(9)引っ越し
もう数十分もすればシャルを迎えに兄達がこの近くまで来るだろう。一応拠点の位置を誤魔化しはしたが、見つかるのも時間の問題である。俺の兄弟げんかに少女を巻き込むわけにはいかなし、今日のうちに引越ししなくては。
夜明けに洞窟に戻ると、俺は残っているウェンドベアの肉を胃に一杯詰め込んだ。それから昨日殺したばかりのブランオスターを手早く解体する。足の魔部はどうせ魔力がそれほど集まらないだろうし適当に引きちぎる。
俺が慌ただしく旅支度をする音に起こされたか、少女が不快そうな声を上げて起き上がった。まだ朝というには暗い洞窟の外を半開きの目で眺めてから、俺の姿を見てこてんと首を傾げた。その拍子に肩から白いコートがずり下がって、また寒そうに丸くなってしまう。まだ眠そうなところ悪いが、解体し終わったブランオスターのそばで尻尾を振って少女をこちらに呼んだ。目をこすりながら仕方なさそうにこちらに駆け寄ってくる少女に、今度はブランオスターの肉を渡す。
少女はぐぅ、と腹を鳴らしながらそれを受け取ると、すぐに洞窟の地面に刻んだ焚火の魔法陣に向かっていった。
彼女の食事が終わったらすぐに出かけよう。俺はそう決めて、ぐるりと洞窟の中を見渡した。ほんの一か月ちょっとお世話になったこの洞窟は、ほんの少しだけ生活感が見て取れた。少女がお風呂に入れるように俺が削り出した石のバスタブや、魔部を研いで作ったナイフ、ウェンドベアの毛皮の残骸。人工物と野生が入り混じっている不思議な空間だが、俺なりに気に入っている場所だった。いつまでもいられないと分かっていても、シャルさえ来なければもう少しいられたんじゃないかと未練たらたらだ。
こればかりは背に腹には代えられない。早く諦めて夜逃げの準備をしなければ。目下の問題は保存してある食料を少女がどれぐらい食べられるかだ。俺のように胃袋に詰め込んで一か月以上飲まず食わずで過ごせるならいいが、人間にそんな芸当が出来るはずがない。持っていけるだけ持っていきたいが、ソリがなければ大した量も運べないだろうし。
ふと俺はウェンドベアの毛皮を見ていいことを思いついた。
あれに、『貯蔵庫』の魔法陣をかけるのではないか?
現在俺と少女は自分の装備でいっぱいいっぱいで、とても巨大なダチョウの肉、それも解体済みでバラバラしたものを持っていく余裕はない。だが貯蔵庫の魔法陣があれば、何も問題なく持っていけるじゃないか。
俺は少女が持ち運ぶのに手ごろな毛皮の切れ端を取り、裏側に魔法陣を描こうとする。しかし途中で気づいた。俺が描けば間違いなく失敗する。以前描いた床にある焚火の魔法陣でさえかなりの大きさになっている。それをこの小さな切れ端に、しかも爪で削る様に描くとなるとかなり至難である。
むっと顔に皺を寄せると、背後でトタトタと少女が駆け寄ってきた。
「xjiv ut jiqqom?」
見下ろすと、きょとんとした表情の少女が足元にいた。心配してくれているようだ。俺は右手でとんとんと毛皮の切れ端を叩いて、それから左手の爪でガリガリと魔法陣を彫っていった。複雑なそれを数分かけて丁寧に描く。
少女は俺の動作でどうして欲しいか理解したらしく、人差し指と親指で輪っかを作りながら笑顔で大きく頷いた。
「al! aj,cev xaenf zae vilo diso ag vjiv poov?」
言いながら少女は後ろの方を指さした。見ると、火にかけられたブランオスターの足がある。あれをいい具合になるまで見張ればいいんだな。俺は頷いて、焚火の魔法陣のほうへ歩いて行った。
魔法陣には十分に少女の魔力が補填されているようで、俺が近づいても一瞬消えかけただけで、すぐに元の火加減に戻った。なんか、あの子の魔力の扱いが上手くなっている気がする。
