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悲睡蓮前編

挿絵(By みてみん)挿絵(By みてみん)年々過酷になる夏の暑さが、私の身体から水分と気力を奪っていく。

大学を出て社会人五年目となった今年。

母の強い希望に応えて、久しぶりの帰省をする事となった。

思えば三年も地元には帰っていない。

本来ならば懐かしさと郷愁に駆られるものなのだろうが、私の心にあるのは母や親族達からの結婚や子宝の催促と、田舎特有の閉鎖的思考についての煩わしさばかりで、唯一気になる事と言えば三年前に亡くなった父の言葉だった。

-睡蓮が咲いている。緑色の綺麗な睡蓮が-

私が大学卒業間近の頃に、父に心臓の病が見つかった。

完治は難しいが治療で進行を抑えられるという診断に、母と私は困惑を隠せなかったが、当の本人である父だけ冷静だった。

誰でも必ず死は訪れる。それが早いか遅いかの違いだけだ。

上手く病気と付き合えれば十数年も生きれるのだから大した事では無い。

そう前を向く父に、支えるべき側が慰められてしまったのだ。

それから母は父の通院に毎週付き添い、遠方で就職をした私は数カ月に一度実家へと帰省するようにしていた。

母は地元での就職を勧めてきたが、それを制して私の意思を優先してくれたのも父である。

-君の人生は君のものだ。取り巻く環境や人々に影響が無いとは言えないけれど、それは皆同じで、誰も誰かの人生に責任は取れないんだ。だから君は君の道を自分で選びなさい-

