(10)神の業
山神の住まいにたどり着いて、見知らぬ城のような場所に連れていかれ、気が付いたらアシル村に帰ってきていた。
そんなことを話して誰が信じられるだろうか。すでに沈みかけた夕日を眺めながら、マルクは深々とため息をついた。
村に帰ってから間もなく、マルクたちは村の広場で何度も同じ質問をされた。山神は何と答えた、生贄がどうして生きている、村はもう大丈夫なのか、山神は助けてくれるのか。それら一つ一つを、疲労をこらえながら答えても、村人たちは納得することはなかった。そして、村人たちはマルクたちが馬車にも乗らずどうやってこの村に帰ってきたのかしきりに聞いてきたが、マルクが本当のことを話しても信じられないと口々に言うばかりで、マルクの言葉を全く聞き入れてくれなかった。
こういう時にディマオンがいれば、アシル村の村長と一緒に上手くまとめてくれるところだが、残念ながら二人ともここにはいない。マルクたちが山神のところへ行っている間に、また白霧の森の魔物が襲撃を仕掛けてきて、現在はディマオンと村長、その他戦える男たちが追撃に出ているのだ。逃げ帰る魔物たちの先に根城があるだろうから、そこに村を襲おうと魔物の統率を取る親玉がいるはずだ。ディマオンはそれを見つけ出すために出て行ったらしい。
マルクでは、アシル村の人達を信用させられない。かといってジョンスは説明が下手糞だし、ヨランダは治療を続けている最中。子供のミレイユではなおのこと耳を傾けてくれないので、もう途方に暮れるしかない。
だが、ゾーソンが山神からつけられたであろう額のしるしを見せて、マルクの言ったことは本当だと擁護するやいなや、村人たちの反応ががらりと変わった。まるでゾーソンが神であるかのように皆は跪き、耳を傾け、やがてゾーソンの額の刺青に一人一人が触れて崇めたたえた。
異様な光景だった。朝までは村の一員だった一人の青年を、夕方には全く別物のように扱う村人たちを見ていると、まるでゾーソンという青年が最初からいなかったかのように思えた。
ひとまずディマオン達の報告を待つという事で話は終わり、各自が休息をとる間、マルクは焚火の傍で素足を晒しながらぼんやりとつぶやいた。
「はぁ……もう何が何だか……」
山神のことだって納得できていないのに、アシル村の人間がこの調子では混乱がいや増すばかりだった。ゾーソンは山神の加護を得たことで、祭司の老婆に連れられてどこかに行ってしまった。ジョンスは疲れたのか山から帰ってきた馬車の方で爆睡しているし、ミレイユは子供たちと一緒に遊んでいる。誰かと話をして落ち着きたかった。
ちょうどそんなことを思っているときに、さらり、と長い髪の毛が肩から落ちる音が隣から聞こえた。
「お疲れのようね」
「あ、ヨランダさん、お疲れ様です。どこに行ってたんですか?」
「怪我人の手当てよ。さっきの襲撃に傷に毒を塗られたせいで、皆の治りが遅くてね」
「大変、ですね」
「ええ。でもみんな一命は取り留めたから、安心していいわよ」
「それはよかったです。まったくジョンスの奴、皆が大変な時に爆睡しやがって」
「ふふふ、あいつはそういう人でしょ。カエヌディに来た頃から」
「そうですね。何だかあいつの呑気さが羨ましいですよ」
同じ故郷出身の人間が近くにいる、故郷の名前が自然と出てくると言うだけで、随分と肩から力を抜くことが出来た。
会話が途切れると、焚火からぱちぱちと破裂音が連続して鳴り出した。マルクは傍の枝を掴んで焚火の中に放り投げると、かじかんだ足先を手のひらで揉みながら苦笑した。
「もうここ最近は、ずっとここに座ってばかりな気がしますよ」
「そうね。焚火の傍から離れられないもの。もう少し南に行ったら、そういう事も無くなるでしょうけど」
「白くない木を始めて見たばかりのおれには、焚火の傍にいなくていいなんて想像もつきません」
「きっと驚くわ。ずっと南、帝国を越えた先にある、砂漠っていう、砂しかない場所があるんだけど、あそこまで来ると日焼けで死んでしまいそうなぐらいだわ」