俺は少女の成長具合に感心しながら、ブランオスターの足を右手の指で挟むようにして、丁寧に焼き始めた。思えばこの魔法陣を作ったのはここに住み始めてから結構序盤だった気がする。一か月間の生活を示すように、魔法陣の上には肉から零れ落ちた油がしみ込んでところどころ黒く染まっていた。へたくそに歪んだこの魔法陣がいつまでもここに残ると考えると、喉の奥が冷たくなったり顔がムズムズしたりしてきた。
それから数分。
軽い足音が駆け寄ってきて、俺の背中をぺしぺしと叩いてきた。振り返ると、少女は毛皮の切れ端を広げて見せた。そこにはウェンドベアのナイフで掘ったのであろう、俺が描いたよりも綺麗な魔法陣が収まっていた。
「Jajan!」
可愛らしい効果音まで付けて、少女は自慢げに笑ってくれた。
かわいい。もっかいやってほしい。
俺が尻尾をぶんぶん振り回していると、パチッと焚火の方から音がした。肉も丁度いい感じに焼けたので、物々交換の形で少女の持つ魔法陣と交換する。
隣で肉に齧り付く少女を横目に、改めて魔法陣の出来栄えを確認する。抜けた数式もなく、属性の書き間違いもない。完璧である。俺はそれを破かないように慎重に片手で持ちながら、三本足で残りのブランオスターの肉の元へ行く。
陣を敷いて、その上に肉を置こうとしてハッとする。俺魔力持ってねぇし、魔法陣も使えねぇじゃん。
しぶしぶ肉を地面に下ろすと、くいくいっと尻尾を引っ張られた。案の定、少女である。俺は少々期待しながら、肉を魔法陣に乗せて魔力を込めるような仕草をしてみせた。
どうだ?
少女は俺と魔法陣を交互に見て大きく頷くと、俺が示した通りに肉を持ってきて、魔法陣に魔力を流し始めた。魔法陣が白く輝き始めると、肉がみるみるうちに魔法陣の中に沈んでいく。自分が組み立てた魔法陣が順調に作動したのを見て俺は思わずその場で飛び跳ねてしまった。
取り込みは成功した。あとは取り出せるかの確認をしたいところだが、しかしどうやって伝えればいいんだ?
喜びから一転その場で正座して耳を垂れている間に、少女は楽しそうに次々と肉を突っ込んでいく。まぁ、取り出しの確認は後でいいだろう。この様子なら異空間に吸い込まれて二度と出てこないという事もないだろうし。
あらかた肉が消え去ったところで、俺は魔法陣をくるくると筒状に丸めて少女に持たせた。ついでに洞窟の隅に置いてあったウェンドベアの爪を加工したナイフを少女に渡す。少女はそれを受け取ると、腰に巻いた紐で器用にそのナイフを結んでいき、腰に下げるようにした。
いいなぁ、剣を鞘に収めてる感じで懐かしい。
何か変な考えが浮かんだ気がして、俺はハッと我に変えると少女をさっさと背中に乗せた。一週間前から骨折が治り始めていたおかげで、少女は俺がしっぽを使わずとも自力で背中に乗ってくれるようになった。自分で動けるようになったうえに肉を毎日食べているから、最初のころよりも筋肉がついて、少女の重みをしっかり背中に感じられる。
少女はたぶん、もうこの洞窟に戻ることはないと察しているのだろう。俺の背中を叩いて洞窟のほうに顔を向けさせた後、少女は両手を振って洞窟に別れを告げた。
「Too zae ihiep!」
ああ、そうだな。また帰ってこれたら。
俺も洞窟へ向けて一つ吠えておく。自分の声が洞窟に反響して、奥のほうから真っすぐと俺に帰ってきたような気がした。
俺は鼻を鳴らして今度こそ洞窟の外へと顔を出す。そっと臭いを嗅いでみたが、まだ兄達の臭いは遠く、こちらに近づいてくる気配もない。もう一度洞窟の中に忘れ物がないのを確認すると、俺達は勢いよく外へ飛び出した。
向かう場所は南。温暖な土地なら、少女も寒さに震えて過ごすことはないだろう。寒いだけで代わり映えのないこの森より、きっと過ごしやすいはずだ。
曇り空よりも白く明るい雪を黒い足で踏みしめるが、今日だけは雪が湿って音がしなかった。この雪が消えた先の本物の大地を夢見て、俺は本格的に走るスピードを上げていった。