父のその言葉に私は意思を固め、母も泣く泣く説得を諦めてくれた。

今は亡き父だが、彼の言葉はいつも私の迷いを断ち切ってくれた。

だからこそ、父が残した睡蓮という言葉が忘れられない。

私の記憶にある限り、実家にも父が生前に通っていた病院にも睡蓮は咲いていなかった。

病院は病や怪我と戦う場所だが、皆が常に猛々しく在れるわけではない。

不安や苦痛、見守り支える者の心労等から逃避に駆られる事も少なくはない。

そんな時、ふと中庭を散策している時に大きな池があったとしたら。

その先へと歩を進めてしまう者も珍しくはないだろう。

現に病院の屋上は閉鎖されている事も多く、解放されていたとしても高い柵に囲われているものだ。

あれは落下防止の為と聞くが、私には人が一線を越えるのを踏み留まらせる為の物にも見える。

そういう策を幾つも張り巡らせている病院という戦場に、睡蓮が浮かぶ事は稀だと思うのだ。

最寄り駅の改札を通り、公共バス乗り場へと歩を進める。

地元の駅は簡素な木造平屋造りで、電車乗り場に改札。自動販売機と券売機という最低限の設備しか設置されていない。

出入口の前にはバスの停留所と時刻表が貼られており、あとの公共交通は電話予約対応のタクシーだけである。

紺色のスマホを片手に時刻を確認すると、次のバスが来るのは十五分後だった。

都会ならば長く感じる待ち時間だが、この町のバスは一時間間隔の運行である。

十五分待ちならばまだ良い方だ。

手荷物は薄茶色のハンドバッグと小さなケーキ箱が入った白い紙袋一つなので重くはないが、中途半端な時間が出来てしまった。

「緑色の睡蓮か。そんなもの見た事も聞いた事もないけど」

仕方が無いので暇つぶしにネット検索をしてみるが、やはり緑色の睡蓮など出てはこない。

白に青、赤紫に複色。色鮮やかな睡蓮の画像は幾つもあるというのに、緑色の睡蓮だけは一つも無かった。

諦めたようにスマホを閉じると、今度は左手で持っていた薄茶色のハンドバッグから、はっのどあめを一つ取り出して口に入れる。

口に入れて僅かに溶けた瞬間、喉や鼻に涼やかな香りが流れていった。

実は一昨日から少しのどが痛く、そのために常に薄荷の飴を持ち歩くようにしているのだ。

帰省を取り消す選択もあったのだが、二週間前に母が病院の定期健診で再検査をするように促されたらい。

気落ちした声でその連絡がきたので、連休を利用して病院に付き添うという約束をしたのだ。

これが毎年言われている寂しいだとか、たまには顔を見せろ程度ならば今年も帰省を断っただろう。

だが五年前の父の病の事がある。

それを思うと母の気落ちも無理はなかった。

暑さに呆けそうな気持ちで待っていると、ようやく赤紫色の公共バスがきてくれた。

予定より三分程遅れたバスの中はそれなりに混んでいたが、後ろの方は空席も目立ち、私は急いで一人掛けの席を確保した。

地元のバスは整備も悪く、空調があまり効いていない。

その為少しでも風を取り入れようと、どの席も僅かに窓が開いている。

自然の冷風に生き返る心地でバスに揺られていると、徐々に見慣れた景色が流れてきた。

父が通院していた病院。中学時代の通学路。寂れた商店街。

八つの停留所を過ぎた後、私も停車ボタンを押した。

駅から九つ目の公園前停留所が、私の実家に一番近いのだ。

「ありがとうございました」

そう一声掛けて、私はバスを降りた。

目の前には小さく古びた公園の景色があった。

四角く切り取られたような空間を、広葉樹が覆うように囲んでいる。

公園とは名ばかりで、周囲には古い木製の長ベンチが端々に六つ。

中心部に小さな池が一つという素朴なものである。

平日の昼過ぎという事もあり、辺りには人を見かけなかった。

薄い芝生に歩を進め、私は公園の池へと近づていく。

僅かな思いを胸に見渡した池にも、やはり睡蓮は咲いていなかった。

代わりのように池の端々には白い水仙が、暑さに負けず優しく揺れていた。

病院にも実家にも、近所の公園にも咲いていない。

ネットでも図書館にも緑色の睡蓮なんて無かった。

幾ら探しても見つからない花など、父は何処で見たというのだろうか。

疲労が増した気持ちのまま、私は改めて実家へと歩を向けていった。


 ※※※


深緑の三角屋根に、乳白色の外壁。

二階建ての三LDKという我が家は、築年数二十年のありふれた一軒家だ。

表の低い黒柵を押し開けて通り、玄関のインターホンを鳴らすと、数秒で反応が返ってきた。

『お待たせしました』

インターホンの小さなスピーカーから聞こえた母の繊細で柔らかな声に安堵を感じてしまうのは、やはり家族としての愛情が少なからずともある証拠なのかもしれない。

軽く会話を交わしてからドアを開けてもらい玄関に入ると、実家の穏やかで懐かしい香りがした。

家主と家は似ると聞くが、この家は父が生きていた頃と何も変わっていない。

薄茶色のフローリングに、乳白色の壁。家具も白や焦げ茶色の木細工が多い、素朴ながら優しい家だ。

決して父が亡くなって時間が止まったわけではなく、母なりに心に折り合いをつけて穏やかに生きている。

その結果、この家はあの頃と何も変わらず、穏やかで優しいままなのかもしれない。

「これ、お土産」

リビングに入るなり持ってきた紙袋を母に手渡すと、薄肌色の母の小さな手が僅かに触れた。

私自身成人女性の平均的な体躯をしているが、母はそんな私よりも僅かに背が低く華奢な体躯をしている。

手首も指も細く、か弱い女性を思わせるものだ。

服装こそ母と私は似たものを好み、母も私も服も白系や淡い色のブラウスやカットソー、濃い色のロングスカートを好んでいるのだが、親子とはいえお互い別の人間である。性格はかなり違うのだろう。

母は良い所のお嬢さんといった雰囲気で、良く言えば優しくて繊細。だが悪く言えば、人に強く物事を言えず心配性で、変化に疎い人だ。

それに対して私は、良くも悪くも意見を伝える時ははっきりと主張する、行動する事を良しとする性格である。

そのせいか人間関係が難しい事も多々あるが、母のように誰とでもそれなりに広い付き合いをしたいとは思えず、たとえ小さな世界だったとしても信頼できる職場と人間関係があれば構わない言うのが私の考え方である。

