1-1あさぎの羽織をひるがへし
160年前の幕末――血の匂いを孕む激動の時代。
これは、どこにでもいる女子高生が、幕末で人生を掴み取る物語。
◇
見られている。
葵は左から、痛いほど視線を感じていた。
そこには新選組の写真がでかでかと貼られている。
「お父さん、これやっぱり剥がそうよ」
父は雑誌から顔を上げた。
「いいじゃないか。新選組は男のロマンがあって――」
「はいはい……」
葵は朝食の席を立ち、仏壇の前に正座をする。
「お母さん、今日で18歳になったよ……」
写真の母の淡い笑顔――それが葵を責めているように見えて、目頭を指で押さえた。
母は、幼い葵が赤信号に走って行ったのを庇い、車に轢かれて死んだ。
父は葵が立ち上がると、急いで雑誌に目を戻した。
「今日はずいぶん早いな。剣道の朝練か?」
「……うん、あとは日本史の補習」
「もう少し父さんの話を聞いてたらよかったんじゃないか?」
「残念だけど、私は新選組に興味ありませーん」
お決まりの軽口を叩き、剣道の稽古着の上から防具を背負う。
出掛けに、葵は父を見た。
「今日も遅いんでしょ?」
「……あぁ。葵の誕生日は日曜にお祝いしよう。ごめんな……」
――べつに平気だよ
こう言えば、父の困ったような笑顔が見られるだろう。だけど葵は、黙ってスニーカーをつっかけた。
自転車にまたがると、長い黒髪と木綿の白袖が揺れ、背中の防具も小さく弾む。
剣を振り下ろす時の風切り音と、手の熱。木と汗の匂いに包まれている時だけは、葵は自分の存在が赦される気がした。
家にも学校にも居場所はある。それなのに――葵は常に自分が借り物であるような気がしていた。
ちかちかし始めた青信号を前に、タイヤがぷしゅっと嫌な音を立てた。
「うわ……パンクか。ついてないなぁ……」
袖を払って自転車を降りる。
その葵の横を、小さな女の子が笑いながら走り抜けて行った。
はっと見た先の信号は、赤。
左からはトラック。
けたたましいクラクションが耳をつんざく。
白線の上でうずくまる女の子が、幼い自分と重なった。
葵は駆け出していた。
女の子を突き飛ばした葵は、トラックとぶつかる瞬間目を閉じた。
全てが薄闇に包まれていく。
低い声が葵の意識に響いた。
――仇を討て
(あなたは、誰?)
――蒼井直清だ。俺はお前の前世。俺の代わりに仇を討つんだ。
(仇って?)
――左眼に傷のある男だ。組紐から力を貸す。決して女と悟られるな。命に関わる。
髪を引き掴まれて、ぶつっと何かで切られる感覚がした。
待って、と手を伸ばしたときはっきり見えた。
舞い散る自分の黒髪と、あさぎ色の だんだら羽織がひるがえるのを。
それを最期に、
薄闇は真暗闇に色を変えた。
◇
「おーい、あおいさーん」
誰かが呼んでいる。
木と汗が混ざったような、かぎ慣れた匂いがした。
「駄目だ、起きねぇな。おい総司、こいつ脱走しようとしたんじゃねぇか?」
「でも、それならわざわざこんなとこに戻ってきます? 土方さんなら――」
(総司、土方――?)
