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ミセリコルディアと罪の星  作者: 芦多羽 雲璃矢
デンドロビウム編

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第48話「死者の世界、小さな狂戦士」

 死者の国に風は吹かない。あるのは、肌にまとわりつく湿った瘴気と、永遠に明けない赤錆色の空だけだ。

 その静寂を、轟音が引き裂いた。

 ガギィィィンッ!

 鼓膜をつんざく金属音と共に、ラインツファルトの体は後方へと弾き飛ばされた。

 灰色の砂利を削りながら着地し、何とか体勢を立て直す。腕が痺れている。魔力を纏っていない生身の腕では、防御するだけで骨がきしみそうだ。

 だが、それは今や些細なことだった。

「冗談だろ。なんだその、懐かしい構えは」

 ラインツファルトは、土煙の向こうで獣のように嗤う影を睨みつけた。

 ボロボロの布を幾重にも巻き付けた小柄な剣士。顔は泥と乾いた血に覆われ、髪はフェルトのように固まり、性別すら判別がつかない。

 だが、その剣筋だけは――八十年という時を超えてもなお、彼の網膜に焼き付いているものだった。

 重心を極端に低く沈め、地面を噛むように踏み込む。そして、手首を柔らかく返しながら繰り出される、下段からの斬り上げ。

 かつて宮殿の庭園で、彼が師グスタフと共に彼女に教え込み、そして彼女が得意げに披露していた王家の剣術。

「……レティシア」

 問いかけは、暴風のような剣圧にかき消される。

「ァ、アアアアッ!」

 少女が吠える。

 それは言葉ではなかった。八十年の孤独が摩耗させた、魂の絶叫である。

 彼女が踏み込む。速い。

 手に握られているのは、赤錆びて原型を留めていない大剣。かつては王家の至宝として輝いていたであろう聖剣の成れの果てだ。

 ヒュンッ!

 物理法則を無視した軌道で、錆びた刃が襲いかかる。

「くっ!」

 ラインツファルトは紙一重で回避する。

 今の彼は、アグライアの慈悲を受け入れるために魔力を極限まで封印している。身体能力だけでこの猛攻を凌ぐのは、薄氷の上を走るようなものだ。

 だが、反撃できない理由はそれだけではない。


(……ずっと一人で戦ってたのか)

 ラインツファルトの胸を、剣撃以上の痛みが貫く。

 彼女は、ただ暴れているのではない。ラインツファルトがその背後に回ろうとすると、彼女は過剰な反応で立ち塞がる。

 その立ち回りは、背後にある「何か」――この死者の国の中枢へと続く道を守るように、一定のラインから先へは決して敵を踏み込ませないものだった。

 あの日、グスタフから託された首飾り。守ると誓ったはずの少女。

 自分が眠りについていた八十年の間、彼女はこの終わりのない死の世界で、たった一人で王としての責務を果たし続けていたのだ。

 誰にも知られず。誰にも褒められず。

 ただ、約束だけをよすがにして。

「レティシア、俺だ、ラインツファルトだ! 分からないか!」

 叫ぶが、彼女の濁った瞳に理性の光はない。そこに映っているのは、かつての親友でも騎士でもなく、ただの排除すべき侵入者としての影だけ。

 彼女は忘れてしまっている。長すぎる戦いが、彼女から記憶も、言葉も、人間としての尊厳さえも奪い去ってしまったのだ。

「ウゥゥ、ガァァァッ!」

 少女が跳躍する。

 上空からの兜割り。単純ゆえに回避困難な技。

「しまっ――」

 ズドンッ!

 防御の上から叩き潰され、ラインツファルトは瓦礫の山へと叩きつけられた。肺の中の空気が強制的に吐き出される。口の中に鉄の味が広がる。

 意識が飛びかける中、追撃の気配が迫る。

 まずい。今の状態ではジリ貧だ。かといって、彼女を傷つけるわけにはいかない。

 少女がトドメを刺そうと、大剣を振り上げたその時だった。

 ヒュオォォォ……。

 不気味な風切り音が、赤い空を震わせた。

 その異質な音に、少女がピタリと動きを止める。

 ラインツファルトもまた、瓦礫の中で身を起こし、空を見上げた。

「……嘘だろ」

 赤い空に、白い亀裂が走る。

 ガラスが割れるような音と共に、空間が裂けた。

 そこから滲み出してきたのは、ヘドロのような白い影。

 人の形をしているようで、していない。翼が生えているようで、それは無数の刃の集合体にも見える。

 次元を超えて、なお対象を救済しようとする、魔剣ミセリコルディアの影だ。

『……オヤスミ……ナサイ……』

 壊れたレコードのような声が響く。

 その影は、地面に倒れたラインツファルトへ向かって、一直線に降下を開始した。

 速い。レティシアの剣撃すら上回る速度。

「ちっ! 死んでも逃がさないつもりか!」

 ラインツファルトが悪態をつき、折れた剣の柄を握りしめる。

 迎撃は間に合わない。回避も不可能。

 その刹那。

 ドンッ!

 ラインツファルトの目前、白い影が激突する寸前で、横合いから飛び出した何かが、それを弾き飛ばした。

「……え?」

 ラインツファルトは目を見開いた。

 彼の前に立っていたのは、あの狂戦士――レティシアだった。

 彼女はラインツファルトに背を向け、空中のアグライアを威嚇するように、牙を剥き出しにして唸っている。

「ガァァァァッ!」

 なぜだ。

 なぜ、俺を襲っていたお前が、俺を守る?

『……ジャマヲ、スルナ……』

 白い影が、不快そうに歪む。

 無数の刃が展開され、レティシアへと向けられる。

 対するレティシアは、赤錆びた大剣を構え直した。その構えは、先ほどまでのような獣のものではない。

 背筋を伸ばし、切っ先を敵の喉元へ向ける。

 堂々たる、王の構え。

 自分の獲物を横取りされることへの怒りか、それとも――魂の奥底、理性のさらに深い場所に焼き付いた、何かを守るという本能か。

「ウゥゥ……オォォォォォッ!」

 咆哮一閃。レティシアが地を蹴った。赤錆びた剣が白銀の影を迎え撃つ。

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