「日焼けで? ここは晴れてても寒いのに」
目を見開きながら驚くと、ヨランダはくすくすと大人びた笑みを見せた。彼女がこんな風に笑うときは大体ディマオンの自慢話が出た時や、旅の思い出を話して聞かせている時だ。つまり今の話は決して嘘ではないのだろう。
久しく忘れていた、まだ見ぬ世界に期待で胸が膨らむ感覚がこみ上げてくる。
「早く、みんなで南に行きたいです」
「ええ」
本当はアシル村に滞在する日にちは一日か二日程度だった。だから、いつ来るとも分からぬ魔物の襲撃に備えることも、この地に古くから存在する遺跡や、山神のことも知る機会はなかったはずだ。そう考えるとこれぐらいの足止めも悪いと思わない。むしろこの先の未来への想像力が刺激されるというものだ。
だが、不安がないわけではない。今日会ったばかりの山神は神獣であり、伝承によるとその神獣は世界各地に散らばって眠っているというようなことが語られていた。この先、またあの恐ろしい神獣に会うかもしれないと思うと、尻込みしてしまうのだ。
自分の全身を山神の鱗が這っていたあの感触は未だにまざまざと思い出せる。
もしあの時、ミレイユが湖に兎を投げていなかったら、自分はどうなっていただろう。思い出すだけで鳥肌が止まらない。間違いなくあの瞬間、マルクは被食者になっていた。
彼女に、どうしてあの時兎を湖に投げ込んだのか、聞くべきなのだろう。保護者として、真意を知るべきだと思う。だがマルクはなかなかミレイユに聞くことはできなかった。あの時のミレイユは別人のように無機質で、あの行動もマルクを助けるためなど、そんな優しさから生まれたものではない、もっと別の思惑があったように思えてならない。
もし、ミレイユがマルクを助けるために兎を投げた、と答えてくれれば「ありがたいけど命を粗末にしてはいけない」ともっともらしい理由で叱りつけることが出来ただろう。だが、そうではない答えが返ってきたとき、どう返答するのが正解なのか、マルクには分からないのだ。
「ミレイユのことで悩んでいるの?」
焚火を見つめたまま黙り込んでしまったせいだろう。ヨランダに心中を言い当てられてしまい、マルクは息を止めた。
「よく、分かりましたね」
「人一倍ミレイユのことを気にかけている貴方だもの。悩み事と言ったらミレイユでしょう?」
「そうでしょうか」
「自覚がないの? 貴方はいつもミレイユを優先している気がするけれど」
「……確かに、そうかもしれませんね」
ディマオンに、ミレイユを気に掛けるように言われていたから、そうするように無意識にしていたのかもしれない。彼女が化け物になるか、人間になるか。それを正せるのは自分たち大人だけだ。
しかしマルクとて成人したばかりで、旅の最中でも叱られてばかりの半人前なのだ。そんな奴がどうして、ミレイユに正しいことを言える。
山神の時もそうだ。ミレイユが生贄にされるのを、マルクは自分で何とかするつもりだった。アシル村も、ディマオンのように丸ごと解決できるとどこかで思っていた。だが結果は、ゾーソンが山神と話をつけたおかげで解決したのだ。自分は何一つやり遂げていない。それが尚のこと、マルクの自信をどん底に叩き落としていた。
「オレは、やっぱりディマオンさんみたいにはなれないんですね……」
気づけば男らしくない、情けない言葉が口から零れ落ちていた。こんなことを口にした時点で、ディマオンには追いつけないほど自分が落ちぶれていると自覚する。ますます落ちていく気持ちに引きずられて、マルクは膝を立ててそこに顔をうずめた。
だが隣から聞こえる女性の声はあっけらかんとしていた。
「何を言い出すのかと思えば、そんなこと。貴方はまだこの大陸を出てすらいないじゃない。世界中を回ったディマオンに、今の貴方が追いつけるはずないでしょ」
「……はは、驕り過ぎってことですかね」
「そう、驕りよ。貴方は四十歳でもないし、白霧の森の戦いで死にかけるぐらいに弱いでしょう。あの人はもっと死闘を繰り広げてきた。旅の間に語って聞かせたあれは、嘘でもなんでもない、本当に私たちが体験したことなの」
