真昼の邂逅
「くらやみ堂」でのひと騒動が片付き、あっという間に一週間が過ぎた。
あの日以来、ガスパールから何の音沙汰もないのが気になった僕は、小見を「伊右衛門」へ呼びつけた。これといって策を練ろうというわけでもないが、このままこちらが無為無策、というのもなんだか嫌だったのである。
「――さすがに一週間経ったら、お酒のオの字も抜けてるでしょうよ」
呑気な調子で小ぶりのパフェと紅茶を楽しむ小見に、僕はコーヒーカップを持ったまま、だといいけど、と力なく返す。
「便りのないのはなんとか、っていうから大丈夫だとは思うんだけどさ。なーんにも連絡がないのも、さすがに気になるじゃん」
「まあ、それが人情ってやつですよね。――にしてもこれ、なかなかおいしいですねえ」
「ハハハ、そりゃあよかった。こっちも金欠じゃなきゃ、ケーキくらいは頼んでたんだけどねえ」
「ちょいちょい、おごっておいて今更恨み節は困りますよ。パイセンじゃないですか、ごちそうしよう、って言ったの……」
「――今度から財布の中身をよく確かめてから言うことにするよっ」
一番安い、サービスブレンドという小ぶりなカップのコーヒーを飲んでいた僕は、小見の指摘にいらだちながら返答する。物怖じしないのが小見のいいところなのだが、こういうときぐらいはせめて、遠慮という文字を脳裏に浮かべてほしいもんである。
そんな後輩が再び物怖じしないところを見せたのは、勘定が済んで「伊右衛門」を出た直後だった。
「いま行ったら、絞られながら皿洗ってるッスかねぇ」
「よせよっ、昼間行って起きてるわけないだろうが」
夜中起きている人たちは今寝ているはず、というのもあったが、あの蠱惑的な装いの「くらやみ堂」に対する印象が、真昼の明るさのせいで半減するのが怖かった、というのが大きかった。しかし、そんな僕をよそに小見はずんずんと、六角ビルの四階目指して階段を上がってゆく。今日に限って、猫を撫でているおじいさんも見当たらないのが大きな不幸だった。
だが、小見の期待むなしく、例のポストの向こうで待ち構えていたのは、夜中と違って実に素っ気なく見える、ただの雑居ビルの一室のドアだった。
「ノックしたら誰か出るッスかねぇ――」
「ばかっ、それはやりすぎだっ」
肩を掴んで引き留めると、小見は不機嫌そうな目をこちらへ向けてから、見たいテレビがあるから、と先にビルを出て行ってしまった。後ろ姿を追いかけ、小見の乗った自転車が駅の東口のほうへ消えたのを見届けると、遅ればせながら僕も鍵を開けようとポケットを探った。と、
「――やぁっぱり、一郎くんだったかぁ」
耳に覚えのある声に思わず振り返ると、見た覚えもある顔が踊り場の窓からひょい、とこちらを見下ろしている。この前会った時よりもいくらか健康的な色見をした、素面のブロムソンさんだった。
「ブロムソンさん! ごめんなさい、起こしちゃったんですか」
「いやいや、そうじゃあなくってさ。知ってるかな、鴉の郵便……あいつらのためにエサやらなきゃあいけなくって。ちょっと早起きしたんだよ」
「ああ、なるほど……」
「どうだい、ガスパールも来てるし、ちょっと上がってく? たぶん向こうも、そのほうが都合のいいこともあるだろうし……」
断る理由こそなかったが、夜の案内人を自称する人たちの居場所へ昼間入っていいのだろうか、という迷いはあった。しかし、ガスパールがいるなら、という安心感が勝って、僕はふたたび四階へと舞い戻ることになったのだった。
「――ガスパール、お客さんだぜ」
「あれっ?」
掃除中だったのか、夜中と違ってカーテンのあけ放たれた「くらやみ堂」の中へ入ると、真ん中のテーブルで夕刊を読んでいたガスパールが虚を突かれたような顔をこちらへのぞかせた。さすがのガスパールも、僕がひょっこり現れるとは思わなかったのだろう。
「一郎くん、どうしてまた……?」
「さっきまで、小見と一緒に隣の伊右衛門でコーヒー飲んでたんだ。で、その帰りにあいつが、もしかしたらブロムソンさんがいるかもー、とか言って扉の前まで来てて……」
「――その反応にオレが気づいて、立ち話もなんだからって招き入れたのさ。いいだろ別に? 店長もいないんだし……」
例によって八重歯をのぞかせて笑うブロムソンさんに、ガスパールは困ったような顔をしてから、まあ、いいんじゃないの? と渋々提案を飲んだ。
あり合わせの物で良ければ、と簡単なサンドイッチを作ってくれることになったブロムソンさんを厨房に送り出すと、僕はガスパールと向い合せになって、兼ねてからの疑問をぶつけた。
「――で、例の計画はいつ決行するの?」
「――おやぁ、いきなり来たねぇ。実はちょうど、そのことについてしたためた手紙をさっき出したばかりだったんだけど……行き違いになっちゃったんだなぁ」
新聞を畳みながら、ガスパールは微笑をこちらへ向ける。
「ちょうど明日の晩、一時かっきりに僕の家に集合さ。ブロムソンも酒気が抜けたし、並行してやってたクルマの準備も、例の大きな瓶のほうもばっちりさ。作戦名のほうは……」
そこまで言いかかって、ガスパールはいやいや、と宙で手を振り、
「それだけは、届いた手紙のほうで見てもらおうかなぁ。どうも口に出すと小っ恥ずかしいから……」
と、頬をうっすら赤く染めて話題を区切ってしまった。それきり、ブロムソンさんが持ってきたサンドイッチをぱくついて店を後にするまで、ガスパールの口からその話が出ることはなかった。
膨れた腹を抱えて家路を急ぐと、案の定鴉が一羽、不機嫌そうな目をこちらに向けて窓辺にとまっているのが見えた。野良の鴉でない証拠には、手紙がきちんと嘴に挟まれている。
「今日は大盛りでくれてやらないと、突っつかれそうだなぁ……」
一抹の不安と共に階段を上がり、ビスコを丸ごと開けてからサッシを滑らせると、鴉は吐き捨てるように手紙を離し、僕の掌からエサを奪って早々と飛び去ってしまった。この間、ものの十秒もない――。
――さぁて、ガスパールはいったいどういう具合に名前を付けたんだ?
はやる気持ちを抑えながらペーパーナイフを滑らせると、中からは丁寧な筆致の手紙が現れた。そして、「くらやみ堂」で聞いたのとまったく同じ文面が続いた後に、そっけなくこんなことが書いてあったのには、大抵のことには驚かないつもりだった僕も肩の力が抜けてしまった。
オンディーヌ輸送の作戦名は、僕の一存で『妖精特急』と決まりました。
「……なるほど、そりゃあ自分からは言いにくいよなぁ」
格好よくも、それでいてさほどダサくもないというのが、なんとなく哀れを誘っている。しかし、長らく噂の的になっていた「天の川のはぎれ」こと、彷徨える水精オンディーヌに救いの手が差し伸べられると考えると、一刻も早く土曜日の夜が来ないか――それだけが僕にとっての一大関心事であった。
お待たせしました。いよいよ「妖精特急」作戦開始のお時間です。