫とともに吹き飛ばされた少女の身体が落下する。
舐るように向きを変えた巨蟲の顎が、小枝のような手足で虚しく足掻く必死の獲物を認めいよいよ嗤った。骨ばった指の包み込むようにも見える幾対もの食指は、しかし決して、落ちていく少女の肢体を救い上げなどしない。
開く口腔の深遠を前に伏せられた少女の目が、だが唐突に弾けるように見開いた。
その短い咆哮のみで互いの意を解すようになるまで、少女と狼はいったいどれほどの時間を一緒に過ごしてきたのだろうか。
もはや鉄塊の焼け付いて離れない右腕が中空に突き出されたのとほぼ同時、錐揉みながら少女の身体は跳ね上がった。全身を抱え込むように丸め、凛とした声が再び剣の歌を紡ぐ。高速で回転する無骨な刀身が空を切り、似合わぬ音色で流々と鳴る。
下方から、剣の刀身を狙って打ち抜いてみせた狼の彼と少女が目配せし口元を歪めあった一瞬、巨大な白炎がまばゆい真円を描き、蟲の背の遥か上方で赫と燃え上がった。
回転の勢いから放たれた熱風が渦を巻き唸り、蟲の背に深々とめり込む。甲殻を砕き肉の潰れゆく音が、やがて、短くぶちんと響いたのを最後に、すべてを巻き込むかのような非業の断末魔が空間全体を揺さぶり轟いた。体幹のほとんどを失った蟲の首は、千切れかけた羽を痙攣させながら、しかしその均衡の崩れるままに、螺旋の塔の壁面に正面から激突し、やがてその動きを止めた。
くすぶる煙の尾を引いて、立ち消えるように、少女の身体が落ちていく。狼の彼はその傍らに速やかに宙を駆け寄ると、その襟首を咥え、自らの背に器用に少女を背負いあげた。駆け行く彼の毛並みの内に頬を埋めた少女の瞳がうっすらと開き、上層に瞬く光の点を見遣った。
「……また、あそこまで、上がらなきゃ、だねぇ」
安堵するように、その口元からため息が漏れた。