ヨランダとディマオンは、約二十年、世界を旅し続けてきた。ギルドの依頼を総なめにし、ドラゴンと戦い、国を賭けた戦争にも参戦し、国王に呼ばれたこともあった。それは全てマルクには夢物語で、想像もつかないことだ。だから現実味を抱けない。話で聞いただけなら、すぐに自分もそこへ立てると思った。すぐに自分も同じ体験をできると無条件に信じてさえいた。
しかし、実際はこれだ。
「貴方の目標は高すぎる。自分の能力も知らないくせに、高望みしすぎよ。ミレイユのことだって、貴方はカッコつけようとしてないかしら」
「……そうかもしれませんね」
「そうなのよ。ドレイクになんて言われてきたのか知らないけれど、自分で無理だと気づくことも大事よ。ちょうど今の貴方は、一人では無理なんじゃないの?」
マルクは、口をつぐんだ。
世の中分からないことだらけだ。カエヌディにいた頃はただ言われた通りにすれば間違えることはなかった。だが外に出ればそうではない。誰も正解を教えてくれない。あるのは、ヨランダのように諭してくることだけ。
自分に分からない事があるときは、誰かに手を伸ばしても、いいだろうか。
「……ヨランダさん」
「何かしら」
「……ミレイユのこと、どうしたらいいと思いますか」
「……相談という事でいいわよね。最初から話してちょうだい」
マルクは躊躇いがちに唇を湿らせた後、ミレイユと先ほどの山神との出来事を、事細かに語りだした。
山神に捕まり、殺されかけた時にミレイユがなぜか湖に兎を投げ入れたこと。あれだけかわいがっていた兎を躊躇いなく投げ捨て、しかもその時の表情は全く悲しげではなかった。するべきことをしただけ、とでも言うかのような、変に大人びたあの時のミレイユは、果たしてどう受け止めるべきか。
「そう……ミレイユの様子は、前々からおかしいと思う時があったけれど、マルクが見たような大きな変化は、私も見たことがないわ」
「……そうですか。なんなんでしょう、あれは」
「分からないわ。でも、ミレイユがおかしくなる時は大抵、誰かの身の危険が迫っている時に思えるわ」
「言われてみれば……?」
ミレイユが不可解な行動をとること自体が少ないので判然としないが、確かに、仲間の誰かが魔物に襲われかけている時にそうなっていたような気もする。山神の洞窟でも、マルクは実際に死にかけていたのだから。
もしかしたらミレイユは無邪気に魔法を使っているが、本当は全て分かっていて行動しているのではないか。まだ十歳前後の子供にはできるわけのないことなのに、マルクにはそうとしか考えられなかった。
「あの子は一体、なんなんだろう……」
「さぁ、ね。幼い子供が大人並みの思考を得ることもあるらしいけれど、ミレイユの場合は、少し違うと思うの」
「違うんですか?」
「ええ。だって大人並みの思考があるのなら、あんなに幼さを装えるものかしら。それにちょっと幼すぎる気もするし」
「演じているから、そんな風に大袈裟に見えるのかも知れませんよ」
「そう言うのとは違うのよ。退行しているの」
退行、という聞きなれない言葉に目を瞬かせると、ヨランダは憶測だけど、と前置きした。
「人は極度のストレスを与えられると、心を守るために幼い頃の精神状態に戻るの。ミレイユは白霧の森で長期間過ごしていたから、そのストレスはかなりのものだったはず」
「じゃあ、異常に幼い言動をするのは、ストレスによるその退行が原因ってことですか? また身の危険が迫った時は、その退行が一時的になくなって、元の精神が戻ってきてるってことですか?」
「本来はあり得ないけれど、その可能性もあるわ。単純に、二重人格になっているかも知れないけれど」
「そんな……」
この冷たい大地を抜けて故郷に戻っても、ミレイユは元通りの生活を送れるのかマルクは不安になった。二重人格か、あるいは退行という病気に侵されていれば、周りの人間から迫害されたり、まともに生活することも難しくなるだろう。彼女は望まずして白霧の森に送られたのに、この仕打ちはあんまりではないか。