葵は飛び起きた。左右に男がいる。
両方とも、時代劇のような髪と服装だ。
右側の、甘い顔立ちに似合わない鋭い目の男。毎日嫌というほど見た顔――土方歳三。新選組の鬼の副長だ。
ばっ、と左の男を見る。
「あなたは沖田総司さんですか……?」
「そうですが……」
身体の力が抜けた。
ここにいたのが父だったら泣いて喜んだだろう。だが、今の葵にそんな余裕はない。
沖田が何か言いかけたが、葵は被せるように質問する。
「ここ、どこですか? 今、何年?」
沖田はきょとんとする。
「……ここは壬生の稽古場。今は文久3年ですよ」
予想していた答えに、葵はふるりと肩を震わせた。
壬生は京都の地名。文久3年は1863年。
葵は、約160年前の幕末の京都にいることになる。
「あおいさん、巡察中に急に走り出したと聞いていますが……どこに行ってたんですか?」
「それは……」
それはこちらが聞きたかった。
ふと、首筋が涼しい気がして手をやった。
胸まであった髪がない。
頭を一周するように両手で確認する。
やっぱりない。
手触りからして、かなり短くなっているように感じた。
葵はよろよろと立ち上がる。
「鏡……ありませんか……」
「鏡だと? 男のくせにそんなもん見てどうすんだ」
土方に睨みつけられ、葵はぐっと喉を鳴らす。遅れて、彼らが葵を男と認識していることに気が付いた。
ぐるんと2人に背を向ける。
恐る恐るさらしを引っ張り、のぞき込む。小ぶりだが男性の胸には見えない。ついでに服装を確認すると、朝のままの稽古着だ。
身体も服も自分の物と分かりほっとすると、トラックに轢かれた後の記憶が整理されていく。
(そういえば……ここに来る前に蒼井 直清って人に仇を討てとか、女と気づかれるなとか……。私、その人の代わりにここに来たの!?)
「彼、混乱してるんじゃないですか? 頭を打ったのかも……」
沖田がひそひそ土方に話しかける。
土方はちっと舌打ちして、葵に乱暴に竹刀と防具を押し付けた。
「答えないなら、剣に聞く。おい、総司」
土方に顎で促された沖田は、気の毒そうに肩をすくめたが、じきに竹刀を手に取り、位置についた。
目眩がした。
これは、母に守られた命を粗末に投げ出した罰なのか。
せいぜい県大会止まりの自分が、後世で誰もが知る剣の天才と打ち合えるわけがない。
良くて気絶か、悪ければ――
葵は後ずさった。
「冗談ですよね?」
「だと いいんだけど」
あっけらかんと言う沖田の声は、土方の怒声に掻き消された。
「男児たるものぐずぐずするな!」
(女児なんですけど……)
半ばやけになり、竹刀を構える。
目の前の沖田は防具も付けず、やる気がなさそうにだらりと竹刀を下ろしていた。
(あれ?)
自分の右手首に、見覚えのない朱色の紐が結ばれているのに気がついた。さきほど蒼井直清に託されたものだった。
不意に組紐が熱を帯び、何かの映像が脳裏に流れ込む――
次の瞬間、葵は操られるように前へ出ていた。
ひらりと舞うように沖田に避けられ、振り向くと、鞭のような追撃。
葵が身を捩って繰り出した突きが、沖田の肩にわずかに掠る。
互いに後ろに一間跳ねた。
呼吸を整え、二人は向かい合う。
ようやく構えた沖田は、
「前と違うね」
と言い口端を緩める。その笑みに、葵は瞬きを忘れた。
わずかに沖田の剣先が揺れ――次には、剣が空を裂いて落ちてくる。
受けた腕が、骨まで響くように痺れた。
間髪入れず、下からの一閃。
葵の竹刀は弾き飛ばされ、弧を描き地に落ちた。
沖田が終わりを告げるように、片手で竹刀をしならせた。
場内はしんと静まり返る。
誰もものを言わず、どこかで蝉の声が聞こえた。
「……一体何なんなんだよ」
土方がぽつりと呟き、沖田もただ首を振る。
「総司、そいつ逃げないように見張っとけ。ちょっと出てくる」
葵は膝から崩れ落ちた。
(今の剣――本当に私? どうしてこんなに強くなってるの? 組紐のせい? なんなの……夢なら醒めて)
敷板の硬さと冷たさが、これが現実だといっていた。
父に『行ってきます』と言わなかったことが、葵の柔らかい部分を抉った。
仇を討てば帰れるのだろうか、それとも――
沖田はしばらく葵を見ていたが、近づくと穏やかに声をかけた。
「外に出て、団子でも食べましょうか」
「え……」
唐突な提案に、葵は目を丸くした。
「鬼のいぬ間に、ですよ」
そう言って沖田は、唇の前に人さし指を立てるのだった。




