5.光と救い
彼女との結婚が決まったことで、私は後継の立場を弟に譲った。
そして、弟が継いだ私の家の敷地に、小さな屋敷を建て、彼女の看護人と、最低限の使用人だけを置いて、そこで暮らしている。
私の周りの者たちも、それを受け入れてくれ、彼女の両親もよく訪ねてきてくれるようになった。
そして私は、当主補佐の仕事以外の時間は、彼女と過ごしている。
家の周りに、彼女のための庭を作った。
彼女が昔、二人で出かけた先の公園で、
「うちにもこんな庭があったら素敵ね」
と言ったことを思い出したからだ。
そして彼女が好きだと言っていた花を植えた。
白いベンチも置いた。
車椅子に乗った彼女を、その庭へ運ぶ。
彼女をベンチに移動させようと思ったが、朝露で少し濡れていたため、今日は車椅子をベンチの横につけ、私はベンチに座ることにした。
今日はあたたかい。
彼女と日向ぼっこをするにはちょうど良さそうだ。
「見て」
私は彼女に声をかけた。
「君の庭だよ」
彼女は何も言わない。
過去の彼女との時間の中から、彼女の願いや好きなものの欠片を探す日々。
彼女は、この庭を気に入ってくれるだろうか?
私は彼女の隣に座ってしばらく二人で庭を眺めた。
「覚えてる?昔、君がこんな庭が欲しいって言ってたんだ」
私がそう言ったとき。
彼女の唇が、ほんの少しだけ動いた。
「……」
笑った、ように見えた。
私は息を止めた。
「……今」
彼女の顔を覗き込む。
「今、笑った?」
返事はない。
けれど、口元に残った、ほんのわずかな弧。
それだけが、私には何よりも大切だった。
次の瞬間には、私はぼろぼろと涙を零していた。
握った手に、頬を寄せる。
「私は、君を幸せにできるかな」
返事はない。
そして、静かに首を振る。
「……ううん。違うな。私が幸せなんだ」
彼は泣きながら笑った。
「君がここにいてくれるだけで、私は幸せだよ」
「おはよう」
「今日は天気がいいね」
「昼食は何にしよう?」
「この花、綺麗だね」
「君に似合うと思う」
毎日、毎日。私は彼女に話しかけた。
彼女は、何も返さない。
それでも、私は話しかけ続けた。
返事がなくてもいい。目を合わせてくれなくてもいい。
そんな生活の中、今だに夢にうなされ、激しい後悔と、虚しさや寂しさに苛まれる事はあった。
この現状が、彼女にとって最善なのかもわからない。
ただ、私は彼女が私の隣に在ってくれれば、それでよかった。
花が咲き、季節が巡り、同じ日々が繰り返される。
私は彼女に話しかける。
彼女は、ときどきほんの少しだけ反応をみせる。
それだけで、私は今日も生きていける。
私は、これが自己満足なのだと気づいている。
彼女が本当に幸せなのか。
私のことを覚えているのか。
ここにいたいと思っているのか。
何も分からない。
それでも、彼女という存在が、今、ここにいる。
それだけでいい。
「愛してる」
何度目か分からない言葉。
「ずっと愛してる」
彼女は答えない。
これからの彼女の小さな変化も、反応も見落とすことなく見つめていきたい。
ひとつも取りこぼさずに拾い集めて、そのひとつひとつの幸せを、噛み締めたい。
「私は、愛するあなたと二人で幸せになりたい」
彼の声に応えるように、ほんの少しだけ彼女の口元が緩んだ。
それを見て、また涙が溢れた。
私は、泣いてばかりで情けない男だ。
それでも、今は、この涙さえ幸せに思えた。
花が揺れる。
「今度、君の好きなあの花を植えよう」
それは、彼女と私の約束。
噴水が、静かに水を落としている。
白いベンチに並んで座る二人を、柔らかな春の日差しが包んでいた。
結婚に夢なんて持っていなかった私にとって、この結婚は夢のように幸せなものだった。
明日は、どんな花が咲くだろう。次は、彼女のためにどんな花を植えよう。そして、彼女と過ごす今を大切にしながら、明日を彼女と迎えられる。
それだけで、私は幸せだ。
柔らかな春の光が、庭いっぱいに降り注いでいる。
その光の中で、彼女の口元がほんの少しだけ緩んだ。
私はまた泣いた。泣きながら、笑った。
きっと、これが私達の幸せのかたちなのだ。
と改めて思う。
幸せを、彼女と二人で少しずつ重ねていく。
この何気ない日常の中で。
彼が私のために庭を作ってくれたらしい。
ふふ。そんな約束してたかな。
風が吹いた。
花が揺れた。
二人で手を繋ぐ。
言葉はない。
それでも彼は私のそばで泣きながら笑った。
ほんとに、しょうがない人ね。