「どうにかできないんですか?」
「私にはできないわ。大きな都市に行けば精神病を見てくれる医者がいるから、そこでなんとかするしかないわね」
「そうですか……」
そういうことなら、尚のこと早くこの大陸から出なくてはならない。だが、アシル村を狙う白霧の魔物はいつ来るかも分からず、この戦いもいつまで続くのか皆目検討がつかない。白霧の魔物を倒せるのは、今のところミスリル級のディマオンとヨランダだけで、アシル村の人間では太刀打ちできないだろう。
つまり、アシル村の人間がミスリル級の実力者になるか、敵の襲撃が収まるまでは、旅の再開はできないのだ。
「ちゃんと、この大陸を出られますよね」
「出て見せるわ。今はやるべきことをやるしかない」
………グオオオオオオォォォォ………。
遠方から、雪にぼやけるようにして獣の叫びがくぐもって聞こえた。
村人にも聞こえたのだろう、弛緩していたアシル村の雰囲気は一瞬で殺伐としたものになった。
「ロニヤ、ガストー! 弓を持って見てこい! 女子供は祭司と一緒に隠れるんだ!」
村長の次に年嵩の男があちこちに指を差しながら、一人一人に指示を飛ばしていた。祭司と女子供は建物の中へ、そして戦える男たちは武器を持って壁の出入り口へ陣取り、壁の上では弓を持った二人が矢をつがえた。
マルクもヨランダと顔を見合わせ、ヨランダはミレイユの方へ、マルクはジョンスの方へと向かった。
「ジョンス! 敵だ!」
「んぉあ? てきってなんすかぁ?」
「寝ぼけてる場合じゃない! とりあえず武器持て! おれから離れるな!」
「え?え?」
まごまごするジョンスに彼の愛剣を押しつけて襟首を引っ張る。それから壁に備え付けられた梯子によじ登り、マルクは雪に沈む森へ目を凝らした。高台に上ると、今まで感じられなかった血の匂いがむわりと全身にまとわりついた。敵はかなり近い。
「いたぞぉー!」
「ディマオンが戦ってる!」
村人が指し示す方へ振り返ると、雪煙と鮮血が梢に飛び散った。見慣れた斬撃の燐光が弧を描き、その度に魔物の断末魔が放たれる。その余波に巻き込まれた杉の木が、まるで玩具のように次々に切り倒され、激しい地響きを村まで届かせた。
「ディマオンさん!」
マルクが叫ぶと、白くけぶる地面から見慣れた巨躯が飛び上がる。ディマオンだ。その肩には血まみれの村人二人が抱えられており、足元では村の砦へ向けて必死に逃げてくる他の村人の姿もあった。一番後ろには村長の姿もある。
「追撃に向かってた連中だ!」
「早く門を開けてやれ!」
「でもどうやって!」
外壁の下では村人たちが混乱して駆けまわっていた。ミレイユが作り上げたこの外壁は、山神の洞窟に続く道の方角にしか出入口が用意されていない。ディマオン達がいるのは反対側の、隙間なく岩が敷き詰められた壁しかない。これではディマオン達が遠回りをしなければ安全な村の中へ入れることが出来ない。
マルクは咄嗟に馬車の方を振り返って怒鳴った。
「ミレイユはどこだ!」
「連れてきたわ!」
ばさり、と上からロングスカートを広げてヨランダが飛び降りてきた。そしてその脇からミレイユが下ろされ、彼女たちの腕から魔力の輝きがほとばしった。
「お願いミレイユ!」
「うん!」
がこん! と足元の壁が一部窪んだかと思うと、壁の一部が地面に消えた。さらにヨランダの魔法が、地面に亀裂を作りながら一瞬で魔物たちと足元へ疾走する。そして、村人たちの背後で魔物を分断するように、巨大な地割れが口を広げた。
「な、なんだこれは!」
村人からしてみれば魔物の攻撃に見えたのかもしれない。弓を持った二人の村人が警戒しながら壁にしがみつくが、深い地割れの中へ魔物だけが落ちていくのを見て唖然としていた。
「まさか、これはヨランダさんが!?」
「すごいぞ、これなら!」
勝機を見出す二人から離れた場所で、しかしヨランダは肩で息をしていた。
「み、ミレイユ。ディマオン達が入ったらすぐにこの壁を閉じるのよ! いいわね!」
「う、うん」
ミレイユは集中しながら手元に魔力を集める。その横でヨランダもまた魔法の詠唱を始めたが、すぐにその場に崩れ落ちてしまった。