「まあ、綺麗なゼリー」

リビングから見える白を基調としたキッチンの木製テーブルで、母がケーキ箱を開けて嬉しそうに呟いた。

「会社近くのお店で見かけたのよ。それなら食べれるかと思って」

会社近くの美味しいと評判な洋菓子屋のフルーツゼリーで、桃や洋梨がたっぷり入った甘さ控えめという、身体に優しそうなものだった。

小さな白い箱の中。薄桃色の桃ゼリーと、透明な洋梨のゼリーが二瓶ずつ対角線上に収められていて、見た目も涼やかである。

私自身もそれをちらりと覗こうとキッチンへと一歩踏み込むと、食欲が湧く素朴な甘い醤油のような残り香がした。

「肉じゃが?」

疑問交じりの私の呟きに、母が苦笑交じりに頷く。

「昨日の夕方から作っておいたのよ。貴女、唐揚げとかお刺身みたいな料理より、肉じゃがの方が好きでしょう」

母の言葉を否定できず、羞恥で僅かに頬が高揚した気がした。

昔から母の肉じゃが好きで、誕生日でもクリスマスでも私が一番に強請るのは決まって肉じゃがだったのだ。

独り立ちしてから自炊や外食でも食べたが、やはり母の肉じゃがには敵う気がしなかった。

三年経っても母にとって私は大切な娘で、私にとっても母は身体を心配するくらいには大切な母親なのだ。

私が二階の私室に戻りバッグと乳白色の長袖カーディガンを脱ぎ、水色のブラウスと紺のフレアスカートという恰好で一階のリビングに戻った。

リビングの木製テーブルには、母がゼリーとアイスティーを用意してくれていた。

「部屋も掃除しておいてくれたのね」

テーブル挟むように二人掛けの白い布ソファに、母と対面で座りぽつりと私が言うと、アイスティーを口にしていた母が頷く。

「貴女がいつ帰ってきてもいいように、換気と掃除だけは毎日してますよ」

当然といった表情で言う母に、私は苦笑してしまう。

数分、アイスティーの中の氷が涼やかに鳴る音と、細い円柱のゼリー容器に僅かにスプーンが当たる音だけが流れた。

「ところで」

母の声に、ゼリーを口にしていた私の動作が一瞬止まった。

またお小言が始まるのだろうかと内心が冷えていく。

「貴女、体調悪いの?」

母の言葉に私が視線を向けると、母は苦笑いを浮かべ続ける。

「私だって母親なんだから、娘の体調くらい気が付くわよ」

そう告げる母に、私も僅かに戸惑いながら応える。

「うん、一昨日から喉が痛い。たぶん風邪だと思うけど」

頷き、私はさらに母に聞く。

「彼氏とか結婚とか、聞かないの?」

聞かれたくないなと思っていた事を自ら口にするのは気が引けたが、気になったままの方が居心地が悪い。自ら話を向けると、母はアイスティーを一口飲み、口を開く。

「母親だから、娘の将来が気にはなるわよ。でも、ここ数年貴女が帰ってこない事で気づきもするわ。娘に嫌われるくらいならもう聞かないし、貴女が今幸せならそれでいい」

あっさりと言い切る母だが、心配性なのはもはや性分だ。

それを隠してでも娘の気持ちを優先してくれるのは、きっと父の影響があったのだろう。

申し訳ないとは思いつつ、今はその優しさに甘える事にした。

「入院は明日からだよね」

話を逸らすように聞く私に合わせて、母が頷き応える。

穏やかな午後を過ごして夕飯と就寝準備を終えると、母と私は各々の寝室へと入っていった。

母の寝室は私の部屋の向かいで、それとは別に突当りに生前父が使っていた書斎がある。

書斎とは名ばかりで、四畳半の両壁が本棚で埋まっており、小さな円テーブルともたれが無い円椅子が一つずつあるだけの部屋なのだ。

明日からは数日一人だ。久しぶりに父の書斎を見るのも悪くないだろう。

明かりを消して、カーテンを閉めた部屋は薄暗い。

薄桃色の布団に入りゆっくりと目を閉じる。

疲れていたのだろうか。いつもより身体が重く、あっさりと意識が薄れていった。


 ※※※


気が付くとそこは深い森の中だった。

空は高く、伸びた樹木の青々とした木の葉に覆われて、隙間から青い空が見える。

空が青いという事は日中なのだろう。足元は雑草や木の根が這っていて、人の手が一切入っていないようだった。

自身の格好は薄橙色のカットソーに焦げ茶色の膝丈フレアスカートにミュールという、森を歩くのに不適切この上ない格好だった。

この時ばかりは自身の好みが反映されている事が悔やまれる。

周囲を見渡しても同じような樹木や植物が鬱蒼と咲いてるだけだった。

仕方がない。先ずは歩こう。

諦めたように歩を進めて十数分は過ぎただろうか、喉は乾き足には疲れが出てきた。

変わらない景色に不安が増してきた頃、前方の景色が僅かに開けてきた事に気づく。

(疲れた、水が欲しい。休みたい)

