第一話「尚宮になった日」
漢陽の宮殿は、山に抱かれるように建っていた。
北には青い山並みがあり、南には大きな門がある。
そのあいだに、幾つもの殿閣が、静かに並んでいた。
水凪は、十五の年に宮女として宮殿へ入った。
字が読めること。
算術ができること。
礼法を知っていること。
厳しい試験をくぐり抜け、ミナは選ばれた。
それから十年が経った。
ミナは二十五になり、尚宮の位を授かっていた。
任されたのは、内命婦の記録を管理する仕事だった。
文書を読み、書き、整える。
古い記録を棚から出し、新しい記録を正しく納める。
宮殿の中で、ミナがいちばんよく知っている場所は、文書の間だった。
そこには、何百年分もの記録が眠っていた。
王室の慶事。
国事の記録。
官員の名簿。
地方から上がってきた帳簿。
そのすべてを、ミナは静かに守っていた。
ある日、見知らぬ官員が文書の間を訪れた。
「記録を調べさせていただきたい」
落ち着いた声だった。
ミナは、その官員を見た。
年の頃は三十前後。緑の官服をまとっている。
ただの役人ではない。正三品の堂上官だった。
「どの記録をお調べでしょうか」
ミナが尋ねると、官員は丁寧に答えた。
「三十年前の、地方の税記録です」
「お名前を」
「李晴琉と申します。戸曹参判を務めております」
ミナは、棚の奥から該当する記録を取り出した。
両手で差し出すと、ハルはそれを受け取り、深く礼をした。
その礼の仕方が、きちんとしていた。
宮女に対して、そこまで丁寧に礼をする官員は、決して多くない。
ミナは少しだけ目を留めた。
けれど、すぐにいつもの表情に戻った。
文書の間には、余計な言葉は必要なかった。
(第一話 了)




