7521左目の
葵は男の顔を見て心臓が止まった。
(左目の刀傷――)
片桐左京。
佳代を、そして蒼井直清を殺した仇。
葵の容姿は蒼井直清と瓜二つ――さっと視線を伏せるが、片桐は葵の頭巾を剥ぎ取り、下から顔を覗き込む。
「あんた蒼井? なにしてんの、こんなとこで」
(気づかれた――)
至近距離の彼の瞳は、今まで出逢ったどんな男とも違う。
濁り腐りきった、水底の砂利のようだ。
頭の中で警告音が鳴り響く。
「私は、あなたのことは……存じませんが」
片桐の口元がにやりと歪んだ。
次の瞬間、あっ、と言う間もなく、襟元から恐ろしく冷たい手が忍び込んだ。
「あれ、女か」
「いやっ……!」
叩こうと上げた手刀が空を切り、地面に崩れ折れた。
片桐が抜いた手には、いつの間に奪ったのか葵の短剣が握られている。
空いた片手が葵の髪を乱暴に掴み、顔を上げさせた。
「ねえ? ただの女がどうしてこんなもの持っているのかなあ?」
「っ……」
「おい、女に乱暴するな!」
男が止めに入ると、片桐は葵を地面に落とした。次に「ぐぅっ……」低く呻きが漏れて、男は倒れ込んだ。
男の脇腹からは月に光り、赤黒いものが流れ出ていた。
周りの者が一斉に後ずさる。
「ひぃっ!」
「片桐! なぜ刺したっ!!」
「いや、邪魔されたんで腹たっちゃって」
片桐はにこにこと笑みを浮かべながら葵に近づいてくる。
(まずい、短剣も奪われている)
尻をついたまま後ろに下がると、ぬるみに手が滑った。
葵は、片桐が殺った男の血溜まりに追い詰められていた。
「男でも女でも……愉しませてくれるならいいか」
片桐が低く構える。
葵は咄嗟に、倒れた男の剣を抜刀した。
右手の組紐が燃えるように熱くなり、直清の未練が暴走しかける。
(直清さん、駄目……生きて償わせるの)
左手で組紐を抑え込む。
「止まってる場合か?」
片桐が飛び込んでくる。
「くっ……」
相手の軌道は見えている。
全て受けているつもりなのに、肩、腕、腿、と着物が裂けていく。
あくまで肉に到達しないよう、甚振るような剣に、じりじり追い詰められる。
「はっ……はあ……」
(……組紐の力がないと、打ち合うことすら敵わない)
――生まれついての人斬り
そう言わしめた片桐左京は、まさに首輪をなくした狂犬だった。
圧倒的な実力差。
無力感に打ちのめされそうになる。
それでも、呑まれるわけにはいかない。
刀を構え直すと、片桐は嗤った。
「そろそろ限界だろう?」
右腕がしなったと同時に鋭いかまいたちが飛ぶ。ぴっ、と頬に痛みが走り、血が流れた。
「楽にしてやるよ」
一振りが、闇夜で鮮明に光った。
「葵!」
沖田の声がして、
その瞬間、葵は片桐に後ろから羽交い締めにされた。
「新選組か!?」
ざわめく浪士達を制して、片桐は新しい獲物を、じっくり観察する。
やがて目が蛇のこどく細まり、赤い舌が覗いた。
「へえ、新選組一番組組長……沖田総司、か」
沖田は踏み込めば届きそうな距離にいる。いつも通りに見えたが、気配がいつもと違う。
(来ないで)
目で訴えるも、沖田が一歩地を踏む。
片桐の指が葵の喉にかかった。
「うっ……」
氷のような指が、真綿で締めるように優しく喉を絞めていく。
「離せ」
静かな声なのに、その奥底には果てない感情が押し込められ、片桐ですら半歩後ずさった。
「……へえ、あんたの女か?」
「ちが……」
否定したいのに、絞められた喉奥で声が握り潰される。
「女を離してほしければ、こいつらを斬り捨てろ」
片桐が顎で合図すると、浪士たち四人が雄たけびを上げて沖田へ飛びかかる。
しかし沖田の無駄のない剣さばきで、あっという間に敵は地面へひれ伏した。
片桐は左目の傷をうごめかす。
「沖田、随分温いな。俺は斬れと言ったんだが」
「……彼等はお前の同志だろう?」
「同志? ただの雑魚だ」
それでも動かない沖田に、片桐は苛立ち、喉の締め付けを強くする。
「か、はっ……」
千切れる呼気が、白い吐息になって闇夜に浮かぶ。
沖田の瞳孔が開く。
「やめろ!」
彼の肩は葵に呼応するかのように、苦しげに上下している。
「三十秒だ。それ以上は、首を折る」
沖田の瞳が暗く光る。
倒れていた一人が飛び上がり――血飛沫が飛んだ。
「ぐあぁ……」
浪士は斬られた肩を押さえてうずくまる。
沖田は刃の血を叩きつけるように振り捨て、他の者へ視線を投げる。
「時間がないんだ、次」
「た、助けてくれ……」
誰もが戦意喪失し、向かって行かない。既に刀を捨てた者もいる。
平時なら、これ以上刀を振るう理由はない。
沖田の柄を握る手が刹那に緩んだ。
「あと二十秒だぞ」
高笑いが響く。
「新選組の誠……どこまで保つか見ものだな!」
沖田は冷酷無比な仮面を張り付け、刀を握り直した。
「来ないなら、こちらから行く」
――抑圧し、痛みや苦しみを極限まで鈍麻させた、人斬りの顔。
及び腰の浪士たちが斬りかかる。
「そうだ、もっと魅せろ!」
聞くに堪えない呻きが、血が、石垣に反響する。
葵は白濁する意識の中で、惨状が遠くの出来事に思えた。




