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間近で見下ろす光球は波打つように淡く鳴動していた。少女の肩の辺りから立ち上る影も、その明滅にあわせ、さざめくように揺れ、上方の虚空の闇の中へとうぶろげに吸い込まれていく。
螺旋の頂にたどり着いてもなお、見上げる先には何もない。寂寥とした暗がりが、少女の瞳の内を静かに覗き込むばかりだった。
ただ一条のみ、導くように、伽藍の外壁へと続く橋梁だけが、蛍光色の明かりを受け、まっすぐ仄暗く浮かび上がっていた。
少女には、既に右腕がない。間近で熱気を浴びた右目も白濁し、既に光を失っていた。
ほとんど炭化した腕が肩の辺りからごっそりと転げ落ちた時も、少女は唐突によろめいた自分の身体を、無茶しすぎたかなと笑うばかりだった。
残された左手に持ち替えた剣はとうに熱を失い、いまや凍えるように重く、その細指の先に下がっている。
片足を僅かに引きずるように歩く少女の隣を、粛々と狼の彼は連れ添う。
彼自身もまた、先の戦いで無傷であったわけではなかったが、それでも少女の足取りに歩調を合わせるのは彼の方だった。
時折、見上げた主が彼に微笑みを返すたび、遣る瀬無げに鼻を鳴らしたのも、もう幾度目のことか知れない。
「――も見えない」
か細いその声もまた影のように幽かに消える。
小さな幾度かの瞬きの後、少女はわずかに首を振った。
「……ううん、今、言葉を思い出したんだ。映すような、見下ろすような、何だか遠い言葉。とても遠くにあるような――」
見上げた虚無に向かって儚げに投げかけられたその呟きは、しかしその後を継がなかった。
少女と狼の彼が、ほぼ同時に顔を上げた。
競りあがるような不吉な震えに、足元の橋梁がゆらりと撓む。振り返った橋の袂を後じさりしつつ見れば、螺旋の頂にのそりと、節くれだった脚の影が蠢いていた。真正面からの激突にも潰れず残った数少ない目玉のひとつが鬼火にのように暗い眼光を放つ。
それが少女の姿を捉えた。
焼け千切れた傷跡が開き、濁々とした体液の撒き散るのも狂乱の内に意に介さずとばかり、巨蟲の顎から雄叫びの憎悪が轟き渡った。
咄嗟に少女は左手の剣を構えなおす。二度の濫用に内部機構を焼き尽くされたそれは、もはやただの鋼の塊に過ぎなかった。力の残滓こそあれ、先のような無茶な使い方は期待できない。何より、それを振るうだけの膂力自体が、隻眼隻腕の少女自身に残されていないのも明らかだった。
創痍の少女を庇うように、狼の彼が前に進み出る。臨戦の気概に銀の毛を逆立てながらも、低い唸り声は臍を噛んだ。羽虫共のそれとは比べ物にならない巨蟲の外殻を彼の一閃が貫けるのであれば、少女にその腕を犠牲にしてまで剣を振るわせることを、あの時、許しはしなかっただろう。
蟲が進撃を開始する。
胴体が千切れてもなお残る十余の脚。それらが橋梁丸ごとを抱え込みながらぞろぞろと這う。にじり寄る暗澹と開いた口が牙を剥き、大きく裂け、吼え猛った。
いつかのように彼女を背負い宙を行こうにも、降り立てる足場はない。彼の機能は、その足裏で宙を蹴ることのみであって、虚空を飛び続けるように造られているわけではなかった。
或いは、橋の対岸まで逃げ切ることが出来るのなら迷うことなくそうしていたに違いない。
だが、彼らの位置するは橋のほぼ中央。機能が十全でないとはいえ、狼の彼一匹ならばそれも不可能ではなかっただろう。だが、彼の傍らには手負いの少女がいた。
主を連れて駆け抜けること、また相手を飛び越え元来た螺旋へと後戻ることを思うに、どちらもそれは絶望的な距離間だった。
しかしそれでもなお、狼の彼は少女と蟲との間に立ち塞がる。少女の顔に悲痛が滲んだ。
少女を護り送り届けること。たとえここで自身があの醜塊と刺し違えるにせよ、課せられた役割のうち、少なくともひとつばかりは果たすことができるかもしれない。
できさえすればそれでよい。
それこそが自分が彼女に付き従うことの意義であると、張り詰める気迫を以って語るような立ち姿だった。
いよいよ迫る顎を前に、狼の彼が姿勢を屈めた。その四肢に覚悟が満ちる。
頃合だった。
ただ静かに産み落とされるように落下を開始する。さかしまに流れ行くはあたりの闇だ。浮遊と紛うような感覚の中で、しかし眼下の淵は遠ざかり、頭上の灯りが急速に近づいてくる。不意に過ぎった既視感さえも加速の内に引きちぎられ、着地まではもう幾許もかかるまい。既に両の腕はそれぞれに鋭く得物を携えていた。
わずかに顔を上向けた狼の彼と視線が交差したのも瞬く間。回転を加えながら切り下ろした双刃は、容赦なく蟲の顔面を抉り潰す。その勢いのまま外殻の残骸ごとを橋梁にめり込ませ、一挙に縦断する。
撒き散る体液と破砕した瓦礫にわずかに遅れ、轟音。
やがて、土煙も残響の余波も消えた中、左右に別たれた蟲の顔面は、しかしそれぞれに牙と節足を蠢かせ、未だ無様にもがいていた。
捕食者の本能のままに這い寄ってきた足のうちの数本を、一振りで以ってまとめて切り飛ばし、返す刃をそのまま上段に構えようとして、止める。
