01.俺は妹が欲しい
妹というものは、神聖な存在だと思っていた。
少なくとも、俺にとってはそうだった。
世の中には、妹がいるという理由だけで羨ましがられる人間がいる。教室で何気なく、
「昨日、妹がさあ」
なんて話している男子を見るたびに、俺は心の中でため息をついた。
なんという贅沢な悩みなのだろう。
妹が宿題をしてくれない。
妹がテレビのチャンネルを変える。
妹が冷蔵庫のプリンを食べた。
――そんなもの、妹がいない俺からすれば、贅沢以外の何物でもない。
俺には妹がいない。
兄もいない。
弟もいない。
要するに、一人っ子だ。
別に、親に愛されなかったわけじゃない。むしろ逆だったと思う。
母さんも、俺には十分すぎるほど優しかった。
それでも。
家に帰って「ただいま」と言ったときに、
「おかえり」
と返してくれる同年代の声があったなら。
学校で嫌なことがあった日に、
「兄ちゃん、今日どうしたの?」
なんて訊いてくれる人がいたなら。
夜、眠れないときに、隣の部屋から小さな生活音が聞こえてきたなら。
俺の人生は、もう少し違っていたのかもしれない。
――そんなことを、俺は子供のころからずっと考えていた。
だから妹という存在に、俺は勝手な幻想を抱いていた。
朝、俺より先に起きて、
「お兄ちゃん、朝だよ」
なんて優しく起こしてくれる。
学校から帰れば、
「お兄ちゃん、おかえり!」
と笑顔で迎えてくれる。
休日には、
「ねえ、お兄ちゃん。一緒に遊ぼうよ」
と袖を引っ張ってくる。
そして何より。
妹というものは、兄を尊敬しているものなのだ。
少なくとも、俺の知っている漫画やアニメやゲームの中ではそうだった。
だから俺は思っていた。
いつか妹ができたら――俺の人生は、きっと素晴らしいものになる、と。
我ながら、ずいぶんと馬鹿げた願いだったと思う。
でも、その日の俺は、本気だった。
放課後の駅前で、困っている一人の女性を見つけるまでは。
◇
「……どうしよう」
駅前のベンチで、女性が困った顔をしていた。
年齢は、俺より少し上に見える。
手にはスマートフォン。
足元には、買い物袋。
何度も画面を確認しては、小さく首を傾げている。
俺は一度、その横を通り過ぎた。
別に、珍しい光景ではない。
都会では、誰だって困った顔をしている。
スマホの使い方が分からない人もいるし、道に迷う人もいる。電車を乗り間違える人だっている。
その全部に首を突っ込んでいたら、きりがない。
だから、一度は通り過ぎた。
……通り過ぎた、はずだった。
「…………」
足が止まった。
自分でも、嫌になる。
見なかったことにすればいい。
関わらなければいい。
俺が助けなくても、誰かが助けるかもしれない。
そう考えているのに。
体だけは、勝手に戻っていた。
「……大丈夫ですか?」
声をかける。
女性が顔を上げた。
「え?」
「何か困ってます?」
言ってから思う。
余計なお世話だったかもしれない。
ナンパだと思われたらどうしよう。
怪しい人間だと思われるかもしれない。
それでも女性は、少し驚いたあと、
「実は……この駅から、目的地までの行き方が分からなくて」
とスマホの画面を見せてきた。
「ああ、それなら簡単ですよ」
俺は画面を覗き込む。
「この路線で二駅です。そこから歩いて――」
説明しているうちに、女性の表情が少しずつ明るくなる。
「ありがとうございます」
「いえ」
「助かりました」
「どういたしまして」
それだけだ。
本当に、それだけだった。
礼を言われて、俺はその場を離れようとした。
「待ってください」
呼び止められる。
「はい?」
「あなたは、人が困っていたら助けるんですか?」
「……え?」
女性は笑っていた。
けれど、その笑顔には少しだけ不思議な感じがあった。
「さっきもそうでしたけど。最初は通り過ぎようとしてましたよね?」
「……見てたんですか」
「はい」
「だったら、なんで分かったんです?」
「分かりますよ」
女性は、当然のように言った。
「人間をずっと見てますから」
「……それ、ちょっと怖いですね」
「ふふ」
笑う。
変な人だ。
そう思った。
けれど次の言葉を聞くまでは。
「あなたって、願い事とかあります?」
「……願い事?」
「はい。叶えたいこと」
宗教の勧誘かと思った。
新手の詐欺かもしれない。
けれど、不思議なことに。
その瞬間だけ、俺の頭の中には、ずっと昔から考えていたことが浮かんだ。
「……あります」
女性が首を傾げる。
「何ですか?」
俺は少しだけ迷って。
それでも、答えた。
「妹が欲しいです」
言った瞬間、女性が黙った。
「……」
「……何ですか」
「いえ」
女性は、困ったような顔をした。
「もう少し考えてから答えたほうがいいと思いますよ?」
「考えました」
「本当に?」
「本当に」
「もっと人生に関わる願いとか……」
「妹がいいです」
「お金とか、才能とか、恋人とか」
「妹がいいです」
「世界平和とか」
「それは無理でしょう」
「急に現実的ですね」
「だって俺、一人っ子なんですよ」
気づけば、俺は少し笑っていた。
「ずっと欲しいんです。妹」
女性は何も言わなかった。
ただ、まっすぐ俺を見ていた。
その視線が、妙に優しかった。
「……分かりました」
「え?」
「あなたの願い、叶えてあげます」
「はい?」
「ただし」
女性は人差し指を一本立てた。
「一つだけ、忠告があります」
「何ですか?」
「妹というものに、あまり夢を見すぎないことです」
「…………」
「妹は、人間ですよ」
その言葉の意味を。
俺は、そのときまだ理解していなかった。
理解するつもりも、なかった。
なぜなら俺は。
妹という存在を、ずっと夢見ていたからだ。
理想の妹。
可愛くて。
優しくて。
兄を慕って。
兄を尊敬して。
何より――。
俺を必要としてくれる。
そんな妹を。
ずっと。
ずっと、欲しかった。
だから。
このあと家に帰って、母さんから「大事な話がある」と言われたときも。
俺はまさか、それが人生を変える話だなんて思っていなかった。
ましてや。
翌朝、見知らぬ少女と同じ食卓を囲むことになるなんて。
その少女から、開口一番、
「ねえ、兄貴。コンビニ行ってきて」
と言われるなんて。
このときの俺には、想像すらできなかった。
そして俺は、この日初めて知ることになる。
妹というものは。
俺が思っていたほど、神聖な存在ではない。
――というより。
たぶん。
ものすごく、面倒くさい。