「ヨランダさん!」
「……平気よ」
「そんなわけないじゃないですか!」
ヨランダはアシル村に来てからずっと怪我人の看病を続けて、村を守るために魔力を使い続けているのだ。碌に休めていないのに、まだ戦おうとするのは無理だ。
「ヨランダさんは休んでいてください。おれが代わりに出ます!」
マルクはディマオンの殿になるために壁から飛び降り、壁から数メートル離れた先で剣を抜き、構えを取る。目前には雪煙を吹き上げながら向かってくる魔物の軍勢と、血塗れになりながら村人を抱えて逃げるディマオンと村人の姿。足元が震えるほどの魔物の足音に当てられ、マルクの手のひらに汗が滲み、冷たい柄に熱がこもり始めた。
冷たい空気で体が冷え切らないように薄く息を吸い、限界までため込んだ空気をゆっくりと深く吐く。
そして、ディマオン達がマルクとすれ違った瞬間。
「せいやぁ!」
左右、巨大なバッテンを描くように切り込む。ドレイクの技、門を守るため、眼前に迫る無数の敵を吹き飛ばすための斬撃だ。
剣先に触れた魔物たちは胴体を分断され、悲鳴を上げながら落下していく。だが切り飛ばせたのはたった五体。ディマオンが本気を出せばこの魔物の群れも一瞬だろうが、マルクでは無理だった。
だが足止めぐらいならできるはず。すべてを殺しきるのではなく、前衛の奴らの肉壁でこの道を防ぐ。
「うおおおお!」
腕を振るうたびに鮮血が飛び散り死体の山が積み上がっていく。だが魔物たちは仲間の死体を踏みつけてまでマルクへ飛びかかってきた。側面から村へ向かおうとする魔物を余さず切り伏せるが、数が多すぎるせいですぐに押され気味になる。しかも後続の魔物ほど体が大きなものになっていき、こちらの攻撃が届くより早く魔物の爪が近くを掠めるようになり始めた。
一瞬だけ後ろを確認するが、まだ村人たちは壁の内側に入れていない。
「くそっ! ぐあっ!?」
ついに魔物の牙がマルクの腕をとらえた。骨に響くほどの衝撃と激痛が手首付近をえぐり飛ばし、肉片と血しぶきが雪を真っ赤に染め上げた。
「マルク! もういいから戻ってくるっすよ!」
後ろでジョンスの叫び声が聞こえるがマルクは動かなかった。正確には、魔物の攻撃を防ぐので手いっぱいで、とてもそれどころではなかったのだ。魔物たちは村を攻めるより孤立したマルクへ狙いを定め、がむしゃらにこちらへ飛びかかってくる。統率が取れていないにしても、数が数だ。雨あられのごとく、絶え間ない来襲になすすべもなくマルクは押されていった。
やはり自分では、ディマオンのような英雄にはなりきれないようだ。
ディマオンはもう壁の中に避難できただろうか。ミレイユが遠くで泣き叫んでいるような気がするが、全身を切り裂かれて朦朧とした意識では後ろを確認する余裕もない。
吸ってばかりで吐くことを忘れていた肺が無理やり息を吐きだした。同時に熊の魔物のかぎ爪が真上から降ってくる。咄嗟に剣で受け止めたが、度重なる攻撃によってついに剣がへし折れ、マルクの胸元を引き裂きながら爪が通り抜けていった。
そして背中に強い衝撃が走り、腹に穴が開いた。イノシシ型の魔物の牙が傷口から顔を覗かせている。
腹をやられたら終わりだ、というドレイクの言葉が脳裏を駆けた。
「マルク! マルク!」
「アンタ英雄だろ! 早く助けろよ! こんなところでへばってんじゃねぇ!」
「ありったけ矢を撃て! 魔法はまだか!」
「あれはもう手遅れだ! 門を閉めてくれ! 魔物が入ってきちまうよぉ!」
「もういやぁ! 誰かどうにかしてよぉ!」
過呼吸と酷い耳鳴りに襲われ、マルクはようやく、自分がパニック状態に陥っていることに気づいた。自覚すればもう体は言う事を聞かなくなり、握りしめていた手元から、へし折れた剣が雪に沈んだ。
ぼやけた視界の向こうで、熊型の魔物が大きく咢を広げる。唾液が顔に滴り、濃密な死の香りが顔を温めた。
「マルク――――ッ!!」
ぐしゅ、と生々しい音が耳を濡らし、マルクの視界は真っ赤に染まった。