両端からそれぞれにずり落ち始めた身体を留めるものはもうない。肉一枚でかろうじて繋がり、のけぞり開くままにぶら下がっていた部分から、蟲の首が自重に引かれるままに不快な音をたてはじめた。
それがやがてぶつりと一線絶ゆる余韻を残したのを最後に、蟲は、今や暗澹としているばかりの奈落へと呑まれていった。
顧みれば、少女の白濁とした瞳が見開いている。困惑と驚愕の交じり合った眼差しが、虚空から突如降り立った私の姿を注視していた。やがてそれは、私の全身を覆う黒衣を認め、険しい意思に細められる。
「――あなたは、誰?」
彼女に応える言葉を私は持たない。
君は誰か。
そう返すとしても、それもまた詮無い戯言に違いなかった。
差し伸べた手のひら、そこから水平に滑り出した刀身は、それこそ影の伸びるように音を立てることがない。少女の喉笛、その僅かに手前で止めた切っ先に、狼の彼が再び低く唸り声を上げた。
これは仕組みなのだ。
少女は先を目指せばよい。狼の彼は少女を守り友となり盾となり、いつかのように果てればよい。目玉は笑い、蟲は喰らい、釣り人は静かに石となり、あの窓の影はただやわらかに寄せて返し陰り、構造物は朽ちて沈み、また螺旋を描けばよい。
それらと同じように私も、少女と対峙し、その首を刎ねるだけなのだから。
そうでない物語も、かつては数多あったのかもしれない。けれどそれは、記憶にも記録にも、そのどちらからも失われてしまった、もはやどこまでも遠い、うぶろげな明滅に過ぎなかった。夢のようなものだった。
白衣の裾がひどくゆるりと翻るのを見た。
瞬時に弾かれていた切っ先。その銀とした音色が、耳よりも先に腕の髄に響くのを聴く。
いつかのように踵を返し駆け出した少女の後姿を遮るように、目の前に迫った獣の牙が、しかしまた突として消えた。
反射的に首を振り仰いだのは、彼の姿を追うためではない。大きく開いた両の腕を体幹の回転に逆らわず振り抜く。遠心力。手のひらから伸びた薄刃がやわらかくしなり、描く楕円の軌跡の境でばちりと派手に火花が弾けた。その閃光の最中に一瞬、突貫を防がれ牙を剥いた狼の彼が浮かび上がる。真剣にこちらの瞳を見据えながら、彼は確かに笑っていた。
私の刃は蛇蝎の如く、空を裂く音すら立てず奔り、対する彼の速度もまた音のそれを遥かに凌駕して迫る。たん、たん、たん、と四方からの彼の足音の合間を刻むように、私の片刃の背の上で瞬きが鳴り爆ぜる以外の雑音は、互いの起こす覇気の揺らぎの中に打ち消しあい呑まれ、剣戟は熾烈を極めながらも、舞台は酷く静寂に乾いていた。
狼の彼が後方に飛び退るのを狙っての刺突。延伸する槍状の黒刃を紙一重で交わした彼の体毛が燐と幾条、青々と散る。しかしそれをもまた、火の華の赤の散るのにまかれ、嚇という間に燃え尽き果て、ちりりと微かに鳴る音さえも薙ぐ一閃が、絶え間ない互いの連撃を繋いでいく。
果てるとも知らず、しかし実際のところそれは、数えるほどの秒の合間に無理矢理以って詰め込まれた、数え切れない愉悦の交差に違いなかった。
その終焉は、すでに何度目かも分からない攻防の末の、どちらかが意図的に手元を狂わせた結果だったのかもしれない。
正面切ってぶつかった刃の先端が、ついに彼の突圧を貫く。右の刃の切っ先は彼の瞳、左の眼球につぷりと刺しこまれるままに進み、耳の後ろ側を破り抜け、どす黒く染まる部品の混じる漿を迸らせた。彼の頭蓋を形成する強化合金と、微細単位の切断を可能とする私の刃とが、眼窩の内側で削りあい火を散らすのも構わず、開いた顎のあげる咆哮。もう一方の剣を振るい応じるも間に合わない。鋭さに特化する私の刃は、それ故に、自ら串刺しとなった狼の彼の勢いをとめることができなかった。
喰らいつかれた左の二の腕の肉を抉り骨に至る痛み。間近に彼の荒く唸る吐息と、残されながらも、周囲の皮膚を剥落させ地金を覗かせる右目に宿った、消えることのない戦意を見る。
咄嗟に両の刃を手のひらの内に退く。その判断は正しかったろう。彼の牙は私の肩口を捕らえてこそいるが、決定打には程遠い。身動きを奪われているのは狼の彼もまた同じなのだ。むしろ持ち前の機動力を全て犠牲にするこの膠着は、回避のための猶予を失うことになるばかりの下策でしかないはずだった。
とん、と柔らかな感触。
不意に押し当てられた足裏は、胸元にふたつ、腹部と腰骨にそれぞれひとつづつの計四つ。不釣合いに優しく添うそれらに加えて、こつりと硬く冷たい一点が背筋のちょうど真ん中に突きつけられていた。
曰くそれは、飼い主に似るという。
今まで牙を持たなかったが故に、護られ、狩られるばかりに甘んじていた少女の手に、今何が携えられているのかを、私はずっと見てきたのではなかったか。彼女のために傷つくことを厭わない狼の彼の勇気もまた、彼ひとりによって練られ続けたものではない。
喰らいついたまま離れない口元が、再び釣りあがり歪む。獰猛な笑みだった。
「何度目かなんて、もう思い出せないんだ」
一方で、背後の声は淡々とその感情を滲ませず呟く。ここからではその表情もまた伺えない。
「だからこれでおしまいにするよ」
圧縮される空気の音に半ばかき消されながらも、静かな声音でそう聞こえた。




