悲睡蓮前編(2)
暑さに呆けて待っていると、漸く赤紫色の公共バスが来た。
予定より三分程遅れたバスの中はそれなりに混んでいたが、後ろの方は空席も目立ち、私は急いで一人掛けの席を確保する。
地元のバスは整備も悪く、空調があまり効いていない。
その為少しでも風を取り入れようと、どの席も僅かに窓が開いている。
自然の冷風に生き返る心地でバスに揺られていると、徐々に見慣れた景色が流れてきた。
父が通院していた病院。中学時代の通学路。寂れた商店街。
八つの停留所を過ぎた後、私も停車ボタンを押した。
駅から九つ目の公園前停留所が、私の実家の最寄りだからだ。
「ありがとうございました」
そう一声掛けて、私はバスを降りた。
目の前には小さく古びた公園の景色。
四角く切り取られたような空間を、広葉樹が覆うように囲んでいる。
公園とは名ばかりで、周囲には古い木製の長ベンチが端々に六つ並び、中心部に小さな池が一つという素朴な場所だ。
平日の昼過ぎという事もあり、辺りには人を見かけなかった。
薄い芝生に歩を進め、私は公園の池へと近づていく。
僅かな思いを胸に見渡した池にも、やはり睡蓮は咲いていなかった。
代わりのように池の端々には白い水仙が、暑さに負けず優しく揺れていた。
病院にも実家にも、近所の公園にも咲いていない。
ネットでも図書館にも緑色の睡蓮なんて無かった。
幾ら探しても見つからない花など、父は何処で見たというのだろうか。
疲労が増した気持ちのまま、私は改めて実家へと歩を向けていった。
※※※
深緑の三角屋根に、乳白色の外壁。
二階建ての三LDKという我が家は、築年数二十年の何処にでもある一軒家だ。
表の低い黒柵を押し開けて通り、玄関のインターホンを鳴らすと、数秒で反応が返ってきた。
『お待たせしました』
インターホンの小さなスピーカーから聞こえた母の繊細で柔らかな声に安堵を感じるのは、やはり家族としての愛情がある証拠なのかもしれない。
軽く会話を交わしてからドアを開けて貰い玄関に入ると、実家の穏やかで懐かしい香りがした。
家主と家は似ると聞くが、この家は父が生きていた頃と何も変わっていない。
薄茶色のフローリングに、乳白色の壁。家具も白や焦げ茶色の木細工が多い、素朴ながら優しい家だ。
決して父が亡くなった事で時間が止まったわけではない。
母なりに心に折り合いをつけて穏やかに生きている。
その結果、この家はあの頃と何も変わらず、穏やかで優しいのだろう。
「これ、お土産」
リビングに入るなり持ってきた紙袋を母に手渡すと、薄肌色の母の小さな手が僅かに触れた。
私自身成人女性の平均的な体躯をしているが、母はそんな私よりも僅かに背が低く、華奢な体躯をしている。
手首も指も細く、繊細な女性だ。
母と私は服装だけは似たものを好み、母も私も服も白系や淡い色のブラウスやカットソー。濃い色のロングスカートを好むが、親子とはいえお互い別の人間である。性格はかなり違う。
母は良い所のお嬢さんといった雰囲気で、良く言えば優しくて繊細。だが悪く言えば、人に強く物事を言えず心配性で、変化に疎い。
それに対して私は、良くも悪くも意見を伝える時ははっきりと主張する、行動する事を良しとする性格である。
そのせいで人間関係が難しい事も多々あるが、母のように誰とでも広い付き合いをしたいとは思えず、喩え小さな世界だったとしても信頼できる職場と人間関係があれば構わないのが私の考え方である。
「まあ、綺麗なゼリー」
リビングから見える白を基調としたキッチンの木製テーブルで、母がケーキ箱を開けて嬉しそうに呟いた。
「会社近くのお店で見かけたのよ。それなら食べれるかと思って」
会社近くの美味しいと評判な洋菓子屋のフルーツゼリーは、桃や洋梨がたっぷり入った甘さ控えめという、身体に優しそうなものだった。
小さな白い箱の中。
薄紅色の桃のゼリーと、透明な洋梨のゼリーが二瓶ずつ対角線上に収められていて、見た目も涼やかである。
私自身もそれをちらりと覗こうとキッチンへと一歩踏み込むと、食欲が湧く素朴な甘い醤油の様な残り香がした。
「肉じゃが?」
疑問交じりの私の呟きに、母が苦笑交じりに頷く。
「昨日の夕方から作っておいたのよ。貴女、唐揚げとかお刺身みたいな料理より、肉じゃがの方が好きでしょう」
母の言葉を否定できず、羞恥で僅かに頬が高揚した気がした。