期待に歩調が速まり、心音と呼吸が荒れる。

首筋と背に汗が滲む中たどり着いたのは、ぽっかりと開けた野原だった。

「もう、無理」

心と体が崩れそうになり、膝を付きたくなった時、野原の奥に希望が見えた気がした。

まだ少し遠いが青空を映すような青と陽光を反射するような小さな輝き。

再び立ち直すと、その輝きへと歩を進めていく。

一歩一歩疲労で重い足を進めていくと、その正体が鮮明に見えてくる。

池だ。幾つもの円い睡蓮の葉と緑色の睡蓮が咲き浮かんでいる小さな池だった。

本音を言えば湖や川、湧き水があれば嬉しかったのだが、背に腹は代えられない。

懸命に歩を進め池の端にたどり着くと、私は崩れるように膝を着いた。

「はぁ…はぁ…っん…はぁ」

乱れる呼吸の間に、両手で掬った池の水を喉に流し込むと、ひんやりとして僅かに甘い水が喉から食道。そして胃へと流れていく感覚が心地良く感じる。

二掬い程飲み終えると、私はふと我に返った。

池の水を飲んでしまった。

こんな寄生虫や細菌がいても可笑しくない危険な水を。

池の底が僅かに見える程澄んでいるとはいえ、安全という保障など欠片ほども無い水を。

背中から腰に掛けて、現実が思考を冷めさせていく。

「…な……じょ…」

焦りと不安で動けずにいると、少し離れたところから女性の声が聞こえた気がした。

驚き顔を上げた事で、幾つかの事に気が付いた。

前面に広がる水面には、求めていた緑色の睡蓮の花が幾つも咲いている事。

そして、私から二十数歩離れた池の端に膝を崩して横座りしている、白いノースリーブワンピースを着た濃い紫の長髪の女性がいる事に。

「此処は、この花は…っ」

急ぎ問いかけようとした瞬間、私の視界は懐かしい天井を捕えていた。

三年前に良く見ていた、私の部屋の天井だ。

「あれは…」

寝起きで掠れた小声は、数多の疑問で途切れていく。

長年気に留めていた緑色の睡蓮。

数年振りの帰省と、父の言葉の意味を思い過ぎていたのだろうか。

朧げな夢の中で見た幾つもの睡蓮は、淡く透き通るような翡翠色で実に綺麗だった。

まるで薄い硝子で作られていたような。

「けほっ、ごほっ…はぁ」

呆けた思考を叩き起こすかのように、喉から咳が込み上げてくる。

仕事の疲れか帰省のストレスだろうか。

少し風邪が悪化したのかもしれない。

母の体調を重んじての帰省だというのに、私自らがこれでは致し方ない。

スマホの時刻は朝の五時過ぎを示していた。

このまま二度寝をするのも悪くはないが、今日は母の病院に付き添わなくてはいけない。

ベッドから身を起こして、薄灰色のブラウスと深緑のフレアスカートを身に着け、髪を丁寧に梳いていく。

今日も暑くなるのだろうか。実家の薬箱に風邪薬と紙マスクが残っていれば良いが、無ければ途中で買わなければならない。

母の体調もそうだが、病院に付き添った結果、他の人達に風邪をうつしては申し訳が無い。

念のために白のカーディガンを一枚片手に取り、私は一階へと静かに降りて行った。


 ※※※


トーストと温かいコーヒー。簡単なグリーンサラダという朝食を母と共に済ませてから、私達はタクシーで病院へ向かった。

病院は父が通っていた所と同じ、市立病院である。

実家と駅の中間にあるこの病院は、医師や看護師の対応が良いと評判で、それは母も私も納得のいくものだった。

予め入院の予約はしていたので、受付を終えるとすぐに年配のふくよかな女性看護師が母を迎えに来てくれた。

年配の看護師は人当たりが良く、少し緊張していた母の心は、病室への道中だけで大いに解れていく。

「娘さんも久しぶりね。お母さんの事は私達が確りサポートするから、貴女は自分の風邪を治す事に集中しなさい」

明るく笑う看護師に、私も苦笑を返す他が無い。

案内された四人部屋の病室は、空きベッドが二つと、窓際に他の患者のベッドが一つ。そして母のベッドは、それと対角線となる廊下近くに用意されていた。

「他に必要な物は無い?」

自宅から持ってきた荷物を整理しながら問う私に、母は途中の自販機で買ってきた冷たいスポーツドリンクを飲みながら微笑んだ。

「来る前に何度も確認したし、大丈夫よ。何かあったら連絡もするから」

すっかり落ち着いている母の言葉に、私が念のために確認を繰り返そうと薄く口を開く。

だが、それも母の言葉に止められてしまった。

「本当に大丈夫だから。私の事を思ってくれるなら、早く風邪を治しなさい」

そう止められてしまっては、私も返す言葉が無い。

「じゃあそろそろ帰るけど、困った事とか何かあったら何時でも連絡してね。そのために帰ってきたんだから」

心配な気持ちを心中に抑えて言う私に、母が帰路を促す。

「分かっているわよ。ほら、早く帰ってゆっくり休みなさい。私の退院日に貴女が風邪で入院にでもなったら、それこそ笑えないわよ」

母の笑い交じりの言葉に私も苦笑を一つ浮かべると、病室を後にした。

病室からナースセンター。一階ロビーへと進み、私はふと大きな硝子壁越しに見える中庭の前で立ち止まる。

ベンチの一つも無い、五十か六十弱平方メートルの芝生広場。

彩りか四季の移ろいを示しているのか、両脇には石造りの花壇があり、黄色や橙色のマリーゴールドと、白に青。赤紫色のペチュニアが元気に咲いている。

(やっぱり、池も睡蓮も無い)

硝子越しに中庭を眺めながら、心の内で呟きを落とす。

現実の世界では、どれ程探しても緑色の睡蓮は無い。

私があの花を見つけられたのは、昨夜の夢の中だけだった。

夢に見てしまう程求めているのに、父の残した言葉の意味を知りたい。それだけなのに叶わない。

いっそ無かった事にして、忘れてしまえば憂いも消えてくれるだろうか。

父は最後まで私達家族を思い、愛してくれた。

それだけで済ませてしまえば良いじゃないか。

きっとそれが事実で、緑色の睡蓮なんていう言葉は空想の無意味な言葉だった。

そう思ってしまえば、それでいいはずなのに。私はまだ、確かめたいと願ってしまう。

中庭を前に立ち止まっていた足は、また一歩ずつ動き始めていく。

家に帰って、父の書斎を調べよう。

諦めるのはその後でも出来るのだから。

大好きだった父が残した言葉を、どんな形でも確りと消化する事で、私は前に進めるようになるんだ。

それが今の私に出来る事の一つなのだから。

そう心に言い聞かせて、私は家へと急いだ。


 ※※※


帰宅後に冷蔵庫にスポーツ飲料やゼリー飲料を片付けて、着替えもせずに二階の書斎へと籠った。

母が掃除をしていたとはいえ、室内は古い書籍の香りが染み付いて、それが心を穏やかにしてくれる。

「時代小説、純文学、歴史小説…けほっ…っ…はぁ」

本棚の多くは古い小説だが、一部に辞書や植物図鑑もあった。

実家に居るのもあと四日。棚の本は二百冊以上あると見た。

一冊ずつ丁寧に読んでいては時間が足りないだろう。

「優先順位を付けないと。辞書は関係が低そうだから、先ずは植物図鑑。次に小説ね」

時折り小さく咳を落として、私は丸椅子に座り懸命に書籍を読み重ねていく。

古ぼけた分厚い植物図鑑を五冊全てを読み返しても、やはり緑色の睡蓮について描かれている物は一冊も無い。

私は次に歴史小説を手に取った。

何でもいい。どんな僅かな情報でも切っ掛けとなるならば。

そう願い黙々と読み漁っていたが、ふと部屋の壁掛け時計を見ると、時刻は夜の八時を過ぎていた。

五時間弱も同じ姿勢で本を読み漁っていた為、腰が痛い。

傍らのテーブルには読み終えた図鑑と十数冊の歴史小説が積み重なってた。

思えば帰宅後すぐに書斎へ籠ったため、朝から何も食べていない。

水分も帰宅前のコンビニで、アイスコーヒーを一缶買い飲んだのが最後だ。

傍らのスマホには、三十分程前に母からのメッセージが着ていた。

内容は私の体調への心配と、冷蔵庫に作り置きのおかずがある事。

ご飯も冷凍してあるものを温めて良いとの事だった。

これは、夕飯の食事を終えた事を伝えなくては、また要らない心配を増やしてしまいそうだ。

もう少し本を調べたいが、病院の就寝時刻は夜の九時頃。

本を調べるのは後にして、今は夕飯と入浴を済ませてしまおう。

そう意識した事で、私のお腹から空腹を知らせる小さな音がなった。

喉の痛みも咳も未だに治りそうにないが、身体が栄養を求めているのが救いである。

本をテーブルに置くと、私は椅子から立ち上がり、両手を組んでゆっくりと身体を伸ばす。

同じ姿勢でいた身体がとても心地良く伸びる。

一息吐きながら伸びを終えると、私はスマホを手に書斎を後にした。


 ※※※

気が付くと見慣れた森の中にいた。

昨夜の夢と同じような、そんな深い森だった。

多くの場合、睡眠時に見る夢の記憶は目が覚めた瞬間に忘れたり、数時間も過ぎたら朧気になるものだろう。

だが、この森や池。水面に浮かぶ緑色の睡蓮の事は、何故か明確に覚えていた。

夕飯を終えて入浴を終えた後、淡い眠気を感じたのは覚えている。

呆けた思考では調べ物も進まないだろうと、早々に寝室のベッドに寝転んだのだ。

直ぐに眠りに落ちたのは、風邪と疲労感のせいだろうか。

何れにせよ、此処が昨夜と同じ夢の中である事は間違いないのだろう。

現に服装も昨夜と同じ衣服を着ていて、黙々と歩き進むと森が開けて野原に辿り着いた。

昨夜と違ったのは、数分も掛からず野原に辿り着けた事だろうか。

空も変わらず青く清々しい。

心地良いそよ風を感じながら、私は焦りそうな気持ちを抑えてゆっくりと緑色の睡蓮が咲く池へと近づいていく。

十数分程で一周出来そうな何の変哲もない池である。

だが、そこに浮かんでいる花が違う。

「緑色の、睡蓮」

喉の奥から細い消えそうな声が零れる。

この目で見たのは昨夜が初めてだったというのに、郷愁に触れたような声だった。

触れたいという欲に駆られて指先が小さく動いたその時、私とは違う声が聞こえた。

「駄目だよ」

優しく清々しい女性の声に、我に返った私は声の方へと振り向く。

私の立ち位置から十数歩先である左側の池の端に、腰の辺りまで綺麗に梳かれた濃い紫の髪。柔らかそうな白い肌を包む、白いノースリーブの女性が、池の端に足を横に崩して座っていた。

訝しく見つめている私と目が合うと、女性は涼むように瞳を細めて微笑を浮かべた。

「触れたいのは分かるけど、君には無理だよ」

楽しそうな声音の彼女に、私は疑問を重ねていく。

「此処は何?私が見ている夢なの?あの緑色の睡蓮は、父が緑色の睡蓮という言葉を言っていたの。調べても分からなくて、そもそも貴女は」

会話が通じると思うと、私の中から濁流のように問いが溢れていく。

知りたいという感情だけが溢れる私を、彼女が静かに制してくれた。

「一つずつ答えるよ。だから君も座ると良い」

慣れたような落ち着いた彼女の様子に、私も池の端で脚を横に崩して座る。

それと同時に彼女は口を開き始めた。

「此処は君の夢で有って、夢では無いよ。分かりやすく言うならば、此処に縁があり強く望む者だけが、個々の夢を通して立ち入る事が出来る空間といったところだろうか。父がと言ったね。ならばそれが縁になったのかもしれないな」

流れるように答える彼女に、私は改めて問う。

「夢で有って夢では無い。つまり普通の夢とかではないのね。貴女は誰?貴女も夢を通して此処にいるの?」

おぼろのような淡い理解しか出来ないが、聞きたい事は多いのだ。

私の問いに彼女は首を小さく振り、再び答えてくれた。

「此処に来る人達は君と同じで夢を通して来る者だけれど、私はそうじゃない。私は此処の悲睡蓮達と同じ、この空間と供に在るもの。この空間を整えて、君のような者達を迎え入れるものだよ」

そう告げる彼女は確かにどこか儚げで、現実離れした繊細な空気を感じた。

「ヒスイレン?翡翠色だから翡翠蓮?」

私は白いワンピースの彼女から、池に咲く緑色の睡蓮へと目を向ける。

透き通るような淡い緑は、確かに翡翠を薄く削って加工したような美しさがある。

繊細で簡単に砕け散りそうで、とても美しい。

「そういう意味に捉えられやすいけれど、悲睡蓮は悲しいのと睡蓮で悲睡蓮という名前なんだ」

再び私の心が睡蓮へと傾きかけた時、彼女は緑色の睡蓮、悲睡蓮の名を口にした。

翡翠蓮ならぬ悲睡蓮。

触れて、摘んで捕えたいと願いたくなるほどなのに、何故そんなにも物悲しい名なのか。

「ねえ、悲睡蓮の由来とかあるの?あるなら教えて。私はずっとあの花の事を知りたくて」

私は彼女の方へと振り向き、強く問いを投げかけた。

だが、次の瞬間は池も彼女も白い霧に包まれて、私の意識は途切れた。




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